第十三話
あのクレープ事件から数日が経った、ある日の放課後。
俺はスマホを見ていて、思わず「お!」と声を上げた。
『待望の続編、本日発売!』
画面に表示されていたのは、俺と黒崎が初めて出会ったきっかけの、あのSF小説の広告だった。
マジか、今日発売だったのか。
(……黒崎も、買いに行くかな)
そう思った瞬間、俺は気づいたらカバンを掴んで、教室を飛び出していた。
向かうは、もちろん、あの駅前の大型書店だ。
ガラス張りの自動ドアをくぐり、人でごった返す店内に入る。平日の夕方だというのに、さすが大型書店、客足は絶えないようだ。
俺は他の棚には目もくれず、エスカレーターで新刊コーナーのある2階へと直行した。
あったあった、一番目立つ場所に作られた特設コーナー。
シリーズ全巻がずらりと並べられ、中央には待望の最新刊がピラミッドのように積み上げられている。ポップには「全宇宙が、この結末を待っていた!」なんて、大げさな煽り文句が書かれていた。
逸る気持ちを抑えながら、俺はその山の一冊に手を伸ばそうとした。まさに、その時だった。
横から、すっと白い手が伸びてきて、俺の目の前にある本を、まさに同じタイミングで手に取ろうとしたのだ。
指先が、ほんの少しだけ、触れる。
「あ」
「……あ」
声が、ハモる。
隣に立っていたのは、やっぱり、黒崎だった。
「……奇遇だな」
俺がそう言うと、彼女は「……別に」とそっぽを向きながらも、その口元は、少しだけ嬉しそうに緩んでいた。耳が、ほんのり赤い。
「まあ、あんたがここにいるのは、なんとなく分かってたけど」
「……どういう意味」
「いや、なんでもない」
まあ、こうなる気は、してたけどな。
お互いに新刊を手に取った後、俺たちはどちらからともなく、レジとは反対方向へ歩き始めていた。
「せっかくだし、他の棚も見ていかねえ?」
「……別に、構わない」
普段は無口でクールな黒崎が、本の話をしている時だけは、饒舌になる。
俺も、ネトゲ以外にこんなに夢中になれる話題は、他にない。
気づけば俺たちは、おすすめの本を紹介し合ったり、好きな作家のことで熱く語り合ったりしていた。
(……やっぱ、楽しいな、こいつと話してんの)
男嫌いだというこいつが、俺といる時だけは、こんなに楽しそうに笑う。
その事実が、なんだか無性に、嬉しかった。
日が傾き始め、俺たちはようやく満足して、二人並んでレジへと向かう。会計を済ませて、買ったばかりの本が入った紙袋をぶら下げながら、書店の出口へと歩いた。
楽しい時間は、あっという間に過ぎるもんだ。
「じゃあな、黒崎。また、店行くわ」
俺がそう言って手を振ると、彼女は「……うん」と小さく頷いた。
いつもなら、ここで「さよなら」のはずなのに。
なぜか、このまま別れるのが、少しだけ名残惜しく感じてしまう。
だから、俺は、思ったことを、そのまま口にした。
「やっぱ、黒崎と話してると、時間経つの早いな。あんたと本屋来んの、結構好きだわ、俺」
何の気なしに、本当に、ただ思っただけの言葉だった。
でも、その言葉を聞いた瞬間、黒崎の肩が、びくりと震えた。
彼女は、驚いたように目を見開いて、俺の顔をじっと見つめてくる。
その、吸い込まれそうな瞳に、今度は俺の方が、ドキッとしてしまった。
「……じゃ、じゃあな!」
なんだか気まずくなって、俺はそそくさとその場を後にした。
今日の俺、なんかおかしい。黒崎といると、どうも調子が狂う。
駅までの道を歩きながら、俺は今日の出来事を反芻していた。
本の話で盛り上がったこと。
楽しそうに笑う、あいつの顔。
そして、最後に俺の言葉を聞いた時の、あの真剣な表情。
(……また、本屋、行きたいな)
次のおすすめの本を、聞き出す口実でも作って。
そう思った俺の顔は、きっと、自分でも気づかないくらい、緩んでいたに違いない。
店に帰り、自室のドアを開ける。
私の部屋は、白と黒、グレーで統一された、ごくシンプルな空間だ。余計な装飾は何もない。壁の一面を占める大きな本棚だけが、この部屋の主が誰であるかを主張していた。
今日買ってきたばかりの新しい本を、本棚の定位置にそっと差し込む。
でも、すぐにページを開く気にはなれなかった。
代わりに、私は制服のポケットから、くしゃくしゃにならないように持ち帰ってきた、一枚の紙を取り出した。
先日、陽太と一緒に行ったクレープ屋のレシート。
なんとなく、捨てられずに取っておいた、ただの紙切れ。
ベッドに腰掛けて、それを指でなぞる。
それだけで、あの日の出来事が、すぐ隣で起きているかのように鮮やかに蘇る。
口元についたクリーム。
彼が、親指でそっと拭ってくれた時の、心臓が跳ね上がった感覚。
私は無意識に、自分の唇にそっと触れた。まだ、彼の指の感触が残っている気がして、頬が熱くなる。
友達に絡まれて困っていた私を、さりげなく守ってくれた時の、彼の広い背中。
そして――。
『ほら、お詫びに。ひと口やるよ』
いたずらっぽく笑いながら、彼が差し出してくれた、いちごのクレープ。
あの甘酸っぱい味と、初めて見た私の幸せそうな顔に、驚いて少しだけ顔を赤らめた、彼の表情。
(あの時、私は、ちゃんと笑えていた)
クールで、愛想がなくて、男嫌いな「黒崎雫」じゃない。
ただ、彼の隣で、素直に喜んで、素直にドキドキして、素-直に笑う、ただの女の子がそこにいた。
本屋での出会いも、店での再会も、今日のこの偶然も、最初は「運命」だと思っていた。
でも、違う。
今日の彼の、最後の言葉を、思い出す。
『あんたと本屋来んの、結構好きだわ、俺』
(……私だ)
この胸の高鳴りは、偶然を喜ぶものじゃない。
私が、彼ともっと話したいから。彼の隣にいたいから。
だからきっと、無意識に、同じ場所に引き寄せられていたんだ。
運命なんて、便利な言葉で片付けたくない。
これは、もっとずっと単純で、温かい。私の気持ち。
そう確信した瞬間、世界が、きらきらと色づいて見えた。
私は立ち上がると、デスクの上の、銀色の小さなトレイにそのレシートを置いた。
トレイの中には、もう一つだけ、私の宝物が入っている。陽太と出会うきっかけになった、あのSF小説のキャラクターが描かれた、少し古びた金属製のブックマーク。
男なんて嫌いだった私の、唯一の「好き」だったもの。
その隣に、新しい「好き」が、ちょこんと並んだ。
もう、迷いはない。
彼の隣こそが、私がずっと探していた、私の本当の居場所なのだと、静かに決意するのだった。
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