第四話『血の海』
授業が終わると、いつもは真っ先に教室を飛び出していく運動部の面々がすっかり項垂れてしまっていた。
かく言うボクも文芸部の放課後活動が無くなるのはかなり辛い。読書や執筆作業は朝や休み時間にやればいいだけの話だけど、他の文芸部員達とお互いの作品を読み合って、感想を言い合う時間はボクにとっての至福の一時を失うのは大きな痛手だ。
いつかは自分の作品を世に羽ばたかせたいと夢見ているボクだけど、今はまだ不特定多数の人間ではなく、信頼出来る仲間だけにコッソリと読んでもらいたい。
「しゃーない! 帰りますかー!」
右斜め前の席に座っている播本竜太郎はトレードマークの赤いラインが混じった金髪をかき上げながら立ち上がった。
彼もボクシング部に所属していて、楽しみを奪われた者の一人だ。
彼の後に続くように他のクラスメイト達もダラダラと帰宅の準備を始め出した。
「……ボクも帰りましょう」
小さく息を吐いて、席を立つ。いつもと違うタイミングで会いに行ったら、タクヤは驚くかもしれない。もしかしたら、その拍子に部屋を飛び出して来てくれるかもしれない。
何事も前向きに捉える事が大切だと、何かの本で読んだ事を実践してみる。
「アキラ、また明日な!」
「バイバーイ!」
「三崎くん、またね!」
「おっつー!」
「じゃあな」
「またあしたー」
「ばいす!」
「ばいびー」
まだ、教室に居残るつもりらしいクラスメイト達に見送られながら教室を出て、ボクは帰路についた。
校門を出ると、丁度四時の鐘が鳴り響き、ボクは学校にも「また明日」と軽く手を振った。
そして、また時計の針の上に異物が見えた。
「んん?」
今度こそ、間違いない。そこには確かに影が浮かんでいる。
ボクは急いでスマートフォンをポケットから取り出した。カメラを起動して、時計塔に向ける。最大まで拡大すると、それは人影のように見えた。
「嘘でしょう!?」
慌てて時計塔に向かって駆け出した。
時計の針は動くのだ。そうでなくとも、人が乗るようには設計されていない。イタズラだか何だか知らないけれど、万が一にも滑り落ちたりしたら大惨事だ。
「えっ、三崎!?」
「どうしたどうした!?」
「おーい、どうしたー!?」
「時計塔の針の上に誰かが乗ってるんです!」
「はぁ!?」
「ええ!?」
「誰か、先生に伝えてください!」
「わ、わかった!」
「いや、針の上って、どこだよ!?」
「おい、アキラ! 誰も居ないぞ!」
「で、でも、さっきは確かに……、まさか!?」
時計塔を見上げると、確かに針の上の人影が無くなっていた。時計塔の中に戻ったのなら問題ない。だけど、そうでなかったとしたら大変だ。
ボクは青褪めながら、自分でも驚くくらいの速さで校庭を横切った。
何人かの生徒が一緒について来てくれている。少し、安心した。もし、そこに予想通りのものがあったら、とてもではないけれど一人では耐えられない。
「……つ、ついた」
時計塔の前まで辿り着いた。角を曲がれば文字盤の下につく。
もしも、予想通りの事が起きていたとしたら、そこは真っ赤になっている筈だ。
「ど、どうしたの?」
「いかねーの……?」
足が縫いとめられたかのように動かない。
鼻をヒクつかせても妙な匂いはしないけれど、それは風向きの問題かもしれない。
「おーい……?」
「しょ、しょうがねー! ここはオレが見てくるぜ!」
「祥吾!?」
躊躇していると、後ろからついて来ていた神原祥吾が男気を発揮した。
ボクは彼の為に「どうぞどうぞ」と道を譲った。
「は、腹黒眼鏡……!」
ショウゴと共について来ていたキリエの言葉はこの際無視しておく。
「ど、どうですか?」
角の先を覗き込んだショウゴに声を掛ける。
「……と、とりあえず、セーフっぽい」
どうやら、血の海が広がっているような事は無かったようだ。
少し安心して、ボクも角の先へ行ってみた。ショウゴの反応通り、そこには何もなかった。
血の跡どころか、何かが落下した様子もない。
「よ、良かった……。どうやら、無事に時計塔の中で戻ってくれたようですね」
「それはそれで大問題だと思うけどね」
「っていうか、見間違いとかじゃねーの?」
ボクは無言で写真を見せた。そこにはバッチリと時計の針の上にいる人影が映り込んでいる。
生憎、距離が遠すぎてボケボケだけど、辛うじて制服を着ているらしい事は分かった。
「……ここ、生徒は立ち入り禁止の筈だよね?」
「でも、これ制服着てるよな? 女子の」
「とりあえず、先生が来るまで待ちましょう」
さっき、誰かが先生を呼びに行ってくれていた。先生が来たら、後は任せていいだろう。
「まったく、人騒がせだな!」
「全力疾走したから疲れた……」
「二人共、ついて来てくれてありがとうございました。心強かったですよ」
何はともあれ、人死にが出なくて良かった。
時計塔の針の上でふざけていて人については先生からたっぷりとお説教を施して再発防止に努めてもらおう。
「おーい!」
ダイスケの声だ。彼と隣のクラスの羽崎千尋が地理の須賀先生を連れて来た。
チヒロはサッカー部のマネージャーで、須賀先生は顧問だ。
「本当なのか!? 誰かが落ちたって!?」
須賀先生はすっかり青褪めている。
「あっ、いえ、落ちてはいないみたいです。ただ、時計塔の針の上に人がいたみたいで……」
ボクは先生に写真を見せた。
「……おいおい、勘弁してくれよ。仕方ない」
先生はスマホを取り出した。
「三崎。すまないが、その写メを転送してもらっていいか?」
「は、はい!」
先生のスマホに写真を転送すると、先生はどこかに電話を掛けた。
「ああ、手塚先生! 須賀です。ちょっと問題が起きまして……、ええ、はい。どうも、時計塔に入り込んだ女生徒がいるようなのです。しかも、時計の針の上に乗ってたようで……、ええ……、ええ、はい。信じがたいのですが、2組の三崎が写メで撮っていまして……、ええ、すぐに転送します」
どうやら、生活指導の手塚先生に掛けたみたいだ。
「……ハァァァ」
電話を切ると、須賀先生は重い溜息を零した。
「とりあえず、お前達はもう帰りなさい。報せてくれて、ありがとうな。それと、部活が無い分、しっかり勉強しろよ! 特にダイスケ! 練習が出来なくて不貞腐れて、勉強までサボったら次の試合に出さないからな!」
「わ、分かってるよ!」
「ならよし! 気を付けて帰れよ!」
「へいへい……」
「はーい!」
「はい!」
時計塔を離れると、なんだかどっと疲れが湧いて来た。
◆
タクヤの家の前まで来ると、タクヤのお祖母ちゃんが道路に水を撒いていた。
「こんにちは」
「おや、アキラくん。今日は随分と早いねぇ!?」
「夷碩市の事件があって、部活動が禁止になったのです。ご迷惑でなければ、タクヤくんに声を掛けてもよろしいですか?」
「……ねぇ、アキラくん」
「なんでしょう?」
タクヤのお祖母ちゃんは苦しげな表情を浮かべた。
「咲子さんとも話したんだけどね。もう、いいんだよ?」
「え?」
「この一年、毎日来てくれて、それは本当にうれしいし、感謝もしているの。でもねぇ、その分だけアキラくんの時間を奪ってしまっているじゃない。他に友達が居ないわけでもないでしょう? それなのに、いつもタクちゃんを優先してもらうのはどうにも心苦しくてねぇ……」
「……そんな、待ってください! ボクはボクが来たくて来ているんです! タクちゃ……、タクヤくんと一緒にまた学校に行きたいんです! 修学旅行だって、もうすぐなんです! 一緒に行きたいんです! ご迷惑だと言うのなら、そう言ってください! そうでないなら、どうか通わせてください!」
「アキラくん……」
タクヤのお祖母ちゃんは弱り切った表情を浮かべた。本当は迷惑だと思っているのかもしれない。
毎日、家に押しかけられたら、そう思うのも当然だ。だけど、どうしても諦め切れない。ハッキリとそう言われるまでは、例え迷惑を掛けているとしてもタクヤに声を掛け続けたい。
「……タクちゃんがね」
彼女は何度も何度も口を開いては閉じた。
言い難いのだろう。その表情や態度から、彼女が言わんとしている事に察しがついてしまった。
それでも、ボクは……、
「タクちゃんが言うのよ。『もう、来ないで欲しい……』って」
「あっ……」
胸の奥が冷たくなった。心臓がバクバクと鳴っている。あまりにも大きな感情の揺らぎがボクの頭を真っ白にした。
時折、扉を強く殴りつけられるようになってから薄々感じてはいた。
ボクはタクヤから拒絶されている。それでもしつこく通い続けたから、とうとう嫌われてしまった。
「ご、ごめんね、アキラくん……」
申し訳なさそうに頭を下げるタクヤのお祖母ちゃんにボクは「ぃぇ……」と声にもなっていない声で応えた。
それから、タクヤの家を離れた。
頭の中がグチャグチャになってしまって、せめて宿題やプリントを渡してから離れるべきだったと遅れて気が付いた。
だけど、気付いても引き返す気になれなかった。酷い顔をしていると思うから、家にも帰りたくない。
「そっちは止めておいた方がいいよ」
「……ぇ?」
しばらく宛もなく歩いていると、急に見知らぬ女の子から声を掛けられた。
「おとなしく、家に帰った方がいいよ。そういう気分の時は猶更ね」
「そういう気分……?」
「君、自暴自棄になってるでしょ」
少し、イライラした。
「……知った風な口を叩かないで頂けませんか? あなたは一体……」
睨みつけると、彼女は微笑んだ。
「イライラしてるね。でも、お互い様だよ。さっさと帰りな」
そう言って、彼女は行くなと言った方へ行ってしまった。
「なんなんだ、一体……」
彼女の言う事に従うのもシャクだけど、後を追いかけるみたいな形になるのもシャクだ。
ボクはもう家に帰る事にした。踵を返して、意識を切り替えようと深呼吸をした。
すると、鉄錆のような匂いがした。
「え?」
行くなと言われた道に振り替える。そこは下り坂だ。
「……なんだ、この匂い」
ボクは匂いを辿って、坂へ近づいて行った。すると、その匂いはどんどん強くなっていく。
とても嫌な予感がする。さっき、時計塔の文字盤の下に広がっているのではないかと思った光景が広がっている気がした。
そして、それは今度こそ現実になった。