8. エスカレートする愚行
その夜の夫婦の寝室。
私はどんな顔をして彼を待っていればいいのか分からなかった。
ううん、頭では分かっている。平常心を保って、昼間見たことには一切触れなければいい。一番見苦しいのは、取り乱してジェラルド様を責め立てること。殿方の些細な浮気心にいちいち反応して癇癪を起こすのは一国の王妃のあるべき姿ではないもの。
深呼吸を繰り返しながら、私は国を出る前に母からかけられた言葉を思い返していた。
(…大丈夫よ、お母様。お母様の仰ったとおり、こんな日がやって来てしまったけれど…。覚悟していたことだもの。お母様が事前にああやって話してくださっていたおかげだわ。私は大国の正妃。自信と誇りを持って、自分の役目を果たします)
本当は、悲しくて不愉快で仕方なかった。
あんなに愛を囁いて、私のことを可愛い可愛いと、大事にすると言っていたくせに、って。
ほんの数ヶ月前の結婚式で、末永く睦まじく暮らしていこうと言ってくれたのに。あれは二人きりでずっと、っていう意味じゃなかったのね。
たった一年さえも持たなかった薄っぺらい愛情が悲しくてやるせないけれど、…しょうがない。大昔から数え切れないほど繰り返されてきた男女のすれ違いよ。私にもその苦労を味わう時が来たってだけ。
私の役目は、子を成し、その子を国王の後を継ぐ立派な人物に育て上げること。ラドレイヴン王国の繁栄と平和のために働くこと。
割り切らなくては。
「…………。」
そう思って覚悟を決めて待っていたのに、その夜、ジェラルド様は二人の寝室に訪れることはなかった。
そしてその日以降、彼とベッドを共にすることはただの一度もなかったのだった。
最初は私に対する遠慮があったのか、ジェラルド様も大っぴらに女性を王宮の中に招き入れたりはしていなかった。ただ以前と違って、日中どこかに姿を消してしまっていることが多くなった。
公務も徐々に疎かになり、ジェラルド様が謁見すべき来客も私が対応することが増えてきた。ジェラルド様が目を通すはずの書類にも代わりに私が確認してサインをすることまであった。
「…ジェラルド様、最近公務に支障が出がちです。日中何をなさっているのですか?何かお忙しい理由があるのですか?」
「いや、お前は気にしなくていい。王妃として俺の代わりにやれることはやっておいてくれ。俺にもいろいろと用事はある。わざわざ話すほどのことではないがな」
「……。」
歯切れの悪い、全く返事になっていない返事。こちらを見向きもせずに中途半端なことを言うジェラルド様にだんだん腹が立ってきた。
「こんなの…あんまりですわ!あんなに強引にアリア様を妃に迎えておきながら、ものの数ヶ月でこんな風に手のひらを返すような真似をなさるなんて…!カナルヴァーラ王国に対する侮辱でもありますわ!」
「しーっ。リネット、誰もいないからってそんなこと口に出してはダメよ。どこで誰が聞いているかも分からないわ。あなたの気持ちはよく分かるけれど…、隙を見せるようなことをしてはダメ」
「…ですが、アリア様……っ」
私のために怒ってくれるリネットをたしなめながら、私自身虚しい気持ちが大きかった。私に飽きて他の女性と遊んでいるのは明白だったけれど、公務まで放り出すようになってしまうとは…。
護衛や侍女たちの気遣わしげな目線も居心地が悪い。数ヶ月前にあんなに豪華な結婚式を挙げ、ひたすら王妃教育に邁進している姿をずっと見守ってくれていた彼ら。今はきっと憐れな女だと思っていることだろう。
そのうちにジェラルド様は王宮の自分の私室にまで女性を招き入れるようになってしまった。
「ん?どうしたアリア。……ああ、彼女は友人の一人だ。市井の民たちの暮らしぶりについて俺に教えてくれている。ためになるぞ。今度お前にも話して聞かせてやる」
「ふふふ」
そう紹介された女性の方は楽しそうにクスクス笑うと、ジェラルド様と一緒に部屋の中に消えていくのだった。
(…これではあまりにも目に余るわ。彼らはどう思っているのかしら…)
見境なく次々と女性たちを部屋に入れはじめた国王に対して、側近らは何も思うことはないのだろうか。ある時私はいつも冷たい態度のカイル・アドラム公爵令息を捕まえて話をしてみることにした。
「…一体何でしょうか、お話というのは。申し訳ありませんが、私は国王陛下から言付かった用事がございますので、あまり時間がありません」
私の部屋に呼び寄せたカイル様は面倒くさそうに視線を外すと、不機嫌を隠そうともしない態度でそう言った。
「…時間はとらせません。あなたが何も気付いていないはずがないと思うの。…陛下の女性関係よ。下位貴族のご令嬢方のみならず、どこのどなたか身元の知れない女性たちまで、最近では陛下は次々と王宮に招き入れていらっしゃるわ」
「……。」
そもそも、私が最初にジェラルド様の浮気に気付いた時、この人は彼のすぐそばにいた。最近の状況を分かっていないはずがない。何も感じないのだろうか。それとも…。
カイル様は、はぁ…と小さくため息をつくと、冷え切った目で私を見ながら答えた。
「だから何だと仰りたいのですか?陛下には陛下のお考えがあってのこと。私ごときが陛下の行動を諌めるようなことはできません。そもそも、何も悪いことをなさっているわけじゃない。陛下は様々な客人たちから市井での生活ぶりや困り事などを聞き出して民たちの暮らしの向上に役立てたいとお考えなのでしょう。…これくらいのことでいちいち目くじらを立てていらしては、一国の王妃など務まりませんよ」
(……な……、何よこの人……!)
ちょっとあんまりじゃない?陛下を諌めることなどできないとか言いながら、私にはこの態度なの?
何でここまで嫌われているのかさっぱり分からないけれど、この時私は初めて明確にこの側近に対して怒りを覚えた。
震える拳をぐっと抑え、私はできるだけ落ち着いた声を出す。
「…このくらいのことと言われても。すでに公務にまで支障が出ている状況だから言っているんです。彼がすべき公務を私がフォローしながら日々をやり過ごしているんですよ。あなた側近でありながら陛下の行動を見ていて何とも思わないの?本当に?」
カイル様は今度は大きくため息をつくと、眉間に皺を寄せながらそのサラサラの銀髪をかき上げた。
「八つ当たりですか?ご自分が相手にされなくなった腹いせに私に不満をぶつけられても困りますが。お気に召さないのでしたら陛下と直接お話なさったらいかがでしょうか。私は陛下の振る舞いに何の疑問も感じておりませんので。巻き込まれても困ります。……失礼」
「な…………!」
信じがたいことに、カイル様は言いたいことだけ言うと私の許可を得ることもなくさっさと踵を返して部屋を出て行ってしまったのだった。
「な……、な……、何なんですかあの男!!あの態度!!誰を相手に話しているつもりなんでしょうか!!馬鹿にしてますわ!!キーーーーッ!!」
私が腹の中で叫んでいた罵詈雑言はリネットが代わりにまき散らしてくれた。それでも彼のあの無礼な態度には怒りが収まらない。
(随分嫌われているようだけど…、こっちもあなたなんか大っ嫌いよ…!)