第十五話
あれから数日。
プレッシャーは、日増しに強くなる一方だった。
大型コラボの台本は何度も書き直させられ、ダンスレッスンでは振りを間違えてばかり。マネージャーからはため息をつかれ、同期からは心配そうな、でもどこか憐れむような目で見られる。
家に帰っても、待っているのはアンチコメントの巡回と、次の配信への不安だけ。
心が、悲鳴を上げていた。
もう、限界だった。
そんな時、私の頭に浮かぶのは、たった一人のヒーローの顔――いや、名前だけだった。
『ボイスチャット、繋いでみねえ?』
あの日の彼の言葉が、何度も何度も、頭の中で繰り返される。
ダメだ、そんなこと。絶対に、ダメ。
でも、もう、一人でいるのが、耐えられない。
誰かの声が聞きたい。ううん、違う。
「Hiyotaさんの声が、聞きたい……」
ぽつりと、自分でも驚くような本音が、唇からこぼれ落ちた。
そう自覚してしまったら、もう、止まれなかった。
深夜。私は震える指でゲームにログインし、フレンドリストを開く。
彼の名前は、緑色に光っていた。ログインしている。
私は意を決して、彼がいるという辺境のフィールドへと飛んだ。
月明かりだけが照らす、静かな丘の上。
彼は一人、景色を眺めるように、そこに佇んでいた。
私は、彼の少し後ろにそっと立つ。
チャットウィンドウを開き、何度も文字を打っては、消した。
心臓が、痛いくらいに速く脈打っている。
でも、ここで逃げたら、私はきっと、本当に壊れてしまう。
『……Hiyotaさん、こんばんは』
『お、Yukiか。どうしたんだ、こんな時間に』
彼のチャットは、いつもと変わらず穏やかだった。
私は深呼吸を一つすると、この数日間、ずっと考えていた言葉を、打ち込んだ。
『……お願いが、あります』
『この前のこと、ごめんなさい。……ボイスチャットは、できません』
『でも、もし、もしよかったら……』
『Hiyotaさんの声だけを、少しだけ、聞かせてもらえませんか……?』
『私は、話せません。……聞いている、だけ、ですけど……』
それは、ルール違反と自分のプライドの間で考え出した、精一杯のSOSだった。
気持ち悪いと、思われたかもしれない。面倒な奴だと、愛想を尽かされたかもしれない。
数秒の沈黙が、永遠のように感じられた。
『なんだ、そんなことか。おう、いいぜ』
彼の返事は、あまりにも、あっけらかんとしていた。
拍子抜けするくらい、優しいその文字に、視界が滲む。
すぐに、画面の端にボイスチャットの招待通知が表示された。
私は震える指で、その「承認」ボタンをクリックした。
ヘッドセットを、ぎゅっと握りしめる。
『もしもし、聞こえるか? Yuki』
――どくん。
心臓が、大きく跳ねた。
ヘッドセットから聞こえてきたのは、私が想像していたよりも少しだけ低くて、落ち着いた、男の子の声だった。
え、男の人……?
今まで、名前やアバターから、勝手に同性の人だと思い込んでいた。
その事実に、私の頭は真っ白になる。
『あれ? Yuki? 聞こえてっかな?』
「……あ」
思わず、声が漏れた。
しまった、と慌てて口を押さえる。
『おお、なんか声聞こえたような? まあいいや。聞こえてるなら、なんかスタンプでも送ってくれ』
彼の言葉に、私は慌てて、ぺこりとお辞儀をするスタンプを送った。
どうしよう。男の人だったなんて。
でも、不思議と、嫌な感じは少しもしなかった。むしろ……。
「……なんか、安心する、声……」
ぽつりと呟いた独り言は、マイクが拾うことはない。
そこから、二人だけの、不思議な時間が始まった。
彼は、私が何も話さないのを気にするでもなく、一方的に、楽しそうに話をしてくれた。
学校であったくだらない話。最近ハマっている漫画の話。このゲームの思い出話。
彼の話は、取り留めもないけれど、とても優しくて、温かかった。
「……って、わりい、俺ばっか喋ってるな。なんかさ、Yukiが黙って聞いてくれてるって思うと、安心して、つい調子乗っちまうわ」
照れくさそうに笑う彼の声が、ヘッドセットを通して、直接私の心に響く。
私は何も話さない。ただ、彼の声に、耳を澄ませる。
コメントや数字に評価されるための声じゃない。私を値踏みする声でもない。
ただ、私だけのために届けられる、温かい声。
それだけで、張り詰めていた心の糸が、ゆっくりと解けていくのを感じた。
涙が、止まらなかった。
でも、それは、悲しい涙じゃなかった。
しばらくして、彼の話が途切れたタイミングで、私はチャットを打った。
『ありがとう、ございました。……もう、大丈夫です』
『そっか。なら、よかった』
彼の優しい声に送られて、私はボイスチャットを切った。
しん、と静まり返った部屋。
でも、さっきまでの孤独感は、どこにもなかった。
耳の奥に、まだ彼の声が、温かく残っている。
彼の声は、ボロボロだった私の心を優しく包み込む、世界で一番効く、薬になった。
そして、私は、この時、はっきりと自覚してしまったのだ。
Hiyotaさんへのこの気持ちが、ただの憧れや尊敬なんかじゃない、もっとずっと甘くて、どうしようもないくらい特別なものなんだってことを。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございます!
少しでも「面白いな」「続きが気になるな」と思っていただけたら、ぜひ下の評価ボタン(★★★★★)をポチッと押して応援していただけると、作者がめちゃくちゃ喜びます。