第十一話
「なあ、この問題の解き方なんだけど……って、黒崎?」
いつもの喫茶店。いつものカウンター席。
俺が数学の問題集を指差して声をかけると、隣に座る黒崎雫は、はっとしたように顔を上げた。
「……なに」
「いや、聞いてるか? さっきから心ここにあらずって感じだぞ」
今日のこいつは、どうも様子がおかしい。
いつもなら鋭い視線でノートを睨みつけているはずなのに、さっきから同じ問題集のページを睨みつけているだけで、シャーペンが全然動いていない。時々ちらちらと俺の方を見ては、何か言いたげに口ごもる。その繰り返しだ。
「……別に。ちゃんと考えてる」
そう言って、彼女はぷいとそっぽを向く。でも、その視線が店の壁にかかったカレンダーに向かっていることに、俺は気づいてしまった。
カレンダーの今日の日付に、赤いペンで、遠慮がちな小さな丸がしてある。
(あ……)
その瞬間、俺の脳内に電撃が走った。
そうだ、忘れてたわけじゃないけど、忘れてた。いや、タイミングを逃していた、が正しいか。
あの時、俺がずっと探してたSF小説の初版本を見つけてきてくれた御礼に、俺がクレープを奢るっていう約束。
カレンダーの丸は、間違いなくその印だ。
なるほど、それで今日はずっと集中できてなかったのか。
クールなこいつが、クレープの約束を気にして、こんな分かりやすい態度を取ってるなんて。
俺はそっとシャーペンを置くと、真面目なトーンで切り出した。
「なあ、黒崎」
「……なに」
「もしかして、集中できないのって、俺のせいか?」
「は……? どういう意味」
きょとんとする彼女に、俺は少し申し訳ない気持ちで続けた。
「いや、約束。……クレープ、まだ奢れてなかっただろ。もしかして、それが気になってたりするのかなって」
俺の言葉に、黒崎の肩がびくりと跳ねた。みるみるうちに、その白い頬が、耳まで、真っ赤に染まっていく。
「べ、別に! そんなの、気にしてない……!」
明らかに動揺しながら全力で否定する姿に、俺は思わず苦笑した。
「そっか。まあ、どっちにしろ、今日の勉強はもうおしまい。行こうぜ、クレープ。俺がずっと気になってたからさ」
俺がそう言って立ち上がると、黒崎は「……あんたが、どうしてもって言うなら」と俯きながらも、どこか嬉しそうに頷いた。
喫茶店を出ると、駅前は放課後の学生たちでごった返していた。
楽しそうに笑い合うグループ、腕を組んで歩くカップル、イヤホンをして足早に過ぎ去っていくサラリーマン。その喧騒の中、俺と黒崎の間には、少しだけぎこちない空気が流れていた。
「うわ、混んでるな」
「……別に。人混みは、嫌いじゃない」
そう言いながらも、黒崎は雑踏を避けるように、俺の半歩後ろを歩いている。そして、急に横から出てきた自転車を避けようとした時、彼女の手が、俺の制服の袖を遠慮がちに、きゅっと掴んだ。
おいおい、普段のクールで鉄壁な態度はどこ行ったんだよ。
その分かりやすいギャップに、俺は戸惑いながらも、なんだか目が離せなくなっていた。
目的のクレープ屋に着くと、店の前には案の定、長い行列ができていた。
「決まったのか?」
「……とっくに。あんたこそ、早く決めなさいよ」
ようやく俺たちの番が近づいてきた。
黒崎は「……チョコバナナ」と、一切の迷いなく店員に告げる。即決か。どんだけ好きなんだよ。
一方の俺は、ずらりと並んだカラフルなメニュー写真に完全に思考停止していた。
「えーっと、どうしよ……黒崎と同じのでいいか。すいませーん、チョコバナナもう一つ」
俺が安直に決めようとした、その瞬間だった。
「……待って」
隣から、静かな、でも有無を言わせぬ声がした。
黒崎が、メニューの一点を、細い指でまっすぐに指差していた。
そこにあったのは、生クリームの上に真っ赤ないちごがたっぷり乗った、一番華やかで、正直、ちょっと女の子っぽいクレープだった。
「……あんたは、こっち」
「え、俺、いちご?」
「そう。あんたの雰囲気は、こっちだから」
有無を言わせぬ真顔で、彼女はそう断言する。
いや、俺の雰囲気ってなんだよ。でも、そのあまりに真剣な瞳に、俺はなぜか逆らえなかった。
「地味なのは、あんたには似合わない」
ぽつりと呟かれた言葉に、俺は「……じゃあ、それでお願いします」と、つい頷いてしまっていた。
クレープを受け取り、近くのベンチに二人並んで腰掛ける。
黒崎は、さっきまでのそわそわが嘘のように、今は黙々と自分のチョコバナナクレープを幸せそうに頬張っていた。
その口元が、心なしか緩んでいる。
そんな無防備な顔、俺以外の奴には見せんなよな、なんて、らしくないことを考えてしまった。
「……なに、見てるのよ」
「いや、美味そうに食うなあって」
俺がそう言って自分のいちごクレープにかぶりつくと、彼女の視線が、ちらりと俺の持つクレープのいちごに向けられた気がした。
(もしかして、こっちも食べたかったのか……?)
そんなことを考えていると、黒崎の口の端に、ちょこんと白いクリームがついているのが見えた。
子供かよ、と心の中でツッコミながら、俺は思わず笑ってしまった。
「黒崎、ついてるぞ」
「え……?」
きょとんとする彼女に、俺は悪戯心が湧いてくるのを抑えられなかった。
気づいたら、俺の右手が伸びていた。
そして、その親指で、彼女の口元のクリームを、そっと拭ってやる。
「っ……!」
その瞬間、黒崎の体が、石になったみたいに固まった。
さっきまで美味しそうに動いていた口も、ぱかりと開いたままだ。
みるみるうちに、その白い頬が、耳まで、真っ赤に染まっていく。
その、あまりにも初心な反応に。
俺の心臓が、どきり、と大きく音を立てたのを、確かに感じていた。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございます!
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二日ぶりの投稿となってしまい申し訳ありません。コツコツ頑張っていきます!次回の投稿もお楽しみに!