第二話
放課後のチャイムが鳴るや否や、俺は解放感と共にカバンを掴んだ。昼休みに午後の授業のかったるさを愚痴っていたクラスメイトたちが、蜘蛛の子を散らすように部活動へと向かっていく。
「陽太くん、今日の部活は?」
隣の席の美月が、プリントをまとめながら声をかけてくる。
「悪い、今日はパス! ちょっと野暮用」
「そっか。あんまり寄り道しないで、まっすぐ帰るんだよ?」
「わかってるって」
母親みたいな心配性の委員長に苦笑いを返し、俺は足早に教室を後にした。
向かう先は、学校と家の中間地点あたりにある、古びた喫茶店だ。
この世界に来てまだ馴染めなかった頃、一人で落ち着ける場所が欲しくて偶然見つけたのが、この店だった。壁一面の古本、コーヒーの香ばしい匂いと古い紙の匂いが混じり合う、静かで、最高の隠れ家。
「よう、陽太くん。いらっしゃい」
カラン、とドアベルが鳴ると、カウンターの奥からマスターが気さくに声をかけてくる。俺が軽く手を上げて応えると、マスターは顎で店の一番奥の席を示した。
「雫、もう待ちくたびれてるぞ」
「へいへい」
目的の人物は、窓際の席でスマホに視線を落としていた。
艶のある黒髪を肩まで伸ばし、片方だけ耳にかけて銀色のピアスを覗かせている。俺とは違う、上品な色合いのブレザーは、この近辺では有名な私立のもの。同じ高校一年生のはずだが、その姿は妙に大人びて見えた。
彼女――黒崎雫は、この店のマスターの一人娘だ。
ここの常連になったある日、マスターに「うちの娘が数学で赤点取りそうなんだ。見てやってくれねえか」と頼まれたのがきっかけだった。その代わり、「いつ来ても一日一杯は無料」という、俺にとっては最高の契約が結ばれている。
俺の足音に気づいたのか、雫はゆっくりと顔を上げた。そして、名残惜しむように親指で画面を一度撫でてからスリープさせ、テーブルに置く。
「……遅い」
「すまんすまん!先生の話が捕まると長くてさあ」
俺は両手を合わせて軽く謝りながら、彼女の向かいの席に腰を下ろす。雫は無言でスマホをカバンにしまい、代わりに付箋だらけの数学の問題集を机に置いた。
「珍しいな、黒崎がそんな熱心にスマホ見てるなんて。なんか面白いもんでもあったか?」
俺が何気なく尋ねると、雫は一瞬だけ視線を泳がせた。
「……別に。……駅前の、クレープ」
ボソッと呟かれた意外な単語に俺が反応する前に、彼女は咳払いをして、いつものクールな口調に戻った。
「早く始めて。時間は有限なんだから」
彼女は問題集を開いて、俺に質問をはじめた。
「……ここ、なんでこの式になるの」
しばらくして、雫が細い指でノートの一点を指し示す。
「ああ、そこは先にこっちの公式を当てはめないと解けないんだ。補助線をここに引くと……」
俺がノートに書き込みながら説明しようと、少し身を乗り出した時だった。思ったより距離が近くなってしまい、彼女のフローラル系のシャンプーの匂いがふわりと香る。
雫はびくりと肩を揺らし、さっと顔を背けた。
「……説明、聞こえづらい」
「あ、悪い」
俺は何でもないように体を引いたが、視界の端に映った彼女の耳が、ほんのり赤く染まっていたような気がした。西日のせいだろうか。
一通り説明が終わると、俺はマスターに手を上げて「マスター、ココア一つ」と注文した。
「……子供舌」
ノートから顔を上げずに、雫がぽつりと呟く。
「うるせえ。疲れた頭には甘いもんだろ」
運ばれてきたココアのソーサーには、店のサービスだろう、小さなバタークッキーが二枚添えられていた。俺はココアを一口すすると、何気ない仕草でそのクッキーのうちの一枚をつまみ、雫の前に差し出した。
「え……?」
雫が驚いて、ペンを走らせる手を止めて顔を上げた。その大きな瞳が、戸惑ったように俺を見つめている。
「……なに、これ」
「糖分。それくらいないと、頭働かないだろ」
俺がこともなげに言うと、雫は信じられないものを見るような目でクッキーと俺の顔を交互に見た後、気まずそうに視線をそらした
「……別に、頼んでない」
そう言いながらも、その細い指が、ためらうようにクッキーへと伸びる。そして、小さな口にそれを運び、こくりと飲み込んだ。
勉強を終え、外が薄暗くなった頃、俺はカバンを肩にかけた。
「じゃあな。今日はここまで」
「……うん」
雫も片付けを始め、店のカウンターの中へと入っていく。俺がドアに手をかけた時だった。
「……待って」
呼び止められて振り返ると、雫がカウンターから出てきて、俺の前に立っていた。そして、自分のスクールバッグから、少し日焼けした一冊の古本を取り出す。
「……これ」
ぶっきらぼうに差し出されたのは、俺があの日、この店の本棚を探しながら「初版本、どこにもないかなあ」と呟いていたSF小説だった。
「アンタが前に、探してたやつ。……たまたま、別の店で視界に入っただけだから」
「え、マジか!覚えててくれたのか!サンキュ、黒崎!」
俺が思わず声を弾ませると、彼女は少し俯く。
「別に。……勘違いしないで」
そう早口でまくし立てる彼女の耳は、もう西日のせいだとは言えないくらい、はっきりと赤かった。
「じゃ、じゃあ」と言い捨てて店の中に戻ろうとする彼女の背中に、俺は思わず言った。
「お礼はさ、駅前のクレープでいいか?もちろん、俺の奢りで」
振り返った雫は、一瞬だけ驚いたように目を見開く。そしてすぐに前を向き、今まで聞いた中で一番小さな声で、こう呟いた。
「……わかってる」
夕日が明るく、彼女の美しい黒髪を照らしていた。
クールぶってるけど、ああいうとこ見ると、やっぱり普通の女子高生なんだな。薄暗くなった住宅街を歩きながら、俺はそんなことを思った。
手の中の古本の温かさを家に帰るまでずっと残った。
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ストックが増えたので、昼の更新となりました。
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