第三話『覚悟』
その怪物は点滅する外灯の下に音もなく現れた。
人のような背丈で、衣のようなものを纏っている。けれど、それは間違えようもなく人ではなかった。
その輪郭はハッキリしているけれど、目がどこにあるのか分からなかった。顔にあるべきパーツが何かを間違えたように配置されている。ただ、口だけははっきりと割けていて、まるで笑っているかのようにじっとこちらを見つめている。
衣は古い時代の喪服のようで、ところどころに焼け焦げのような穴が空き、和紙のような質感で月の光を鈍く吸っていた。
布の端には漢字のようなものが見えるけれど、読めたのは『死』だとか、『贄』だとかの物騒なものばかりだ。他の字は見た事もない複雑な字画をしていて読めない。
その足元にはあるべきものが無かった。影だ。外灯の真下にいるというのに影がない。
「……なんなんだ、お前は」
パパの仇を前にして、心は不思議と凪いでいた。
恐れるでもなく、怒るでもなく、頭の中に浮かぶものは疑問ばかりだ。
『グォォォォォォ』
その鳴き声に違和感を感じる。間近である筈なのに、どこか遠い。まるで、ガラス越しに聞いているかのようだ。
怪物がゆらゆらと身体を傾けながら近づいてくる。けれど、衣擦れの音もなく、足音すらしない。
そこにいるのに、まるで、そこにいないかのようだ。
やがて、怪物は立ち止まり、口をゆっくりと開いた。その奥から漏れた声はやはり遠く、掠れている。
『た……て……、さ……き……』
うまく聞き取る事が出来ない。けれど、それは言葉に聞こえた。
一年前、パパの会社に現れた怪物と同じ奴だと思う。だけど、様子がおかしい。
怪物が手を伸ばして来た。襲い掛かろうとしている。オレは後ろに飛び退いた。
「な、なんだぁ?」
怪物は空を切った手を不思議そうに見つめている。あまりにもとろくさい。
逃げようと思えば逃げられそうだ。だけど、こいつをこのままにしておいて良いのかという疑問が過ぎる。
何が出来るわけでもない。それでも、ここで何もしないで逃げるのはダメな事に思えた。
「この野郎!!」
その腹に拳を叩きこんだ。だけど、ピクリともしない。
『グォォォォォォ』
怪物は雰囲気が変化した。裂けた口が笑いとも呻きともつかない音を漏らし、腕を伸ばしてくる。
反射的に後退れたのは、まさしく奇跡だ。それから二歩三歩と後ろに下がれた。けれど、そこで奇跡は打ち止めとなった。
背中が壁にぶつかってしまった。それでも諦めずに右へ逃げようとした。その判断が誤りだった。避ける方向を間違えた。運が悪いにも程がある。そこには電信柱が立っていた。
「グエッ!?」
電信柱に思いっきり体をぶつけてしまった。衝撃で意識が飛びそうになる。だけど、必死に繋ぎ止めた。ここで寝たら死ぬ。目の前の怪物に殺されて終わる。そんなのはイヤだ。
オレはまだ何も出来ていない。アキラを見つけられていない。謝れていない。お礼も言えていない。アキラに会えないまま、こんな所で終われるわけがない。
やるべき事が残っている。だから――――、
「―――― こんの野郎!!」
覆い被さろうとして来た怪物の懐を転がるように潜り抜けた。すると、ポケットに入れていたブローチが転がり落ちた。
「やべっ!」
慌てて拾うと、やけに熱く感じた。
「おわっ!?」
けれど、それを気にしている暇はない。怪物は本調子を取り戻したようだ。一年前のあの時のように荒々しく暴れ始めた。
オレは今度こそ壁のない方向へ走り出した。
何かしたかったけれど、やっぱり無理だ。ここは逃げるしかない。
『グォォォォォォォォ!!』
雄たけびを上げながら、怪物が追いかけて来る。さっきよりも、声が近くに感じた。
五歩進んだ時、唐突に足音が鳴り響き始めた。
「グオオォォォォォォォォォッ!!!!」
今度こそハッキリと、その雄たけびは轟いた。
目に見える距離と感じる距離の差がゼロになった。怪物は間違いなく、ソコにいる。
「クソッ!!」
足も明らかに早くなっている。オレのブランクを一切感じない快足でも、遠からず距離を詰められてしまいそうだ。
本気でまずい。判断を誤った。遭遇した時点で逃げの一手を打つべきだった。
「グオォォォォォォォ!!!」
迫って来る。距離が縮まっていく。
「うわぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
恥も外聞もない叫び声を上げてしまった。だけど、助だけは意地でも呼ばない。
パパみたいに、オレを守る為に誰かを犠牲にするなんてイヤだ。
「グォォォォォォォォ!!」
だけど、死にたくない。
だけど、立ち向かうには力が足りない。
だけど、もう逃げられない。
だけど、だけど、だけど、それでもオレは生きていたい!
―――― その時、一陣の風が吹いた。
無風だった夜に、不自然なほどの鋭い風。月明かりの中、すらりと立つ少女の影がオレと怪物の間に割り込んで来た。
白い肌に黒い髪。制服のような衣の上に、どこか古めいたマントを羽織っている。その姿は一見すると人間の少女そのものだったけれど、なにかが決定的に違っていた。
まるで、意識のどこか深い所がそれを拒否しているかのように、直視すると胸の奥がざわつく。それでも、オレは視線を逸らせなかった。
少女はオレを見た。どうしてか、彼女は少しだけ微笑んだ。その微笑みを見ていると、ざわつきは更に大きくなった。まるで、イヤな予感が的中したかのようだ。焦燥感にも似た感覚が襲い掛かって来る。
「……君は一体」
少女はオレの問いかけに答えず、怪物に向き直った。そして、腰に差していた日本刀を静かに抜いた。
禍々しさを感じる赤い輝きを帯びた刀身。シャリンと夜に響く、冷たい金属音。その音は悪夢のような現実の中で異様に鮮明だった。
少女は言葉を一言も発する事なく、怪物へと向かって行く。その動きは、まるで舞踊のように優雅で、そして迷いが無かった。
刀が夜気と共に怪物を切り裂く。怪物はうめき声を上げながら後退った。夜闇のせいか、真っ黒に見える血が夜の舗道に滴る。
けれど、怪物は倒れない。その裂けた口を更に大きく鋭利に広げ、両腕を大きく広げた。すると、その腕は複数に枝分かれして、鞭のように少女へ向かって襲い掛かる。
「避けろ!!」
オレが叫ぶと、少女は体を捻って回避した。けれど、鞭を一本ではない。
「安心するな!! まだ来るぞ!!」
少女は刀を盾にして逸らし、飛び上がり、踏み止まる事で直撃だけは避けている。けれども、その身体は徐々に傷ついていく。
彼女の身から徐々に光が零れ始めた。それが何を意味しているのかは分からない。ただ、このままではまずいと思った。
「逃げろ!! オレの事はいいから、早く!!」
彼女はオレに向かってほほ笑んだ。あの怪物に挑むのは、きっと、オレを守る為だ。そんな事の為に、これ以上無茶はさせられない。
パパのようにオレのせいで誰かが犠牲になるなんて、絶対にイヤだ。
だから、そう叫んでしまった。
「ッ…………!!」
一瞬の隙があった。その隙を怪物は見逃さなかった。怪物の腕が彼女の腹を貫いた。
声を発さなかった。ただ、苦痛に耐えるように目を見開き、地面へと崩れ落ちた。
オレのせいだ。彼女が隙を見せてしまったのはオレが叫んだせいだ。
「バカヤロウ!!!」
飛び上がるように立ち上がって、走り出した。何が出来るわけでもない。だけど、動かないわけにはいかなかった。
彼女の傷はどう見ても致命傷だ。助かる可能性は万に一つもない。
まただ。オレのせいでまた犠牲者を出してしまった。
だから、せめてあの怪物だけは倒す。彼女の刀を拾って、あの怪物が死ぬまで斬り続ける。オレも殺されるだろうけれど、死ぬ前に殺し切る。
「うおぉぉぉぉぉ!!!」」
地面に転がっている彼女の刀に手を伸ばす。けれど、刀は地面に吸い込まれるように消えてしまった。
「なっ!?」
拾えなかった。何が何だか分からない。だけど、構わない。だったら、殴るだけだ。効果が無かろうと関係ない。殴って殴って殴りまくって、殴り殺す。
怪物に対する殺意。それだけがオレの心を満たし切った。すると、ずっと握り締めていたブローチが更なる熱を帯び始めた。
「……ッ、なんだよ……、これ……ッ」
ブローチが光っている。それは少女の体から零れ始めた光と同じ色の光だった。
表面にはそれまで見えていなかった文字が浮き出している。
『神器』
その文字を頭の中で読み上げた途端、奇妙な世界を垣間見た。異形の怪物や蟲が群がる赤い世界。
手の中でブローチが脈動する。まるで、生き物の内蔵のようだ。
いつしか音が消えていた。少女が呻く声も、怪物の息遣いも、風の音さえ消えた。月明りが歪んでいく。その中心で、オレの体に何かが纏わりついて来た。
それは学ランに似ていた。そして、いつの間にか少女の物とよく似たマントを羽織っていた。
「……これは、銃?」
気付くと、両手に赤く輝く銃を握っていた。
その変化に戸惑いながらも、オレは少女を見つめた。そして、驚いた。傷口に光が集まって、埋めようとしている。彼女自身の息遣いもさっきより安定していた。
治るのかもしれない。彼女は死なないのかもしれない。
その顔を見ると、どこか懐かしく感じた。もしかしたら、前にも会った事があるのかもしれないけれど、いつどこでの事か思い出せない。
ただ一つ、たしかなのは――――、
―――― オレを守る為に現れて、傷ついた。
覚悟が決まった。
数々の異常を飲み込んで、目の前の怪物と戦う為の『覚悟』が出来た。
「いくぞ!!」