政略結婚して十年、夫と妹に裏切られたので離縁します
朝の光が寝室のカーテンを透かして、私の顔に柔らかく降り注ぐ。
ベッドから起き上がると、トントンとドアがノックされる音がした。
「セレナ様、お目覚めでございますか」
「ええ、今さっき起きたところよ」
セレナ・ヴァーミリオン。それが今の私の名前。
十年前、十八歳で政略結婚をした時から変わらない日常がまた始まる。
部屋に入ってきたメイドに、私は問いかける。
「今日のスケジュールは?」
「午前中は慈善団体からの手紙の返信、午後はレティシア様がお越しになります」
レティシア──そう聞こえた瞬間、私はわずかに頬を歪ませた。
ここ最近、妹の訪問頻度が増えている。だが、どうしても素直に喜べなかった。何か別の目的があるような気がして──そんな風に考えてしまう私は姉失格なのかしら。
「わかったわ。準備をお願い」
「かしこまりました」
鏡の前に座り、腰まで伸びた金色の髪を梳かしながら、夫の姿を思い浮かべる。
ルキウス・ヴァーミリオン。朝食を共にするのは週に一度あるかないか。いくら政略結婚とはいえ、これほど冷たい関係になるとは思わなかった。最近では挨拶すら交わさない日も多い。
「公爵様は昨晩も遅くお戻りになられましたね」
メイドが静かに言う。
「そうね」と短く答える。
彼がどこで何をしていたのかは、聞かないことにしている。知らないほうが色々と楽だから。
──それに私は家名を守るためにここにいるんだから。
そう自分に言い聞かせるのは、もう習慣になっていた。
髪を結い上げ、淡いブルーのドレスに袖を通す。窓の外では、庭師たちが薔薇の手入れをしている。彼らは笑い合いながら仕事をしていて、その自然な交流が羨ましく感じる。周りの幸せが遠く感じるようになったのはいつからだろう。
午前中、私は書斎で手紙を書いていた。慈善事業は数少ない自分の満足を得られる活動だ。少なくとも誰かの役に立っているという実感がある。ペンを走らせながら、ふと思う。この十年間、私は何を得て、何を失ったのかと。
「セレナ様、お昼の準備ができました」
メイドに呼ばれて食堂に行く。
広い食卓の端に座り、私は一人で静かに食事をする。銀の食器が当たる音だけが響く静寂。この屋敷の静けさは、時に耐えられないほど重たい。
午後になり、妹のレティシアが華やかな笑顔とともに居間に入ってきた。
私より四つ年下のレティシアは、ロイヤルブルーのドレスに身を包み、爛々と目を輝かせている。
「お姉様、今日もお美しいですね。そのエメラルドのネックレス、素敵です!」
「ありがとう。父上からの贈り物よ」
「いいなぁ。私にもそんな素敵なものを贈ってくれればいいのに」
レティシアは拗ねたように唇を尖らせる。
「にしてもお姉様は何をつけても似合うから羨ましいです」
また始まった。
私は小さく、本当に小さくため息を漏らした。
褒め言葉の裏に隠された羨望と、微かな嫌味。
レティシアは私が公爵家に嫁いだことを羨んでいた。
優雅な暮らし、社交界での地位。でも彼女は知らない。この金色の檻の中で私がどれほど息苦しさを感じているかを。
それからレティシアは近況を話して満足したのか、日が落ちる前に帰って行った。
私は窓辺に立って庭を見下ろす。黄昏時の光が薔薇園を赤く染めている。
「私はいつまで我慢しなくてはいけないの」
そんな独り言がこぼれる。誰も聞いていない部屋で、初めて本音を漏らした気がした。
でも心の奥で、何かが崩れ始めていることに気づいていた。まるで美しい氷の彫刻が、少しずつ溶け始めるように。
★
「セレナ、少しいいか」
珍しく、夫のルキウスから声がかかった。
「はい。なんでしょうか」
「晩餐会の招待状の確認を頼みたい。書斎にあるから明日までに確認しておいてくれ」
「わかりました」
そう言うと彼は立ち上がり、玄関口へと向かって行った。
彼の香水の香りが舞い、それがどこか懐かしい気持ちを呼び起こす。かつて私たちにも、表面上は夫婦らしく振る舞っていた時期があった。
書斎に入り、頼まれごとを済ませようと机に向かう。インク瓶、羽ペン、封蝋……どれも几帳面な夫らしく、整然と並べられていた。
「ここかしら?」
招待状を探すため、引き出しに手をかける。
──と、指先が何かに触れた。
底板の隅に、紙が一枚だけ滑り込んでいた。ほかの文書と違い、封筒にも入れられていない裸の便箋。無造作というには、少し不自然な扱いだった。
「……これは?」
引き出してみると、淡いピンク色の便箋。見覚えのある筆跡。
レティシアの筆跡だった。明らかに確認を頼まれた招待状とは違うものだ。
勝手に開けてはいけない──そう思いながらも、違和感の正体を確かめたい気持ちが勝ってしまう。
「愛しいルキウス様」で始まる手紙。目を閉じたい衝動に駆られたが、私は最後まで読み通した。
「あなたに会えない日が続くと、息ができません」 「次の夜会で会えるのを楽しみにしています」 「お姉様には絶対に秘密ですからね」 「お姉様が気づくとは思えませんけど」 「お姉様より、私のほうが貴方をよく理解しています」
一字一字が目に焼きついていく。胸の奥に冷たいものが流れ込む感覚──それは怒りではなく、静かな絶望だった。
日付を確認すると、夫は「仕事で遅くなる」と言っていた日だった。正確には、メイド経由で聞いたのだけど。
「──そう。そういうことなのね」
私は手の震えを抑え、手紙を元の場所に戻す。
何も見なかったかのように招待状を見つけ、書斎を出る。
廊下を歩きながら、過去の記憶が走馬灯のように浮かぶ。レティシアが急に訪問を増やした時期。ルキウスとすれ違った時の、彼の目の奥に浮かぶ罪悪感のようなもの。そして妹の、少し挑戦的な笑顔。すべてが今、意味を持ち始める。
「どうして今の今まで気づかなかったの?」
廊下の窓に映る自分の顔に問いかける。
いや、本当は勘づいていた。妹の不自然な訪問や、夫が家を空ける時間が増えたこと。数え上げたらキリがない。
でも目を向けようとしなかっただけ。この美しい檻の中で、唯一の慰めは家名の誇りだった。それすらも幻だと認めてしまえば、何も残らないから。
自室に戻り、鏡の前でゆっくりと髪を梳かす。
一筋、また一筋。機械的な動作に心を預ける。
「十年間、何もかも耐えてきた。家名のために、体面のために。なのに貴方たちは」
一瞬、ブラシを握る手に力が入り、髪が引っ張られる痛みを感じた。でも私は表情を変えない。この痛みさえも、心の痛みに比べれば取るに足らないものだから。
──お前は愛されていない
心の中の声が囁く。
──ずっと嘘の中で生きてきた
その声に耳を貸さないようにしながら、私は立ち上がり、窓に近づく。
庭の向こうに見える森は、月明かりに輪郭だけが浮かび上がっている。自由への道はあそこにあるのだろうか。
──この檻から出て、何がある?
また別の声が問いかける。
──公爵夫人の地位を捨てて、お前に何が残る?
私は深く息を吸い、その問いを受け止める。家名のために生きてきた私。
でも──。
「私の人生は私のものだ」
弱々しいが、確かな答え。初めて自分自身を見つめた気がした。
床に落ちた髪の毛を拾い上げ、指でくるくると巻きながら考える。怒りや悲しみではなく、冷静な決意が湧いてくる。
「ルキウス、レティシア。あなたたちの裏切りは、私の人生の終わりじゃない。始まりにするわ」
机に向かい、紙とペンを取り出す。明日から行動を起こさなければならない。
窓の外は漆黒の闇。でも私の中では何かが明るく灯り始めていた。まるで長い眠りから目覚めたかのように、頭が冴え渡る。私は一心不乱に計画を立て始めた。
翌日、レティシアが訪ねてきた。
私はいつもと変わらない微笑みで迎える。
「待ってたわ。今日はアールグレイを淹れたの。あなたの好きな香りよね」
「まあ、お姉様、覚えていてくださったんですね」
レティシアは嬉しそうに微笑む。その笑顔の裏に隠された秘密を知っている私は、茶器を手に取りながらわずかに唇を引き締める。
「ところで、先週は体調が悪かったそうね。もう良くなったの?」
わずかに、レティシアの表情が強張る。
「ええ、もう大丈夫です。ちょっと微熱があっただけなので」
「そう。回復したみたいで良かったわ」
「それはそうと、お姉様って本当に完璧ですよね。いつも冷静で、優雅で。私なんて全然及ばないです」
また始まった。褒めるふりをした自己卑下。
だがその裏には「でも私はあなたの夫を奪っているんです」という勝利宣言が隠されている。
数時間してレティシアが帰った後、私は書斎に向かう。
夫の不在を確認し、法律書を取り出した。離婚の条件、財産分与についての条項を丁寧に調べ始める。政略結婚でも、不貞行為があれば十分な理由になる。夫は家名を汚した。私には正当な権利がある。
自分の価値を取り戻すため、夜遅くまで書類を整え、離縁と財産分与の準備に取りかかった。
一週間後、私は夫を居間に呼んだ。彼の顔には軽い困惑の色が浮かんでいる。
「珍しいな、お前から話があるとは」
「お時間を取らせてごめんなさい。これを見ていただきたくて」
私は静かに、レティシアとの手紙のコピーを差し出した。父が昔から信頼していた家付きの執務官に、相談だけはしておいた。彼は寡黙だったが、必要な文書をすぐに整えてくれた。ルキウスの顔から血の気が引いていく。
「これは……」
「十年間、私は心を殺してきました。家名のために、面目のために。でも、あなたとレティシアが私を裏切ったのなら、もうその必要はないでしょう」
「誤解だこれは」
「言い訳を聞くつもりはありません。離縁届に署名をください」
彼の表情が険しくなる。
「離縁だと……正気か?」
「ええ」
「おまえにこんな行動力があると思わなかった」
その言葉に、十年間の抑圧された感情が一気に噴き出しそうになる。
「私のことを見ようともしなかったですからね」
「何が言いたい?」
「いえ、元からこのくらいの行動力はあります。十年一緒にいてそんなことも知らなかったのかと思っただけです」
ルキウスはグッと拳を握りしめる。
「この家を出て行けば、おまえには何も残らないぞ」
「構いません。公爵夫人の座も、称号も。すべて手放す覚悟です」
「本気なのか?」
「ええ、本気です。レティシアには何も告げていません。彼女があなたと一緒になれば、きっと喜ぶでしょうね。どうぞ幸せにしてあげてください」
「セレナ……」
「さようなら、ヴァーミリオン公爵」
書斎を出る時、背中から彼の視線を感じた。でも振り返らなかった。これが最後だと思ったから。
★
春の陽光が差し込む小さな家。公爵家から遠く離れた地方の静かな町にある、私の新しい住まい。窓から見える広い庭には、これから植えようと思っている花の苗が並んでいる。
「セレナ様、お茶の準備ができました」
使用人はたった一人、昔から私に仕えてくれていたメイドだけ。彼女は私の決断に驚きながらも、ついてきてくれた。
「ありがとう、マーサ」
紅茶を飲みながら、あの日の決断を思い返す。あれから一ヶ月。正式に離縁が成立し、私はセレナ・グレイスに戻った。公爵家としては、これ以上の醜聞が広まるのを避けたかったのだろう。ルキウスは家名の汚点を避けるため、私の条件をすべて受け入れた。
「セレナ様、これからどうされますか?」
「これから?」
窓の外に広がる景色を見つめながら微笑む。
「自分の人生を生きるわ」
夕暮れ時、鏡の前に座り、長く伸ばしてきた髪を見つめる。公爵夫人としての誇りと重荷の象徴だった金色の髪。
「これはもういらないわね」
十年かけて伸ばしてきたそれは、鎖のように肩に重かった。
静かにハサミを取り、一息に切り落とす。刃の音と共に、何かがほどけていく気がした。
「こんなに息がしやすかったなんて」
鏡に映る自分は、十年前の少女のようだった。
ここから私の人生は始まるのだ──。
★
離縁してから一年が過ぎた。
私は地元の子供たちに読み書きを教えたり、小さな図書室を開いたりして過ごしている。ヴァーミリオン公爵夫人という肩書きを持っていた頃よりも、ずっと心が満たされた日々を送っていた。
「セレナ様、町からお客様がいらっしゃっています」
マーサが居間に入ってきて告げる。その顔には困惑の色が浮かんでいる。
「誰?」
「それが、その……ヴァーミリオン公爵様です」
一瞬、耳を疑った。どうやってこの場所を特定したのだろう。いや、公爵の力を以てすれば、簡単なことか。
「通してよろしいですか?」
「ええ、いいわ」
深く息を吸い、ゆっくりと吐く。
数分後、ルキウスが部屋に入ってきた。一年前と変わらない気品のある立ち姿。でも顔には疲れの色が見える。
「久しぶりだな、セレナ」
「どういったご用件ですか、ヴァーミリオン公爵」
「……君にそう呼ばれるのはむず痒いな」
「ご用件は?」
彼は少し黙り、それから重い口調で話し始めた。
「レティシアと結婚した」
「そうですか。おめでとうございます」
噂で耳にはしていた内容だ。けれど、私と離縁して間もなく籍を入れていたはず。
どうしてそれを今更伝えにくるのか、と思ったが、彼の表情で大方の察しがついた。
「だが、もう限界だ。レティシアに公爵夫人は務まらない。社交界での立ち振る舞い、家の切り盛り、慈善活動……何一つ彼女にはできない」
ルキウスの言葉に満足感を覚える自分がいて、少し恥ずかしい。でも同時に、妹に対して少しだけ同情の念も湧いてきた。あの重圧は、経験しないとわからないものだから。
「それで? 何が言いたいんですか?」
「戻ってきてほしい。君なしでは家は回らない。今になって気づいた。君がどれほど完璧に公爵夫人を務めていたか」
ルキウスの顔には本気の色があった。私は少し考え、それから静かに笑った。
「あなたは何も理解していない」
「は?」
「私があなたのもとを去ったのは、単に裏切られたからだけではありません。私の人生を取り戻すためです」
「意味のわからないことを……。報酬なら十分に用意する。名誉も地位も、すべて元通りだぞ。君が望むなら何人か男も用意しよう」
「あなたが提供できるものに私は興味ありません。この一年で、私は自分の意思で生きることの喜びを覚えました」
ルキウスは下唇を噛むと、最後のカードを切ってきた。
「自分さえよければいいのか? レティシアは苦しんでいる、公爵家の要求に応えられず、毎日泣いているんだぞ」
「私の知ったことではありません。第一、あなたが解決すべき問題です。私ではなく、公爵様ご自身がお助けになって差し上げればよろしいのでは?」
「セレナ……」
「お引き取りください」
立ち上がって言う。
「私には新しい人生があります。あなたにも、あなたの選んだ道があるはずです」
ルキウスは何か言いかけたが、私の決意の固さを理解したのか、黙って頷いた。
「き、君は少々、混乱しているようだな。わかった。今すぐに無理強いはしない。だが、申し出はいつでも有効だからな。屋敷で待っている」
そう言い残し彼が去った後、私は庭に出て深呼吸した。
青空の下、風が髪を揺らす。以前なら想像もできなかった光景だ。
「大丈夫ですか?」
マーサが心配そうに尋ねる。
「ええ、平気よ。むしろ、すっきりしたわ」
それから二週間後、母からの手紙と一緒に社交欄の切り抜きが届いた。
「読んでおいた方がいいかと思って」という短い言葉が添えられていた。
目を通すと、ヴァーミリオン家主催の晩餐会での出来事が記されていた。新公爵夫人レティシアが来賓の名前を何度も間違えた挙句、ワインをこぼして貴重な絨毯を台無しにしたという。「公爵夫人の資質が問われる」と皮肉めいた筆致で締めくくられていた。
「レティシア……」
思わず彼女の名を呟く。社交界の厳しさを知る私には、その場面が鮮明に想像できた。おそらく、今頃彼女は部屋に閉じこもって泣いているのだろう。
その週末、町の市場で買い物をしていると、女性に声をかけられた。
「セレナ様ではありませんか?」
顔を上げると、以前ヴァーミリオン家で働いていた女中の一人、エマだった。
「エマ? こんなところで会うなんて」
「この街に住んでいる姉に会いにきたんです。明日には首都に戻ります」
「そう。元気にしていた?」
彼女はためらいがちに私を見つめ、それから小声で口火を切った。
「屋敷のことをお話ししてもよろしいでしょうか」
カフェに入り、彼女の話を聞いた。
エマは最近までレティシアの侍女をしていたという。
「レティシア様は、大変なんです」
彼女は申し訳なさそうに切り出す。
「朝は遅くまで寝ていて、来客の対応も身に入らない。先日も重要な接待をすっぽかして、公爵様が激怒されました」
「そう……」
「それだけではないんです。公爵様とレティシア様は毎日のように口論になっていて、もう収拾がつきません」
レティシアはただ私の真似をしたかっただけなのかもしれない。けれど、それは「真似」で届くものではない。
「それに社交界の奥様方も冷たいんです。皆様、セレナ様を慕っておられました」
彼女なりに努力はしていたのだろう。朝から晩まで礼儀作法や書簡の書き方を学び、社交界の手引きを必死に読んでいたと聞いた。
けれど、その苦しみの多くは「姉より上でいたい」という目的だけが支えていた。だからこそ、耐えきれなかったのだ。
その言葉に胸が痛む。かつての私も同じ思いをしていたから。
「何が幸せなのかはわからないものね」
自由を得た今、初めて本当の意味でそれを理解した気がした。妹や元夫の苦しみを見ても、罪悪感はないし後悔もない。
人は自分の選択の結果と向き合うしかないのだから。
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