第十話
ふわり、と消毒液の匂いが鼻をくすぐった。
重い瞼をゆっくりとこじ開けると、視界に飛び込んできたのは、見慣れない真っ白な天井だった。
(……ここ、どこだ……?)
体を起こそうとして、ずきり、と後頭部に走る鈍い痛みに顔をしかめる。
そうだ、俺、クラスマッチの決勝戦で、倒れ込んできた選手とぶつかって……。
「……ん」
視線を横に移すと、俺が寝かされているベッドの脇、丸椅子に座ったまま、俺の手をぎゅっと握りしめてうたた寝をしている人影があった。
夕日に照らされた、綺麗な横顔。
肩にかかる、ふわりとした黒髪。
「……天野?」
俺がかすれた声で呟くと、彼女の肩がぴくりと震えた。
ゆっくりと顔を上げた美月は、俺が目を覚ましたことに気づくと、その大きな瞳を驚きに見開いた。
「陽太くん……! よかった……気がついたんだね……!」
その瞳が、少しだけ潤んでいることに気づく。俺の手を握る彼女の両手は、びっくりするくらい冷たかった。
「……俺、どのくらい寝てたんだ?」
「一時間くらい……。先生は、軽い脳震盪だろうから、少し休めば大丈夫だって。でも、私、心配で……」
声が、震えている。
いつもの完璧な委員長の彼女じゃない。ただ、俺のことを本気で心配してくれている、一人の女の子の顔だった。
「ごめん。心配かけた」
「……ううん」
彼女はふるふると首を横に振った。握られた手の力が、少しだけ強くなる。
「試合、どうなったんだ?」
一番気になっていたことを尋ねると、美月は一瞬だけ、悲しそうに顔を歪めた。
「……負けちゃった。延長戦で、1点差」
「そっか……。俺がいなくなったからか。マジで、ごめん」
「謝らないで!」
俺の言葉を遮るように、美月が顔を上げた。その瞳には、涙の膜が張っている。
「陽太くんは、悪くない!悪いのは、私……。私が、最後のシュートを外したから……」
彼女の白い手の甲に、ぽつり、と涙が一粒落ちた。
それを見て、俺は気づいたら、空いている方の手で、彼女の頬をそっと拭っていた。
「っ……!」
驚いて顔を上げる彼女に、俺はできるだけ優しい声で言う。
「泣くなよ、美月。あんたが泣いてるとこ、俺、あんまり見たくない」
俺が初めて呼んだ名前に、彼女の体がびくりと固まる。
俺は構わず続けた。
「試合には負けたけどさ、俺は、今日の試合、めっちゃ楽しかったぜ。あんたがフリースロー決めた時とか、鳥肌立ったし。俺の中では、あんたがMVPだよ」
俺がそう言って笑うと、彼女の瞳から、堪えていた涙がぼろぼろと溢れ出した。
「……ずるい」
彼女は、しゃくりあげながら、そう呟いた。
「陽太くんは、ずるいよ……。いつも、そうやって、私が一番言ってほしい言葉を……くれるんだから」
しばらく、保健室には、彼女の静かな泣き声だけが響いていた。
俺は何も言わず、ただ、彼女が落ち着くまで、その涙を拭い続けた。
やがて、彼女の涙が止まった頃。
保健室の窓の外は、すっかりオレンジ色に染まっていた。
「……そろそろ、帰らないとな」
俺がそう言うと、彼女は名残惜しそうに、でもゆっくりと俺の手を離した。
その顔は、まだ少し赤い。
「送ってく。まだ頭、ふらふらするでしょ?」
「いや、もう平気だって。美月こそ、疲れてるだろ。今日はゆっくり休めよ」
そんなやり取りをしていると、美月が、意を決したように、俺の目をまっすぐに見つめてきた。
「ねえ、陽太くん」
「ん?」
「さっき……私のこと、名前で、呼んでくれたよね?」
「……ああ。なんか、委員長って感じじゃなかったから、つい」
「……そっか」
彼女はそこで一度、言葉を切った。
ごくり、と喉が鳴る。
「……もし、陽太くんさえよければ、なんだけど」
その唇が、ゆっくりと、紡ぎ出す。
「これからも、ずっと……名前で、呼んでほしいな」
夕日が差し込む、二人きりの保健室。
消毒液の匂い。
窓の外から聞こえる、運動部の掛け声。
その全てが、スローモーションのように感じられた。
彼女の、潤んだ瞳に見つめられて、断るなんて選択肢、俺の中にはなかった。
「……当たり前だろ。俺も、そっちの方が、いい」
俺がそう答えると、彼女は、今まで見た中で一番綺麗に、花が咲くように、笑った。
「……陽太くん」
柔らかく、愛おそうに、俺の名前を呼ぶ声。
その声だけで、後頭部の痛みなんて、どこかに飛んでいってしまいそうだった。
帰り道。
もう「委員長」と呼ぶのが気まずくなってしまった俺たちの間には、少しだけぎこちない、でも心地よい沈黙が流れていた。
夕日が作る、二つの長い影。
その距離が、ほんの少しだけ、近づいたような気がしたのは、きっと気のせいじゃない。
クラスマッチは負けたけど、俺は、それ以上に大きなものを、手に入れたのかもしれない。
そう、彼女の「特別」という名の、ご褒美を。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございます!
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遅れちゃってすいません。イベントはあと二つぐらい続きます。お楽しみに!