開眼のメイド ~視力を失い婚約破棄された少女、周囲を『識る』力で祖母の笑顔を取りもどす~
リシェルの顔になにか液体がかけられた。
冷たさを感じたのは一瞬のことで、燃えるように熱く、リシェルは顔をおさえて地面にふせた。
誰かが叫んでいる。それが自分の声だと気づくことにすら遅れた。
その日、リシェルは、レオンハルト王太子と街を歩いていた。
護衛の兵士もいたが、街の人間との会話もしながら一定距離を歩くような、交流の催事でもあった。手を振る人たちにレオンハルトは笑顔で応える。
リシェルは朝から緊張していた。
なにしろ昨夜はリシェルとレオンハルト王太子の婚約発表だったのだ。
しかも。リシェルには知らされていなかったが、婚約破棄の場でもあった。
多くの人がいる前で、クラリス・ヴェルディアという令嬢が婚約を破棄され、会場から去っていった。
リシェルは笑顔で見ていた。なにがあっても笑顔でいるように、事前指導されていたからだ。
会場は白いバラで飾られ、リシェルのドレスも真っ白の花のようだった。
まるでリシェルも最初から加担していたような気持ちになった。
しかしリシェルの目に残ったのは、クラリスの去っていく姿だった。
背筋を伸ばし、無表情で、なににも怯えることなく、さっさっ、と歩いていった。
いつものように輝くレオンハルトの美しい顔よりも、クラリスの後ろ姿のほうが頭に残っていた。
リシェルの顔になにかが当たり、昨夜の記憶から覚めて人々の前にもどった。
ゴン、という硬くて重い衝撃のあとに、水分が顔にかかった。
冷たい。いや。
熱い!
リシェルは顔を覆ってその場で膝をついた。
平民であるリシェルは多くの人の前では所作に気をつけるように、とは、指導を受けていた。しかしそんなことは言っていられなかった。
自分が叫んでいるのか、うめいているのか、わからない。
熱い。
熱い、熱い!
「ヴェルディアは去れ! 成金貴族は去れ! レオンハルトバンザイ! 王家に栄光あれ!」
そんな声が聞こえた。
それから一週間入院し、治療と説明を受けた。
リシェルは、群衆のひとりに、薬品の入ったビンを投げられたのだという。その人間はリシェルを、婚約破棄されたクラリスと勘違いし、危害を加えた。
中の薬は目に入り、視力を失った。
手の施しようがないという。
医者は付け加えるように、額を切ったビンの傷は消えたと言っていた。
リシェルの横で祖母が泣いていた。どうにかならないのかと医師にきいていた。
どうにもならないと医者は答えた。
リシェルが祖母に手を引かれて帰宅すると、祖母は激しく動揺していた。
耳をすますと、なにか紙の音が聞こえた。
数枚の紙を、めくっては、何度も読み返しているような音だ。
「そんな、そんな」
祖母は繰り返していた。
リシェルはレオンハルトに婚約を解消されていた。
理由は、いまのリシェルはふさわしくないから、ということだった。
それを手紙で知らせてきたのだという。
正式な書面であるということは、祖母にはわかったようだったが、リシェルには見ることができない。
ただ祖母に申し訳ないと思った。
その日から祖母の手を借りて生活を始めた。
必要最低限のことはできなければならない。
トイレや着替えなど。
日中、祖母は働きに出なければならなくなったからだ。
さいわいというか、慣れ親しんだ家の中だ。おおよその位置関係はつかめていた。
しかしリシェルは認識をあらためた。
おおよそではいけないのだ。
家の中のことくらい、完全にわかっているといえなければ。見えている祖母以上に。
手足をついて、家を一周した。
顔を椅子にぶつけてしまったので、進み方を考える。左手を前にかざし前方、床をさわりながら前進した。
さわり終わったと感じたら、キッチンに立ち、すべてを思い浮かべる。
なんの食い違いもないか、確かめるために歩いた。
半歩違う。
この柱に指をそえるとわかりやすい。
空気の流れがちがう、と感じることもあった。詰まったような感覚というか。その先にはたいてい、柱や壁がある。錯覚かもしれないが、結果がともなっているのならどちらでもいい。
頭の中に家の地図を叩き込む。
祖母が帰宅するまで何度でもたしかめた。
それでも、玄関のドアがノックされると、リシェルは固まった。
ドアの向こうの人間は、目が見えないことを知っているのだろうか。
なにか、悪い意思を持った人間ではないだろうか。
自分はいま、本当にきちんと服を着られているだろうか。
そうした考えが頭をめぐり、一歩も動けなくなってしまう。
笑顔で自信を持って応対すればいいと考えれば考えるほど、手が震える。
リシェルはなにも考えないように、家の中をたしかめることに集中した。
「今日もひとりでだいじょうぶだったかい?」
夕食を食べながら、祖母は言った。
「うん」
パンを食べる。だいじょうぶ。
スプーンでスープをすくう。顔を近づけて飲んでしまうけれど、だいじょうぶ。
おかずはフォークで刺す。祖母は大きさを統一してくれている。
皿の位置も、祖母は、常に、中央にスープ、右におかず、左にパン、奥にデザート、と凸型に配置することを徹底していた。
手前に、奥から、フォーク、スプーンの順で配膳され、食べる前にすべての料理の内容と、温度を知らせてくれる。
「いつもありがとう、おばあちゃん」
「いいんだよ。……」
布のすれる音。
呼吸の乱れのような音。
「咳くらい、してもいいよ」
リシェルが言うと、はっとしたような空気の音を感じた。
「ん? なんのことかな」
祖母は言った。
咳をこらえたようだ。
「おばあちゃん」
「うん?」
「国からの援助って、ないの?」
「……そうだね」
当初はあった。婚約前から。
「もしかして、仕事、増やした?」
「リシェルは気にしなくていいんだよ。おばあちゃんがなんとかするから」
リシェルは体の奥が熱くなった。
なんとかなんてしなくてもいい。
私がなんとかする。なんでもする。
どんなに辛いことだって。
だから、おばあちゃんは、ただ笑って暮らして!
「私も」
「今日、話を聞いてきたんだ。目が見えなくてもできる仕事があるんだって。ゆっくり聞いてみようね」
「うん……」
「それにね。国に、ちょっとは援助を出せ、人違いでうちの孫はこんな目にあったんだ! って言いに行ってるんだ。なんとかしてみせるよ」
祖母は笑顔で言った。
夜、リシェルがベッドに入ってしばらくしてから、祖母が出かけていく音が聞こえた。
非常に慎重で、金具のわずかな音も聞かせまいという意思すら感じた。リシェルは、祖母が大泥棒にでもなってしまったように想像して、すこしおかしかった。
それからすぐ笑いは消えた。
こんな時間から……。
祖母がいなくなればリシェルは生きていけないだろう。
しかし、それよりもだ。
祖母に苦労をかけてしまっていることが気になっていた。
祖母はもう60歳をこえている。
あの日、奇跡だと思った。
王太子妃になれば、祖母に楽をさせてあげられると思った。
視力を失ってからも、最低でも、祖母の生活を保証できる援助が受けられると思った。
やっぱり、奇跡だった。
リシェルはベッドを出た。
キッチンに向かった。
洗い場に、置きっぱなしになっているナイフを手にした。
私が生きているから。
祖母はこれから、苦労に苦労を重ねて、人生を終えるだろう。
だったら。
ナイフを首筋にあてた。
だったら……。
リシェルはナイフを離した。
こんなところで自分が死んでいたら、祖母は悲しむだろう。
祖母のせいだと自らを責めるだろう。
そんなことはないのに。
そのとき、リシェルは疑問に思った。
なぜ、ナイフの位置がわかったのだろう。
洗い場に置いてあるのは、定位置ではない。
そういえば、食事の時に祖母の笑顔が見えたような気もする。
リシェルは手の中のナイフをながめた。
見えていないナイフは、わずかに差す月の光に、銀色に輝いている、ような気がした。
翌日、祖母が出かけている時間に玄関のノックが聞こえた。
リシェルはドアを開けた。
誰か立っている。
なにかが動き、なにかが動かない。
輪郭が浮かびがってくる。
男。男だ。
「こんにちは。こちら、オーガスタさんのお宅ですか?」
「いえちがいます」
リシェルは言った。
「そうですか。いや困ったなあ。実は急ぎでオーガスタさんのお宅に伺わなければならなくて」
男は、声は申し訳なさそうにしていたが、顔はにやにやと笑いながら、リシェルの顔をじろじろと眺めていた。そういう顔の表面の凹凸も頭の中で浮かび上がってくる。
「オーガスタさんという方を存じ上げないのですが」
リシェルは言った。
「そうですか……」
男は言いながら、横に手招きをした。別の男が足音を立てないように近づいてくる。
「ちょっと、通りまで出てきて、案内してもらえないですかねえ」
リシェルが目を閉じているところをじっと見ながら男は言った。
「お力になれないと思います」
「おや? もしかして、目が不自由で?」
「ええ。ですから、あなたがヒゲを生やしてらっしゃることや、もうひとり横にいらっしゃることなど、わかりません」
別の男が、ぎくり、としたように立ち止まった。
「そちらの方はオーガスタさんではないのですよね?」
「え、ええ」
別の男は、ひきつった顔で言った。
「申し訳ないのですが、やることがありますので」
リシェルはドアを閉め、鍵をかけた。
彼らの足音が遠ざかっていってから、ふう、と深く息をはいた。
心臓のどくどくと大きな音を立てているかのようだ。
背中を壁につけて、深呼吸をした。
だいじょうぶだ。
私はだいじょうぶだ。
リシェルは自分に言い聞かせた。
「スープはじゃがいもとトマトのスープ。パンは黒っぽいパン。デザートはバナナね?」
夕食時、リシェルが祖母の顔を見ながらスラスラと言うと、祖母はリシェルの言っていることを信じざるを得なかった。
実際のところ、色ははっきりとしない。しかし形や、祖母の料理の様子を見ていたのでおおよそ想像はついた。パンは、祖母がこのパンを買ってくるときには、ちょっと遠回りをしてきた、と言う。だから推測できた。
不思議なことに、多少の距離はあっても、見る、ことができた。だから祖母の背後から手元をのぞくようなことはしていない。
「私も仕事を探す。もう平気だよ」
「リシェル」
祖母は涙を流していた。
リシェルも涙が流れた。
「こんにちは」
翌日、リシェルは近所の定食屋に入った。
リシェルは、レオンハルトに見初められるまで、この定食屋で働いていた。たまたま立ち寄ったレオンハルトと婚約をするというその出来事は、まるで物語のようだと言われたものだった。
遠い夢のようだ。
リシェルの顔を見た定食屋の店主夫婦は、最初、気の毒そうにしていた。
しかし、前からやってきた客をかんたんによけ、テーブルに置いてあった皿を持ってカウンターまでやってくるリシェルを見て、目つきが変わった。
「だいじょうぶ?」
さらに、背後の席で持っていたぬいぐるみを落とした少女に拾ってあげるリシェルを見て、驚きを隠せなかった。
見ていない、音もしないのに、気づいている。以前のリシェル以上だ。
「今日はお願いがあって来ました」
リシェルは無事に、また定食屋で働くことができるようになった。
王太子の侍女の指導も残っていたのか、以前にも増して、かわいらしいウェイトレスがいる定食屋、は人気となった。
そんなある日、客の何気ない会話がリシェルの耳に入った。
「クラリスっていうヴェルディアの令嬢が、メイドを募集してるんだってよ」
「……おい」
店主が低い声を出した。
「うちの店でそんなやつの名前を出すな」
客が、はっとしてリシェルを見た。
「お、す、すまねえ、そんなつもりじゃなかったんだ」
「ねえ。詳しく聞かせてくれない?」
リシェルは言った。
店主に相談すると、ヴェルディア家での募集を請け負っているという人とつなげてくれた。
閉店後、テーブルについたリシェルは口を開いた。
「本当に、いいんですか」
完全にリシェルのわがままだ。
「かまいやしねえ。もともと、悪いのはお貴族様だ。リシェルちゃんじゃあねえよ」
「でも、私はその貴族に雇われようとしてるの」
「リシェルちゃんの欲じゃねえだろ?」
店主の妻が、リシェルの肩に手を置いた。
「優しい子」
「優しいのはおばあちゃんです」
「リシェルちゃんのおばあちゃんもいい人よ」
「たまに口が悪いが」
リシェルはちょっと笑った。
ヴェルディアの屋敷は大きな建物だった。
王太子の城ほどではなかったが、草原が広がる土地の、丘の上に、三階建ての屋敷があった。
門の前で声をかけると、リシェルは中に案内され、小部屋に案内された。そこには、リシェルくらいの年格好の少女が四人いた。
ちらりとリシェルを見るだけで、特に会話はなかった。
順番に呼ばれていき、終わった人は帰っていった。
最後にリシェルが呼ばれた。
「失礼します」
部屋に入る。
手前には椅子が一脚。
奥にはテーブルと、その奥に、椅子と向かい合う形で二人座っていた。
二十歳くらいの女性と、その倍以上の年齢の女性だ。年上の女性は黒い服、二十歳くらいの女性は薄い色の服を着ていた。
「お座りください」
リシェルは一礼して着席した。
「侍女のカミラです。リシェルさんは今回、メイドとして働くことを期待しているそうですが、あなたは以前、王太子の婚約者でしたね?」
カミラ、という年上の女性が単刀直入に言った。
「はい」
「なぜでしょう。婚約者としての地位を捨てるのですか?」
「私は、事故で目が見えなくなってしまいました。そのため、婚約者としては不適格だということで、家にもどり、仕事を探していました」
「目が見えなくなったあなたに、メイドの仕事ができると思いますか?」
カミラは言った。
カミラのよどみない問いかけに、すべて調べた上で質問をしているのだな、とリシェルは感じていた。
「未経験であるという意味では、不足している面はあるかと思います。しかし、仕事をする上で、他の人たちから大きく劣る部分はないのではないか、と考えています」
「視力を失ってもうまく歩いているのはわかります。しかし」
「私の背後に立っている人が、いま横に動いたのはわかりました」
リシェルが言うと、カミラの唇がぴくりと動いた。
「うしろの方は、武器を携帯していますね。腰に剣でしょうか。もしかして、私がクラリス様に恨みを晴らそうとしていると考えて、取り押さえるための人間でしょうか」
「……なぜ、わかりましたか?」
「理由はわかりません。ただ、いつの間にか、まわりの様子を感じ取れるようになっていました」
空中に細かい粒子が漂っていて、それが動き、物にぶつかったときの反応が見える、とでも言えばいいだろうか。
実際にそれが起きているわけではないが、そうリシェル自身が感じている。
他の人間にもわかることでないのだったら、それ以上どう言えばいいだろう。
「そう感じているんです」
「私がここにいることもわかっていましたか?」
クラリスは言った。
「最初から、カミラ様の隣にいらっしゃいましたね」
「あなたはどうしてここで働きたいのですか?」
クラリスは言った。
「私の家族は祖母だけです。祖母は、私のためになんでもしてくれようとしています。しかし、私は、私こそ、祖母のためになんでもしなければならないと考えています。私が期待しているのは、定食屋で働くよりも多くの収入を得られることです。他のメイドにはできないことが、私にはできます。祖母のことを悲しませないことならば、なんでもします。よろしくお願いします」
リシェルは言った。
数日後、夕食をとっていたら人が来た。
メイドとしての採用を伝えるものだった。
自分以上に、祖母が喜んでくれたことがうれしかった。
夜、リシェルは彼女のことを思い浮かべていた。
面接に行った日も変わらず背筋がのびていた。
リシェルを最初からじっと見ていた。
あの日と変わらない。恨みもなく、値踏みするようなこともなく、ただ見ていた。
興味がないのとは違う。気持ちは動いているはずだ。
でもむやみに発しない。
王太子のまわりにはお金持ちはたくさんいた。見たこともない人もたくさんいた。
でもクラリスのような人間はいなかった。
どこか、居心地悪そうにしていたな、と思い出す。
などと言ったら失礼だろうか。リシェルはひとり、笑った。
それから最後のクラリスが言ったこと。
「どうしてここに来たのですか? 私が嫌がると思わなかったのですか?」
とクラリスは言った。
「思いました」
「それでも、お金のために、ということですか?」
リシェルは考えた。
定食屋の店主は、リシェルが収入を安定させるためにこの家で働くことを選んだと考えている。
それはまちがいではない。
ただ。
「いえ、あの……」
「では?」
「あなたの、クラリス様のお屋敷なら、きちんと、まじめに働けると思ったからです」
いろいろな言い方を考えたけれど、リシェルは、できるだけ飾り立てないような言い方を選んだ。
しばらく間があった。
「そうですか」
クラリスはそれだけ言った。
まっすぐにリシェルを見ていた。