アル子とナイ子と毛沢東
「おはようございます。」
毎朝の挨拶、学級委員長の仕事を今日もする。私はこの仕事が好きだ、だから生徒会に入った、学級委員長になった。
「おはよう、歩子ちゃん今日も早いね。」
校門を開けた先生が私を一瞥してそのまま校舎に歩いていく。そうこれが良いのだ、先生よりも早く学校に来るだけで先生の歩く姿も見ることができるのだ。つまり私は学校の全ての人の歩く姿を見れるということ、喜ばしい限りだ。
さてさてこれからがお楽しみだ。
朝練のために早めに来る生徒たち。
「おはようございます!」
早めに登校する生徒たち。
「おはようございます!!」
普通のタイミングに登校する生徒たち。
「おはようございます!!!」
そして遅刻寸前で登校する生徒。
「お゛は゛よ゛う゛ご゛ざ゛い゛ま゛す゛!!!!!」
みんな見た、楽しかったな、明日も楽しみだ。そうして私もスキップに近い早歩きで教室に向かう。この曲がり角の階段の横の廊下を通って行けば教室だ、早く行かないと。
ドン。
廊下は右側通行だけど急いでいたらから左側を歩いてて人とぶつかった。最初は私が悪かった、でもその次の出来事は私は悪くないはずだ。
ドザザザ。
本が地面に撒き散らされた、水滸伝、列子、三国志、論語、などなどの本が地面に撒き散らされた。どの本にも背ラベルが貼ってあって図書室の本だとわかる、この曲がり角の階段をのぼって行ったら図書室があったはずだから図書室から本を借りてきたのだろう。
「ちょっと!こんなに借りた本を手に持って歩いてたら危ないでしょ!」
「おまっ木鶏の……」
黙契……?私この男の子と何か暗黙の了解を結んでいた?私はちょっとそんなことを考えながら、その男の子の背負っている大きなリュックサックを開ける。
「リュックに入れなさいよリュックに……」
「やめいっ!」
リュックサックを開けると中には本と教科書がパンパンに詰まっていてその一番上には毛沢東の3文字が書かれた本。毛沢東語録や毛沢東詩集、毛沢東詩選なんかもある、とにかく毛沢東の珍しい本がいっぱいはいっている。すごい宝の山だ。
「これは違うんだよ!別に俺は変な思想にかぶれてるとかそういうわけじゃなくて……」
「いいよね!毛沢東!」
「えっ?」
「やっぱり近代中国の漢詩を語る上で毛沢東は外せない存在だよね。」
「そう!そうなんだよ!」
「じゃあ今度からは気をつけてね!」
「あぅっうん。」
拾い上げた本を押し付けて私は足早に去る。きっとあのグチャグチャな教科書や本を詰め込んだリュックの中に図書館の本を入れたら一緒にグチャクチャになってしまうと思って手に持っていたのだろう、意外と真面目な子なのかもな。
その毛沢東の男の子が本を両手で持って腕を伸ばして少し背を反らせてトテトテとゆっくり歩く姿をチラチラと眺めて楽しみながら早歩きで教室に行く。
ギリギリセーフで教室に入って授業を聴きながら考える。あの子ってどのタイミングで登校してくる子かしら?
今この学校にいる全ての人の歩く姿を見ているはずだから、あの子の歩く姿も見ているはずなんだけど……。
歩く姿を見ることが楽しいから見ているだけで歩いている人に対しては興味が一切ないから覚えてないな。少し自分があんまり人を見ていないという事実に落胆する。私って、そんなに人に興味がない子だったっけ?
思えばもう2、3ヶ月は経つというのにクラスメイトの顔と名前が頭の中でほとんど一致していない、顔を見れば名前は出てくるが、それは学級委員長として、いかがなものかと私は思う。
「いけないなぁ。」
「なにがいけないのよ、アル子?」
休み時間になって話しかけられた、アル子というのは私のあだ名だ。
「ナイ子ちゃん。私って人に対して興味を持てない子なのかもって思って、自己嫌悪。」
そんでこの子は私の数少ない友達の鳴井さん、あだ名はナイ子で下の名前は知らない、苗字だけ覚えてれば名前なんて問題ないし覚える気にならない。
「アル子……知ってたよ。前からずっとバレバレだよ、むしろ自覚してなかったの?」
「してなかったよ!」
「私の他に友達がいないアル子が自覚なかったってビックリだわ」
「ナイ子ちゃん以外にも友達いるって!」
「言っとくけど佐藤と鈴木は私の友達であってアル子の友達じゃないからね、あいつら私のことが好きだから別のグループの人と話してても遠慮なしに割り込んでくるだけ。」
「えっ……」
私は焦って周りを見回すと移動教室だからほとんどの生徒はもう教室を出てしまって佐藤さんも鈴木さんもいなかった。
「悪い子じゃないけどさ、ちょっとうっとうしい子達だよね。アル子のことを私のコシギンチャク〜みたいに言っててさ、むしろ私がアル子のコシギンチャクだっての〜。」
「えっと、ナイ子ちゃん誰が聞いてるか分からないから声もうちょっと小さく……」
「今このクラスにいるグループであの子らにチクる奴いないって、それにあの子らは私から直接言われでもしなきゃ信じないだろうし。アル子も言わないでしょ?」
「まあ……うん。」
「私そんなアル子が好きで一緒にいるんだよ。私以外に友達がいないから他のグループとかの愚痴をどれだけ言っても外に漏れない、その上でアル子って顔がいいし外面がいいから一緒にいても恥ずかしくないし。」
「そんな顔がいいなんて……」
「少なくとも朝からバカ大声で挨拶しててもキモがられないぐらいには顔がいいよ、私が推薦すれば友達が一人しかいなくても学級委員長になれるぐらいには顔がいい、他に学級委員長に成りたがってる子がいないと言ってもダサい子だったら佐藤とか鈴木みたいな子ならちょっとブーたれるでしょ?」
「えへへ……褒められてちょっと嬉しい。」
「だからさ、アル子はそのままでいいよ。そのままのアル子だから私はアル子のことが好きになったんだから。」
ナイ子ちゃんはそう言うけれど、私はいかがないももかと思うね。移動教室のために廊下を歩いているナイ子ちゃんの歩く姿を眺めて楽しみながらナイ子ちゃんの話を聞き流す。
会話の内容が中身がなくて私の興味のないファッションとか化粧品の話になったから適当に相槌を打っているだけで完全に無視をしているわけじゃない。
ナイ子の歩く姿を見て楽しい気持ちになって少し前向きになった私は人に興味のない自分を変えるために、朝の毛沢東の子について考えて見ることにする。
あんな歩き方の子なんて登校していたっけ?あんな両手を伸ばして少し背を反らせるような歩き方の子……?
そこでふと、両手に教科書を持って歩くナイ子の姿を見て気付く。あっこの両手を伸ばして背を少し反らせる感じは両手で本を持ってるからか!
たまたまナイ子と毛沢東の子の本の持ち方が同じだったから気付いた、これはナイ子に感謝だな。よく考えたらさっき褒めてくれたことに対してもお礼を言ってなかったな。
「そんでやっぱ私の目の色に合うのって黒じゃないじゃん?だから……」
「ありがとうねナイ子ちゃん。」
前を歩いてたナイ子ちゃんが振り向いて榛色の目で私の方を見てキョトンとしていた。そして顔を赤面させて、ちょっと嬉しそうに言った。
「そういうとこさ、ズルイよアル子ちゃん。人の話を聞いてないクセにさ。」
「聞いてたよ、ちゃんと相槌を打ってたじゃん。」
「うんうんはいはい言って同調してりゃ納得するのは中学生までだって、それか中学生レベルの脳みその奴な。」
「じゃあ適度に否定すればいいの?」
「私はアル子にそれを期待してないから今のままでいいよ。……でも友達が欲しいなら肯定や否定だけじゃなくて相手の話を延長した話をしていかないと、肯定だけして欲しい人が欲しがってるのは都合のいい舎弟だからさ。」
「ふうん、じゃあ私はナイ子ちゃんの都合のいい舎弟なんだね。」
「違うよ、アル子が私の話を聞いてないって私は知ってるもん、私はアル子に話してないもん壁に向かって話してるんだもん、そんで壁に向かって話してる私をアル子が見てるの。」
「ウィンウィンってやつだね。いやむしろナイ子ちゃんは私がいてもいなくても変わらないだろうから私だけ一方的に得しちゃってるね、なんか悪いなぁ。えへへ。」
「いやいや1人で壁に向かって話してたら変人じゃん?だからウィンウィンだよ。」
そう言ってナイ子ちゃんは私に笑いかけた。なんだかごまかされちゃったな、まあいいんだけど。
私はその後の授業中もずっと朝に見た色々な歩き方を振り返っていた、歩き方は覚えてるけど顔とか肌色とか髪色とか全く覚えてないな、毛沢東の男の子って特徴的な顔じゃなかったし肌も髪も普通で歩き方しか印象に残ってないんだよね。まあもし特徴的な容姿をしていても覚えていられか?って聞かれたら微妙だけど。
本を持っているという特殊な状態だったからあの歩き方になっただけで、本来の歩き方ってどうなんだろうなー。
私は人間に興味のない自分が恥ずかしいからこんなことを考えているのだろうか?それとも単なる興味本位だろうか?興味本位なら人に興味を持ったということで正しい、自分を恥じての行動なら当然正しい。どっちにしても正しいことをしているのだから迷う必要はなかったな。
さて、じゃあ逆に考えてみよう。本を手で前に持っていると重心が前に傾く、そのバランスを取るために少し重心を後ろに傾けようとする、だから少し背を反らせるのだろう。本を持つときに本がたくさん積み重なっていると手だけじゃなくお腹でも支えられるから毛沢東の子もナイ子もこういう持ち方をして歩いていたのだろう。
ナイ子ちゃんは移動教室の時は私の教科書と筆箱を持ってくれている、私が持たせているわけじゃなくてナイ子ちゃんが自主的に「こうしておかないとアル子ちゃん私と一緒に来てくれないじゃん」とかなんとか言って勝手に私の教科書と筆記用具を持って行ってしまうのだ。
私はよく移動教室の時に最後に教室を出て教室の鍵を閉める、学級委員長だからではない、教室を出る時の同級生全員の歩く姿を見ていたいからいつも教室を出るのが最後になってしまうのだ。まあ最近はそうでもないが。
黒板を消すのも大抵は私の仕事だ。私はいつも休み時間になったら黒板の前に立ってクラス全体を見渡す、そうして歩いてる人を見ている、そのついでに黒板も消す。本当は日直の仕事らしいけど黒板の前に私以外が立つと邪魔だから学級委員長の仕事にした、このクラスでは学級委員長の仕事だ。
移動教室の授業が終わるとみんな一斉に歩き出すから早く黒板の前に行かなくてはいけない、そんな時に他に黒板の前に立とうとする人間は邪魔だ。黒板の前に立ってるのが先生一人ならいい、先生と少し話をしたい子の歩く姿も見れるしね。
ナイ子ちゃんは移動教室の時は私の荷物を持って教室の前で待っていてくれる、佐藤ちゃんや鈴木ちゃんと話をしながら。私は友達だと思ってたけどこの二人は友達じゃないんだよな、不思議な話だ、よく一緒にいるのになんでだろう。……まあどうでもいいか。
「鍵返してくるからそれ返して。」
「そっか、じゃあ行きましょうか鳴き姉さん。」
鈴木ちゃんがナイ子ちゃんから教科書と筆箱を取り返してくれた、優しい。
移動教室の時に鍵を返しに行くのはいつも私だが、日によっては連続でその教室が使われるので移動教室はいつも鍵を職員室に返却しに行くわけじゃない。だが帰りの時は確実に私が教室の鍵を閉めて職員室に返しに行く、今日だってそうだ。
先生が帰りの挨拶をしたらすぐに黒板の前に行ってクラス全体を見渡す、これがなかなかに歩き方の種類が豊富で面白いのだ。
ナイ子ちゃんは帰りに私と一緒に帰らない、なぜなら私は駅の方向に歩いて行くがナイ子ちゃんは地元の子で家が学校から見て駅とは逆の方向だからだ。だから帰りはのんびり帰れる、これが楽しいのだ。
教室から出て行く同級生を見て楽しんで、ひとしきり脳内で反芻したら黒板の右端の日付と日直を明日のものに書き直して教室の鍵をかける。外ではサッカー部が駆け回っていて、走ってる人の中にたまに見える歩く人の姿で心を静める。目の保養だ、人の歩容で目の保養。
「ふふっ。」
今日の私は絶好調かもしれない、絶好調だから職員室に寄るついでに図書室にも寄っていくことにする。本を読むのは良い、心が洗われる、無垢な気持ちになれる。もうすっかり私は朝の毛沢東の子のことなんて忘れていて、図書室に行くのは純粋な趣味からの行動で朝に毛沢東の子が図書室の方向から来たことなんて覚えていなかった。
昼間にナイ子ちゃんと楽しく歩きながら話したり人の歩く姿を見て楽しくなって何もかもがどうでもよくなっていた、そんな楽しくなってる心をクールダウンさせるのには本を読むのが一番良い。記憶が飛ぶほどの楽しさは危険だ、気が付けば次の日に足が痛くなるほど歩いていたり、5時に学校を出たのに10時ごろに家に着いたり、定期券に入れてるお金がほとんど無くなっていたりする。
今日は移動教室の鍵を職員室に返しに行ってからの記憶がない、いや厳密には無いわけじゃないけど体感としてはそんな感じなのだ。色々の人の歩く姿を見た記憶とそれを反芻した記憶しか頭に残らない、いや厳密には体験したことが昨日のことのように感じる。真面目に授業も受けてナイ子ちゃん達とも会話をしたのに夢を見ていたかのように朧げで実感や感情が伴わない。
とにかく楽しい気分は危険だから本を読んで心をリセットしなくてはいけない。朝三暮四だ、結局は家に帰ったらスクランブル交差点や天気予報の動画などを見て楽しい気分になれるんだから、今は楽しい気分でなくてもいいのだ。今この楽しい気分のまま学校を出て家に帰ったら満足して疲れて何もできなくなってしまう、この気分を0にして疲れずに家に帰った方がご飯も美味しいし宿題なども簡単にできて生活の質が上がる。楽しさはちょっと減るが喜びがちょっと増えるから幸福の総量は変わらない、朝三暮四も朝四暮三も変わらないならより安定している方がいい。
職員室への階段を登っていて階段の上から降りてくる男子と目が合った、その男子が足を止めたので私は興味をなくしてそのまま横を通り過ぎた。職員室の上の階には図書室があるので鍵を返したらそのまま図書室に行くつもりだ。階段をのぼる時は退屈だから少しだけ早足になる。
階段をのぼる時は自分が歩く姿を見れない、自分の足元を見ていては上から来る人にぶつかってしまうからだ。階段をのぼる時の楽しみといったら自分より先に人が歩いている時か上から人が降りてくる時ぐらいだ。
職員室に入る前は3回ノックする必要があるので早足で歩いてきた勢いのまま足をドアを蹴って2回ノックして「失礼します」こうすると時短できるし楽しい。自分の歩いてる足が止まる瞬間は悲しいから最後の一歩を大きく激しくすると余韻が残る。
クラスと苗字と要件を言って教室の鍵を返却すると先生に「歩子ちゃん今日も元気ね」とか言われた。職員室を出ると男子が職員室のドアの横に立っていた、そのまま横を通り過ぎようとした私の肩をその男子が掴んできた。
「聞いてたぜ歩子って名前なのか。俺はケントだ、よろしく。」
「よろしくー。」
なんか話しかけてきたけど適当に返事して手を振り払って図書室に向かう、もちろん階段は早足でのぼる。
背後で何かが聞こえたが無視して階段を早足でのぼっていると後ろから足音が聞こえたので足を止めて振り返った、後ろから歩いてくる人がいるのなら先に歩いてもらった方が図書室までの道のりを楽しめるだろうからだ。
「ちょっと待ってくれって、俺は朝の話の続きをしたいだけなんだ。」
「へーそうなんですか。」
後ろから来てた人が足を止めて私の肩を掴んできたので振り払って階段を再びのぼり始める、話がしたいならナイ子ちゃんみたいに私の前を歩きながら話してくれればいいのに。
誰だか知らないけど人のことを下の名前でいきなり呼んでくるような人とは話す気にはなれない、だってなんか嫌な気持ちになりそうじゃん。そんなことよりも本を読みたい、人の歩く姿を楽しみたい。
「待ってくれって、なあ!教えてくれよ!毛沢東の詩の何を良いと思ったのか教えてくれよ!」
毛沢東、その言葉を聞いて私の足が止まった。もしかして……この子が朝の毛沢東の子?
階段はもう終わって廊下にさしかかっていて、後ろから階段を上がってくる男の子の足音を聞く。私は人の足音が好きだ、人が歩く姿を見るのが好きだ、自分の体が歩いていると感じるのが好きだ、試したことはないがきっと歩いてる人の匂いや味だって好きだ、理由なんてなく生まれた時からの性質、性癖なのだ。
「音、毛沢東の詩って音がいいよね。」
「おと……?発音とかか、考えたこともなかった、文字からは音がしないから、本しか読んでなかったから、考えたこともなかった!好きだ!」
「うん、じゃあちょっと本を貸して読ませてよ。朝ぶつかった時に見た本。」
「いいぜ!」
そして私は本を借りて家に帰った。
電車に乗りながら本を読もうと思っていたせいで楽しい気分のまま私は駅に着いていて、小一時間ほど人の足音を楽しんで電車に乗って乗り換えの駅に着いたら、また小一時間ほど人の足音を聞いていた。電車を降りる人々は足を止めない、どれだけ階段や改札で行列のように詰まっていてもゆっくりと足を動かして歩いている。
電車が駅に着いて電車から人が一斉に降りる、その足音を聴いてて電車に乗るのを忘れてしまう。だって一つ一つの足音が個性を主張しつつ同じ方を向いて歩いてるなんて楽しすぎる。そんなこんなでまた空が暗くなってから家に着いた。
「ただいまー!今日のご飯は〜?」
「焼きそば。目玉焼き焼くから風呂入ってきなさい。」
「あとでね〜。」
母に今日のご飯を聞いてから自分の部屋で借りた本を読む。本はいい、自分の思考の何もかもを本の中に傾けて何もかもの感情を本から受けるものに代替すれば心が落ち着いて安らかになる。
「もう焼けたよ〜。」
本を読み終わった時にちょうど母の声を聞いてリビングに行く、父が帰ってきていた。
「いただきます!」
私はアツアツの湯気が出てる目玉焼きの乗った焼きそばを食べ始めた。父は渋そうな顔をしながら冷めた目玉焼きの乗った焼きそばを食べている。
この今の私が食べてる目玉焼きは父が帰ってきた時に母が父のために焼いた目玉焼きだろう、でも私が食べちゃう。どうせなら温かい料理が食べたい、それが人情じゃん?
「も〜そんな顔しないでよ父さん、じゃあお風呂先に入って良いよ。」
「ああ追い焚きしておくよ。」
私だって悪いと思っているのでお風呂はお父さんに譲る。まあ本当の魂胆である風呂をちょうど良い温度にしてもらうことを見抜かれちゃってるけど、私が悪いと思ってるのは本当だ。
「ごめんねって後でお酌してあげるからさ。」
モゴモゴと焼きそばを食べている父に流石に申し訳ない気持ちになってきた。
「いいって、酒はな邪魔なものを排除する道具じゃなくて邪魔なものを排除してから飲むもんなんだよ、雑音はいらん。」
あっでもなんかドヤ顔し始めた。
「この前は喜んでたのに。」
「あの時はな。酒は色んなのを楽しみたいんだよ、雑音がいるときもある。」
「あー最初の、酒は邪魔なものを排除するための道具じゃない、の部分を思いついたから言いたかったんでしょ。」
「うん。」
父は恥ずかしそうにモグモグしている、私はどうでもいいのでさっさと食べ終わって父の風呂を待つことにした。歩いている人が出てこないかとテレビを見ていて少し今日の自分を反省した。
さっきの父のアツアツの卵焼きを奪ったのも悪かったし、毛沢東の子……ケンジだっけ?あの子から本を借りてそのまま肩を掴んでくる手を振り払って帰ったのも悪かったし、あの時に後ろで何かを言ってる声を自分の足音を聞くのに邪魔な雑音だと思いながら帰ったことも悪かった。
あの時にケンジくんは私のことを何度か追ってきて私の肩を何度か掴んできていた、つまりケンジくんは喋りながら歩いていた(走っていたかもしれないが廊下や階段は走っちゃいけないので考えないものとする)。そうだよ歩きながら会話をする人の声もいいじゃん!なかなか楽しめそうじゃん!歩きながら会話をしているってことは歩いている部分がメインで会話はサブなんだ、だって本当に会話に集中したいなら足を止めてゆっくりと腰を落ち着けるかして会話をするはずで歩くことのほうがその瞬間ではメインなんだ、
あー聞いとけばよかったよ、ケンジくんの声もそうだけど駅で人の足音を聴いていた時だって人の声も聞いておけばよかった。興味がないから完全に無視してて学生の声がちょっと聞こえたとか何人かの会社員の集団が近くで会話してたとか外国人の声が遠くから聞こえたとかぐらいしか、薄らとしか覚えてない。
後悔するなぁ……。
「おーい風呂出たぞ、ちゃんと42℃にしといたからな。」
「はーい入る入る。」
ふとテレビを切ろうとしたらドラマで人が歩いていた。全く内容をしらないドラマだけどドラマの中で二人の人間が一緒に歩きながら会話をしているシーンに私は釘付けになる。
あー良い、とても良い、楽しい、カメラワークがいいね、最高。
歩いている人を追いながら歩くとカメラが揺れて後から見返す時に見ていて酔って気持ち悪くなってまう、後で楽しもうと思って休日にカメラを持って撮影しに行ったけど私の技術じゃそうなってしまった。だから手ぶれ補正のあるカメラとかにちょっとした憧れを抱いているんだけど、最近はスクランブル交差点のライブカメラを見たりして満足していて憧れてはいるけど憧れてはいるんだけど、そこまで欲しいとは思っていない。
会話もいい、歩きながらの会話はそこまで重要なことではないか、それか移動しながらでも話をしないといけない時間がない状況ということで、なかなかに面白い。刑事ドラマだったようだ。
走りながらだと会話できないもんね、だから歩きながら会話するんだよね、走りよりも歩くほうが上だよね、いいよね歩きって、歩きっていいよね、いいんだよ歩きって。
ドラマが終わってしばらくしてもずっと反芻してたからお風呂はちょっとぬるくなっていた。
ドラマは楽しかったけど朝四暮三だった。猿が自分に与えられる栃の実が朝に三つ暮に四つであることに腹を立てて文句を言ってきたので朝に四つ暮に三つにしてやったら猿は喜んだ、それが朝三暮四という故事成語だ。
ドラマを見て私の幸福は一つ足されたが風呂の温かさの幸福が一つ引かれた、一つ減って一つ増えた。総量は変わっていない、総量が変わっていないなら明日の健康に繋がる風呂が温かいほうが良かった。
朝三暮四の猿は幸福だ、元々と得られるものの総量が変わっていないのに自分達の願いが聞き入れられて喜びを得たのだから。私は未来を減らして今の楽しさを取っている、これでは元々よりも全体の総量は減っているはずだ。1日の中や一つの行動の前後だけを見ると総量は同じに見えても長い目で見たら減っている、こんな生き方をしていたら私はきっと将来いつか後悔する。
眠気を感じながら宿題をして、自分の睡眠時間が削られているのを実感する。もっと上手く生きたいな。
眠いから布団に入ってからは何も考えずにグッスリだった。