第五話『非時香菓』
ボクは本が好きだ。小さい頃からたくさんの本を読んで来た。
とある本の中で印象に残っている一文がある。
―――― 『命の終わりを迎える時、人は真価を問われる』
その本のタイトルは『命題』といった。
命題とは、本来は論理学上の用語だけれど、その本では『命』と『題』を切り分けて、『命に対する問いかけ』という意味として使っている。
―――― 果たして、ボクの命の意味とは何だったのだろうか?
そんな疑問が脳裏を過ぎる。
なにしろ、ボクは今まさに命の終わりを迎えようとしているからだ。
◆
興味本位で覗き込んでしまった坂の下。
そこには血の海が広がっていた。肉片があちこちに散らばっている。まるで、内側から爆発でもしたかのような惨状だ。その中心には彼女がいた。その手には日本刀が握られている。
ボクの頭はパニックを起こしかけていたけれど、それでも坂の下の惨状と日本刀を結びつける事は出来た。
殺人事件が起きた。その犯人が凶器を持ったまま目の前にいる。テレビドラマやアニメならば、こういう場面を目撃してしまった一般人の末路はたいてい同じだ。口封じの為に殺される。そう思って、ボクは急いで踵を返した。
そして、異変に気がついた。さっきまで歩いていた道と風景が変わっている。コンクリートで舗装されていた筈の地面は土がむき出しになっていて、周囲に並んでいた民家がなくなっていた。代わりにたくさんの木が生えている。その木には大きな柑橘系らしき果物が実っている。
「……ああ、だから言ったのに」
その声と共に大きな音がして、地面が揺れた。
「え?」
揺れ動く視界の中にそれは現れた。
「……む、し?」
より正確に言うならば、それは芋虫だった。だけど、明らかに普通の芋虫とは違っていた。
なにしろ、その芋虫は象のように大きかった。全身に棘が生えていて、その先から粘液を滲ませている。口元にはハサミのような顎があり、カチカチと鳴らしながらボクを見ている。
あまりにも常軌を逸した光景に思考が纏まらない。
その間にも芋虫は迫って来る。
「あっ……、ぁぁ」
逃げろと叫んでいる自分がいる。だけど、体は引き攣ったように揺れるだけだ。
終わりだ。逃げられない。殺される。ここでボクの命運は尽きた。
そう確信しながらも、イヤだイヤだと心が叫ぶ。
ボクはまだ何も出来ていない。タクちゃんを外に連れ出す事も、小説をコンテストに送る事も、お父さんの代わりに家族を守る事も、ダイスケの応援に行く事も、キリエから腹黒眼鏡や鬼畜眼鏡以外の呼び方を考えさせる事も、何も出来ていない。
まだまだやりたい事がたくさんある。こんな所でわけも分からないまま殺されて、終わりたくなどない。
「ボーっとしてたら死んじゃうよ?」
その言葉がボクの体を呪縛から解き放ってくれた。襲い掛かって来る芋虫から身を捩って回避すると、そのまま地面を這いずって、木の傍まで行く。
何でもいいから武器が欲しかった。地面に転がっている石ころでも、木の枝でも、なんでもいいから武器が欲しい。それなのに、何もない。
土の上には雑草が生えているだけだ。木の近くには小枝一つ落ちていない。こうなったら、折るしかない。
「やめときなよ。それだけはマジで」
「で、でも!」
他に手立てなどないだろうと振り向くと、彼女はいた。
日本刀を芋虫に向けながら、彼女は問う。
「君は生きたいの?」
「い、生きたいに決まってるじゃないですか!」
「……ほんとに? だったら、ここには迷い込まない筈だよ」
「筈って言われましても……というか、ここはどこなのですか!?」
いつの間にか、周りすべてが森に変わっていた。甘い香りが充満していて、頭が痛くなってくる。
「ここは境目だよ」
「境目……?」
「あの世とこの世の狭間。黄泉平坂って、聞いた事ない? そこ」
「よ、黄泉平坂!?」
聞いた事があるもなにも、ここ数日はその単語が踊る文章に耽溺していた。
今から二十年近く前の文芸部に在籍していた菊宮伊佐奈が書いた『夷碩村怪奇譚』には黄泉平坂の文字が何度も登場していた。
「え? あの坂が黄泉平坂だったのですか!?」
「ちょっと違う」
「え?」
「あの坂は条件が整ってしまっていたの。そこに同じく条件を整えてしまった君が来た」
「条件って、一体……」
「死を望む者は死の世界に招かれる。そして、不要となる肉体を神の使いが食べに来る」
「神の使い……って、まさか!」
ボクは巨大な芋虫を見た。その姿は異様どころではなく、言われてみれば神意のようなものを感じさせてくる。
「ど、どうしたら、ここから出られるのですか!?」
「方法は三つあるよ。一つは生者の呼び声を聞く事。これが一番確実で安全なんだけど、君が食べられる前に君を探しに来てくれる人がいないと無理」
無理だ。今日は部活動がなくなったから下校時間が早まったけれど、いつもはもっと遅い。
お母さんも妹もボクがまだ学校にいると思っている筈だ。探しに来るわけがない。
「ふ、二つ目は!?」
「出口を見つける事。だけど、あんまりオススメ出来ない。ここはあの世とこの世の両方に通じている世界だからね。あの世側への出口を通ってしまう可能性もある」
「そ、そんな!? では、三つ目は!?」
彼女は木に実っているオレンジ色の果実を指差した。
「それを食べれば自由に出入りが出来るようになるよ」
「……え?」
食べるだけでいい。聞く限りだと、一番簡単に思える。
「た、食べるだけで……?」
「そうだよ。食べるだけでいい。結構、美味しいよ」
たしかに、美味しそうだ。きっと、とても甘いのだろう。その実を見ていると、涎が溢れ出してくる。
ボクはそっと木の実をもぎ取った。思ったよりも柔らかい。皮ごと食べられそうだ。
「ガブッといっちゃいなよ」
「……はい」
その実を口に含むと、何とも言えない甘美な味わいが口いっぱいに広がった。
「残しちゃダメだよ。食べ切れば、君はわたしと同じになれるからさ」
なんだか、気になる事を言っている。だけど、それよりも木の実だ。
美味しい。とても、美味しい。こんなに美味しいものは食べた事がない。
「……ああ、本当にバカだなぁ」
あと少しで食べ切ってしまう。それがすごく残念だ。もっと食べたい。
「ここは黄泉平坂。あの世とこの世の狭間にある世界。そんな場所を自由に出入りできるようになる。その意味に気付いた時、君はどんな顔をするのかなぁ?」
最後の一口を飲み下した。すると、なんだか体が痒くなって来た。
痒くて、痒くて、ボクは腕や背中を掻き毟った。喉も痒い。頭も痒い。目玉も痒い。
いつしか、体中から血が流れ始めた。
「な、に……、これ」
「生まれ変わるんだよ。この世界に順応した、新しい君に」
「あたら……、しい?」
意識が朦朧として来た。ボクはこの時になって、ようやく気が付いた。
目の前の彼女が嗤っている。ボクは彼女に騙された。