28. ホットミルクは温かい
──赤い瞳が私を射抜く。
やっぱり魔王だった。最初の頃の奥ゆかしさはどうしたのか、もう何も言わずに入ってきて私の側に来る。本来だったら私が近くに行くべきなんだろうけど、椅子から立ちたくない。
「……顔色が悪いな」
黒髪がカーテンのように垂れた。魔王が私の顔に触れる。あったかい。魔王も生きてるんだなぁ。
なんだかほっとしたところで、目の下を撫でられる。黒くて長い爪が私を現実に引き戻した。気を許しちゃいけない。この人は、味方じゃない。
「っ!」
手をはたき落として、睨みつける。魔王ははたき落とされた自分の手をじっと見ていた。
やめて。触らないで。こっちこないで。
カチコチと、秒針の音が響く。雨の匂いがしてきた。さっきまで曇りだったのに。
「すまない」
悲し気な声にまずいことをしてしまったと気づく。べ、別に魔族だから拒絶したってわけじゃなくて。
「こっちこそごめんなさい。ちょっと、驚いただけなの」
いつもだったらこんなに油断なんてしてないのに。どうして。
「……それだけじゃない。お前は、疲れている」
混乱していると、魔王がしゃがんで目線を合わせて、静かにそう言った。
疲れている? 私が?
「お前は、抱え込みすぎている」
思わず乾いた笑いがこぼれる。
確かに最近忙しすぎた。でもやっと軌道に乗ってきたんだから、この勢いを止めるわけにはいかない。……それに、もう他人には充分頼っている。それでも、足りない。本当に、単純な話だ。ただのコミュ障、社会経験のない小娘、なんの力もない人間の私には、手に余っている。
でも、こうするしかないのだから。私は自分で選んだのだから。
「つかれてる、のかもね」
たとえ自分で選んだ道だとしても、疲れないわけじゃない。
舐められないように常に緊張しているのも、初めてのことばかりも、嫌なことを言われるのも、髪を掴まれるのも、唾を吐かれるのも。何かが削られる。
そんなことばかり考えていると、魔王がぎょっとした様子でオロオロしはじめた。どうしたのだろう。
「……泣いている」
「え?」
小首をかしげつつも、目元に触れば濡れていた。泣いたのなんていつぶりだろう。というか泣いていいんだろうか。
「その、嫌だったらまた叩き落としてくれ」
大きな手が頭の上にポンッとおかれた。
「よく、頑張っている」
オルトロスにやっていたようにわしゃわしゃと撫でられる。三角巾がずり落ちた。不思議と心臓が軽くなった感じがする。
どれだけの時間が経っただろう。困ったような顔で撫でられ続けている間に涙は止まったようだった。でも、魔王の撫でる手は止まらない。そわそわする。
「……ホットミルクでも飲もうかと思うんだけど、いる?」
「もらおう」
逃げるように厨房に向かって、ミルクパンを手に取る。なぜか魔王を無視したくて、弱火でじっくり温まっていく様子を眺めた。ふつふつふつっと白い海が沸くのがなんとなく面白い。
「どのカップを使うんだ」
「……きゅ、休憩室にあるオレンジ色のやつ。魔王様は好きなの使って」
「ああ」
マグカップで手を温めながら、ポツポツと話をした。魔王はただ黙って聞いてくれた。
バジリスクに企画書を読んでもらえていないこと。でも読んでもらえなければ予算を上げてもらえるよう経理部と戦わないといけないこと。それは、誰もがやめろということ。
気まぐれで悪戯好きのピクシーを制御するのは難しいこと。面接でも舐められたり悪戯をされかけたり大変だったこと。でも、流れ作業で小さな作業がすぐに終わって百人力なこと。
話し終えて、少しぬるくなったミルクを飲む。飲みやすくて、甘い。
「……最近、雨がもわっとしてる感じがしない?」
「もう夏だからな」
ただの世間話。でも、そう言う魔王が何か悩んでいるように見えて。魔王ってやっぱりなんか不器用なんだなって思った。
「ねぇ、何か」
「バジリスクは傲慢だが、話の分からない奴じゃない。それに、ああ見えて情も深い」
は? 情が深い?
つまり、泥臭くアタックすれば勝機はあるってこと?
あの人女王様なんだけど、水と油すぎない?
「元気そうだが、そろそろ休んだ方がいいぞ」
こっちが百面相しているであろうのを笑って、魔王は行ってしまった。きちんと流しでマグカップを軽く洗って。
……まあ、それで食材が手に入るなら、やるしかないけど。




