第一話『情けない自分』
窓から差し込んでくる日差しで目を覚ました。目覚ましはまだ鳴っていない。もう少し眠っていたいと思いつつも目覚ましのアラーム機能をオフにして立ち上がった。
制服に着替えて、忘れ物が無いか確認する。教科書とノートと筆記用具。それと今日は体育着も必要だ。
「……憂鬱ですねぇ」
勉強は得意だけど、体育は苦手だ。マラソンでは直ぐに息を切らせてしまうし、バスケットボールでは毎度の如く痣を作っている。
スポーツが得意な人が羨ましい。ボクだって、速く走れたり、バスケットで華麗なシュートを放てたら体育を好きになれていたと思う。だけど、ボクの運動神経の鈍さは筋金入りだ。
部屋の隅に置いてある写真立てを見ると、そこには紙製の金メダルを首から下げて笑顔を浮かべている旧友の姿がある。その隣には、無理矢理隣に立たされて顔を引き攣らせているボクがいた。
破天荒で運動神経抜群な彼はボクにとって憧れの的だ。彼みたいになりたいと願った回数は数知れず。人間とは手の届かない星に対して、届かないと分かっていても手を伸ばしてしまう悲しい生き物なのだ。
「アキラ! そろそろ起きてきなさい! タクヤ君の所に寄る時間が無くなるわよ!」
「もう起きてますよ!」
まだ時間はたっぷり余裕があるというのに、お母さんはせかっちな人だ。
やれやれと肩を竦めながら、ボクはリビングに向かった。朝食は目玉焼きだった。ボクは醤油を手に取った。
「お兄ちゃん、たまにはケチャップ掛けてみない?」
既に食卓についていた妹がケチャップを差し出してくる。
「ボクは醤油派なので結構です」
「絶対ケチャップの方が合うと思うんだけどなぁ」
卵とケチャップの相性を否定する気はない。だけど、卵と醤油の相性の良さには敵わない。
「ユイカこそ、醤油を掛けてみたらどうですか? 卵かけご飯、好きでしょう?」
「好きだけど、それはそれ! 目玉焼きには断然ケチャップ! お兄ちゃんだって、オムライスにはケチャップ掛けてるじゃん! 卵焼きには醤油だけど……」
「あんた達、その手の論争は終わりがないからやめときなさい」
お母さんが呆れたように塩の瓶を掴みながら言った。家族なのに、我が家は目玉焼きに関しては常に三国時代だ。
「ねぇねぇ、お父さんは何派だったの?」
「お父さんはマヨネーズ派だったわ」
お父さんが生きていたら、我が家は四国時代になっていたようだ。
「それより、さっさと食べなさい!」
「はーい!」
「いただきます」
食べ始めると、お母さんは一分もかけずにご馳走様を言って、家を出て行った。
まだ、六時にもなっていない。出勤時間まで大分余裕がある筈だけど、お母さんは一分一秒も無駄にしたくないそうだ。
「ごちそうさま!」
ユイカもお母さんの影響で食べるペースが早い。もっとゆっくり食べろと何度も注意しているのだけど、直る兆しは一向に見えてこない。
やれやれと溜息を吐きながら、ボクは自分のペースを維持した。食べ終わった後はテレビを点けて、朝のニュースを確認しながら食器を洗う。
いつの頃からの習慣なのかは覚えていないのだけど、ボクが自分からやると言い出した事は覚えている。
『おはようございます。まずは今朝入ってきたニュースからお伝えします。昨夜遅く、夷碩市の路上で身元不明の男性の遺体が発見されました。警視庁によりますと遺体には激しい損傷があり、現在捜査が進められています。この事件は今月に入ってから三件目となる遺体発見で、いずれも市内の異なる場所で似たような状況で遺体が見つかっており、警察は同一犯による連続殺人事件の可能性が高いとみて捜査本部を設置しました。これまでの三人の被害者はいずれも男性で、年齢は20代から30代とみられていますが、被害者同士の接点や犯行動機など、詳細は明らかになっておらず、警察が慎重に捜査を進めています。現場付近では警戒が強化され、住民に対しては夜間の外出を控えるよう呼びかけが行われています。なお、最新の情報が入り次第、随時お伝えいたします』
相変わらず、不穏なニュースが流れている。夷碩市と言えば、ボク達が住んでいる宮守市のすぐ隣だ。幸い、ボクやユイカが通っている学校も、お母さんが働いている会社も夷碩市方面とは反対にあるけれど、ユイカには寄り道をしないように言い含めて置こう。
息を深く吐いて、不安を洗い流すように冷蔵庫から取り出したカップ一杯分のアイスコーヒーを飲み下し、ボクはテレビを消した。カップも手早く洗って、カバンを肩に掛ける。
「ユイカ! 近頃物騒だから、寄り道せずに帰って来てくださいね!」
「はいはーい!」
返事が軽い。どうにも不安になる。
「帰りが遅いとデザート無しですからね!」
「そんなぁ!?」
お母さんは帰りが遅いから、夕飯を作るのはボクの仕事だ。もちろん、デザートを用意するかもボクの胸三寸。スイーツに目のないユイカには効果覿面な脅し文句だ。
「じゃあ、先に行きますからね。戸締りをお願いしますよ!」
「はーい……」
元気のない返事に苦笑しながら、ボクは通学路を歩いていく。そろそろ七時を回る。良いタイミングでタクヤの家に着いた。
チャイムを鳴らすと、待ち構えていたかのように扉が開く。
「おはよう、アキラくん」
「おはようございます」
「毎朝ありがとうね……」
「こちらこそ、毎朝押しかけてしまってすみません」
いつものやり取りの後、ボクはタクヤの家の二階に向かった。途中、彼の弟のトオルくんとすれ違ったけれど、彼は絶賛反抗期の真っ最中らしく、挨拶をしても返してはくれなかった。
少し寂しく思いながらも、ボクはタクヤの部屋の前に立った。
「タクヤくん、おはようございます」
返事はない。だけど、それはいつもの事だから気にしない。
「宿題はやってありますか?」
返事はない。
「分からない所とかありましたか? あったら、ボクが教えてあげますよ」
返事はない。だけど、扉の隙間からプリントが出て来た。相変わらず、荒い字だけど、しっかりと最後まで答えが書いてある。
「うんうん。全部正解ですね! そう言えば、今日から体育でバスケットボールをするんです。タクヤくん、バスケ好きですよね? どうです? 一緒に行きませんか?」
返事はない。代わりに扉を強く殴る音がした。
「……ケガはしませんでしたか?」
返事はない。
「ごめんなさい。宿題は提出しておきますね。また、放課後に来ます」
返事はない。
ボクはタクヤくんの部屋の前から立ち去った。階段を降りると、いつものように申し訳なさそうな表情を浮かべたタクヤくんのお母さんがいた。
「また、放課後にお邪魔してもいいですか?」
「……ええ、もちろんよ」
このやり取りも何回目なのか、もう数え切れない。だけど、諦め切れない。
また、彼の笑顔が見たい。運動神経抜群な彼が体育で活躍する姿を見たい。それが見れるのなら、運動神経が悪いままでも体育の日が憂鬱になる事はなくなる筈だ。
タクヤ君の家を出て、しばらく歩いてからそっと二階の窓を見る。すると、カーテンの隙間から覗く彼の顔が見れた。すぐに隠れてしまうけれど、その前に「いってきます」とだけ言う事が出来た。
「情けないですね……、ボクは」
大切な旧友が苦しんでいるというのに助ける事が出来ないままでいる自分が腹立たしい。