第二話『夷碩村怪奇譚』
通学路を歩いていると、ちらほらと同じ学校の制服が増えて来た。腕時計を確認すると、もうすぐ七時になろうとしている。
そろそろだ。ボクは感覚を研ぎ澄ませた。
「おーっす、アキラ!」
背中に迫る衝撃を体育着が入った袋を挟み込む事でガードする。
それでも前につんのめりそうになって、ボクはムッとした表情を背後の襲撃者に向けた。
「おいおい、怖い顔をするなよ……」
「毎朝毎朝、いきなり後ろから殴りかかって来るのはやめてくれませんか?」
「べ、別に殴り掛かったわけじゃないって! 挨拶だよ、挨拶! 背中をかるーく!」
「君の軽くでボクは毎回吹っ飛びそうになってるんですけど?」
「……わ、悪かったよ。頼むから睨まないでくれ……」
眉を八の字にして、すまなそうにしてくる彼にボクはやれやれと溜飲を下げた。
彼に悪気が無い事は分かっている。悪気が無いからこそ質が悪いのだけど、謝っている相手を責め立てるのは流儀に反する。
「もういいですよ。それより、宿題はやって来ましたか?」
「バッチリさ! うちの部活の顧問、勉強をおざなりにする奴が大嫌いだから、宿題を忘れると練習させてくれないんだよ。知ってるだろ?」
「知ってますよ。だから、聞いたのです。試合が近いのでしょう? 一日でも練習する日が減ったら大変じゃないですか」
「へへっ、抜かりはないよ!」
眩しいくらいの良い笑顔だ。
天真爛漫という言葉がよく似合う。それが彼、吉崎大輔という男だ。
彼はサッカー部のエースストライカーになるという目標を持っていて、その為に日々練習に励んでいる。その努力が実り、今度の週末の試合でスタメン入りを果たした。
「また、分からない事があったらいつでも聞いてくださいね」
「ありがとうな、アキラ。お前が色々教えてくれなきゃ、練習どころじゃなかった……」
ダイスケはしみじみと呟いた。大袈裟ではない。彼が所属しているサッカー部のコーチは文武両道を重んじている。
宿題を忘れた日は練習禁止。中間テストや期末テストで赤点を取ったら、次のテストで赤点を回避するまで部室にすら入れてもらえない。
彼の夢の為にボクは一肌も二肌も脱いできた。困っているスポーツマンを見ると、どうにも放っておけないからだ。
「いいんですよ。その分、試合ではしっかりと活躍してくださいね。その為にボクも協力したのですから」
「おう! バッチリ活躍してみせるぜ! 応援に来てくれるよな!?」
「もちろんですよ。頑張ってくださいね」
「ああ!」
◆
ダイスケと話している内に学校が見えて来た。
ウチの学校は街の名物の一つになっている。その理由は校舎の中央にそびえる時計塔だ。ボクにとっては生まれた時から見ている光景だからあって当たり前の建物なのだけど、市街から来た人は結構驚く。今時、時計塔がある学校というのは珍しいそうだ。
ただのモニュメントではなく、電波時計並にしっかりと時間を刻み、一時間毎に鐘が鳴る。
ゴーン ゴーン ゴーン
丁度、七時の鐘が鳴り響いた。ボクはこの音がとても好きだ。
「……あれ?」
時計塔を見ていると、その文字盤の針の上に奇妙な影が見えた。人影かと思ったけれど、そんな筈はない。
「どうしたんだよ?」
ダイスケはボクの視線を追うように目を細めながら文字盤を見た。けれど、違和感を感じている風には見えない。
目をこすってからもう一度見てみると、影は消えていた。見間違いだったのかもしれない。
「なんでもありません。それより、朝練頑張って下さいね」
「おう!」
校門を潜ると、ダイスケはそのままサッカー部の部室へ向かって行った。
この学校は七時にならないと校門が開かない。だから、部活動の朝練はサッカー部も野球部も七時十五分から始まる。そこから一時間のメニューをこなして八時三十分からのホームルームに滑り込んでくるというのがルーチンになっている。
もっと早くから練習をさせて欲しいとぼやくのはダイスケだけではないけれど、このルールは創設当時から変わることなく続いている。
「おはよう、三崎!」
「よう、アキラ!」
「おはようございます」
この時間は朝練がある運動部が一斉に登校して来る。
みんな、一目散に部室へ向かって行くけれど、わざわざボクに挨拶する為に寄り道をしてくれるのはクラスメイトの立花京子と石島哲郎だ。
キョウコは水泳部で、テツロウは野球部に所属している。二人共、挨拶だけすると風のように校庭を駆け抜けていった。
彼らの背中に手を振りながら、校舎に入る。上履きに履き替えてから向かう先は教室ではなく、文化部の部室がある棟の二階だ。そこにボクが所属している文芸部の部室がある。
「おはようございます」
誰もいないと分かっていながらも、挨拶をしながら扉を開く。広くもなく、狭くもない。清掃が行き届いた居心地のいい空間。ここを独占したいが為にボクは毎朝運動部と同じ時間に登校している。
四方の壁にはたくさんの本が並んでいて、そのいずれも読み放題だ。
「えっと、たしか……」
窓際にある背の低い棚から目当ての本を取り出す。その背表紙には『文芸部 部誌 2005年度春季号』と書いてある。二十年前の文芸部の先輩達が書いた部誌だ。
この前の年の春季号から始まっている連載作品にボクは夢中になっていた。
『夷碩村怪奇譚』
最近、物騒なニュースが続いている隣町の夷碩市が夷碩村と呼ばれていた時代を舞台にした怪奇作品だ。
ファンタジー要素がありつつも、時代考証がしっかりとされていて面白い。
夷碩村の夷は夷と言って、恵比寿の語源となった言葉らしい。日本には古くから海から流れ着いてきた漂流物を縁起物として祀る風習があり、その漂流物を夷と呼んだそうだ。
夷碩村がそう呼ばれるようになったのは、夷がよく現れたからと言われている。とは言っても、近くに海はない。夷には異邦人という意味もあり、歴史書の多くはそちらの意味だと解釈している。だけど、夷碩村怪奇譚では前者の説を推していて、その村の周りには確かに海が広がっていたのだとしている。
夷と同じく、日本には常世という古い信仰がある。常世とは海の彼方にあるものとされている。そこから紐付けて、作者は夷碩村の周りには『常世』が広がっていると解釈したわけだ。
第一話が掲載されている『文芸部 部誌 2004年度春季号』では、主人公である若者が村の外れにある雑木林で見慣れない果実を見つけた所から始まっている。
それは驚くほどに芳醇な香りを漂わせていて、若者は迷う事なく生えている木からちぎり取った。そして、皮を剥く事さえも面倒だと思い、丸ごと口に放り込んでしまう。すると、味わった事のない鮮烈な旨味を感じて、もっと食べたいと思った。不思議な事に、それまでは見た事も無かった筈のその木の実がまた一つ、また一つと次々に若者の前に現れた。その実を次々に食べていくと、いつしか奇妙な場所に立っていた。
どこか見覚えがある気がするけれど、そこが何処なのかが若者にはサッパリと分からなかった。
ただ、どこもかしこも赤かった。地面や壁はおろか、空までが赤く染まっている。若者は恐ろしくなり、無我夢中で走り出した。すると、真っ赤な建物の中から見るも悍ましい怪物が姿を現し、耳障りな叫び声を上げた。
そこまでが第一話の内容だ。第二話では若者が怪物だらけの村から逃げ出そうと必死に藻掻く姿が描かれている。恐怖に抗い、恐ろしい怪物を何とか返り討ちにしたシーンは手に汗を握ったものだ。その続きである第三話では若者が不思議な力を手に入れる。怪物と渡り合う為の力を得て、若者は逃げずに怪物へ立ち向かっていく事を決意する。
ところが、『文芸部 部誌 2004年度冬季号』に掲載された第四話ではそれまでと打って変わった雰囲気になる。それまでは若者と怪物だけの世界だったのだけど、そこに可愛らしいヒロインが登場するのだ。怪物だらけの世界で懸命に生きていたらしい彼女と若者はすぐに打ち解けあい、共にこの世界から脱出する事を誓い合う。ヒロインはこの世界から抜け出すカギはあの怪物にあると言った。そこで第四話が終わってしまったものだから、当時の読者はさぞやヤキモキした事だろう。
ボクはワクワクしながら第五話を読もうと『2005年度春季号』を開いた。
「……あれ?」
ところが、目次には『夷碩村怪奇譚』の文字が見当たらない。パラパラとページを捲ってみても、やはり見つからない。
ボクは嫌な予感がした。すぐに『2005年度夏季号』を開き、そこにもなくて『2005年度秋季号』を開いた。
「嘘でしょう……?」
どこにもない。『2005年度冬季号』にも、『2006年度春季号』にも、その後の部誌のバックナンバーのどこにも第四話の続きは載っていなかった。
「そ、そんなぁ!?」
ボクはぶっ倒れそうになった。まさかの打ち切りである。この物語の続編は作者の頭の中にさえ、もはや残っているか分からない。
ワクワクは続きを読めない絶望感に塗りつぶされた。
ボクは深く深く溜息を零した。