7. 魔王との契約
結果として、連れてこられたのは魔王の執務室だった。
「これが雇用契約書で、こっちが機密保持契約書だ」
魔王がさっさと出してくる書類を読む。
つまり、私は、魔王城の契約社員になるらしい。
「そこにあるペンを使っていい」
「あ、はい」
契約期間は、聖女がここにやってくるまで。
確かに人間を食うつもりはない、でも最終形態になるには生贄が必要なのだと言っていた。つまり、契約期間=執行猶予扱いですか……。
「どうした?」
「いや、なんでも……」
配属は、魔王城行政部の福利厚生部門、食堂係。皿洗いから調理補助、調理に配膳まで一通り。
労働時間もしっかり決まっていて、多分他の構成員と同じ。完全週休二日制+祝日という破格のホワイトさ。ちゃんと給料までもらえる。
機密保持については、まあ当たり前といえば当たり前といったところ。
というわけでサインして、インクを付けた指で拇印を押して。
「うん……あとは、血の契約か」
書類を受け取った魔王は、目を伏せた。けれどそれも一瞬で、ペン立てに立ててあったナイフを手に取り、親指の腹を切りつける。
え? はい? ん?
見慣れない光景にぎょっとした。痛そう。
「魔王ルシウスの名において、ここに血の契約を刻む。汝、魔に堕ちし者よ、契約は破れぬ鎖なり」
そして驚いて見ているうちに、赤い血は契約書に垂れ、魔法陣が展開された。詠唱と共に赤い糸が現れ、私の小指に巻き付き、消える。
「あつっ……って、なにこれ跡になってる」
魔王は魔法陣を消し、指を止血していた。 驚いている私と反して冷静すぎる。
契約って法的ではなく魔法的なの?? 破ったら死ぬとかないわよね??
「これで終わりだ」
そのまま渡されたのは、城内マップやら鍵やら……、これに至っては、マニュアル? つまり全部合わせて魔王城就職スターターキット??
「わかっているとは思うが、契約は明日からだ。今日のところは寮に帰れ。以上」
魔王が契約書を見ながらそう言う。
いや、そんなこと言われても、困るのだけれども。その。
「ひ、ひとりで?」
そういうと魔王は目を瞬かせた。
いや、せっかく魔王に食べられずに生き延びて、職と猶予を得たのに、寮に戻る途中で食われたら本末転倒なのよ。
「……一構成員に、魔王が部屋を案内するわけないだろう」
「でも、このままだとあの犬耳やら魔族に生贄が逃げ出したと思われるのよ」
あのシチューは嘘だったのだろうか。冷徹なまでにトップというか魔王。とはいえ、さすがにこれ以上のいざこざはごめんだ。
「犬耳ってお前な……。四天王にはすでに伝達してある」
咳払いをする魔王。
し、四天王? あのゲームのボスキャラ?? 人型だったから全然わからなかった。確かにオルトロスは二首の頭を持つ犬……。まあいい、あとで考えよう。
……それにしてもよく配慮してくれること。
「人間が嫌いじゃなかったの?」
「仕事に私情は挟まない」
思わずそう尋ねてしまえば、淡白な一言が返ってくる。そしてその言葉と共に執務室を追い出された。
本当は優しかったりしてって期待してたのに。シチューも美味しく食べてくれたし。でも、仕事ねぇ。悪い魔族じゃないのはわかったけれど。
その後も魔族に見られながらマップ片手に迷って、やっと女子寮へたどり着いた。使われていなかったような角部屋。玄関から見える限り、中は狭そうだけれど、家具は一通りそろっているようだった。
「はぁぁぁぁぁ……」
ドアを閉めたところで、ため息を吐いてへたり込む。資料がバサバサと落ちた。でも、構っていられない。肉体的にも、精神的にも疲れた。今日一日で何度死にかけただろう。
敵対心丸出しの魔族、殺そうとしてくる四天王、真意の読めない魔王……、勘弁してほしい。やけくそな強気とシチューありがとう。
「やば、腰抜けてる」
もう一度深いため息を吐いた。這いつくばったまま、キッチンを眺める。どうせ食材はないし、そもそも電気ガス水道が引かれているのかもわからない。
「お腹、空いたなぁ……」
止むことのない雷鳴が、不安を煽る。明日朝起きたらあの食堂まで燃えてたりしないだろうか。
いつが朝か夜かもわからない魔界は、なんだか感覚が狂って。気が付いたら資料を読みながら、玄関で寝てしまっていた。
……からかはわからないのだけれど。初日からこれは、ないんじゃなかろうか。