ティアーズ オブ フェイスレス キラー;10
紙束をめくる音。端末機のキーを叩く音。そして、舌打ち。
「くそ、けったくそ悪いな……」
“さいばあうゑあ施術院”の隠し扉の奥、銀色に輝く精密機器が並ぶ“工房”。分厚いファイルに綴じられた紙束を何度もめくり、端末機に残された治療記録を何度も見返した後、店主は悔しそうにため息をついた。 これだけ探しても、“最後の被験者”の記録がどこにも見当たらないとは!
もう一人、いたことは間違いないのだ。記憶からも、記録からもすっぽり抜け落ちた“ウィスパー・マスク”の被験者が。 しかし、それが何者だったのか、どのような末路に至ったのか……思い出せない。それが“いた”ことは確かだし、手を下したのは間違いなく自分だというのに。
「ちくしょう……」
老人は自らの頭蓋に手を当てた。てめえがやった事だってのに、何故思い出せないのか。自分の目で見たはずのモノを、何故……
「そうか!」
職人は膝を叩いて、目の前の端末機から伸びるコードを掴んだ。
俺は自分の目で、何が起こったのかを見たはずだ。それなら……!
首筋につけられたカバーを開くと、サイバーウェアの生体接続コネクタが露出した。老人は手にしたコードの端子を自らのコネクタに突っ込んで、端末機と頭脳を直結した。 画面全体に“強く非推奨:この行為はサイバーウェアを介して、使用者の頭脳がマルウェアの侵入を受ける可能性が高く、大変危険です”との警告が表示される。
「わかってんだよ、ンな事」
悪態をつきながら警告表示のウィンドウを閉じると、インストールしているサイバーウェアの一覧が表示された。体調管理アプリ、セキュリティ認証用の生体キー、動画配信サービス“ナゴヤ・ブロードバンド・チャンネル”のアカウント……目当てのアプリケーションにたどり着いた。それは、精密作業用の視野拡大スコープだった。
「俺が見たなら、こいつに……」
アプリケーションの管理画面を立ち上げる。このアプリ自体は、搭載者の眼球に直接信号を送って焦点調整をサポートする……というシンプルなものだ。
「ログが残ってるはずだ……っと」
老人は管理画面に一見、でたらめな文字の羅列に見えるようなコマンド・コードを打ち込んだ。画面いっぱいに、アプリが捉えた画像データのログが暗号データとなって表示される。これも無意味そうな大量の文字列だが、熟練のサイバーウェア職人でありプログラマーである男にとっては、日記のページをめくるようなものだ。 施術記録の欠落した部分から、“それ”が映っている可能性がある日にちのログを抜き出す。視野拡大アプリの視覚情報は、端末機のブラックボックスに暗号化して保管している。元々、施術した時の問題を反省するために作ったシステムだったが、こんなことに役立つとは。 映像が端末機の画面に表示される。映し出されたのは想像していた通り、処置室の作業台。そして台の上に横たわっていたもの。更には、大声をあげて施術院に乗り込んできた者たち。老人は目を見開いた。
「これは……! やっぱり、そうか。俺は全部失敗したわけじゃなかった!」
施術作業、“ウィスパー・マスク”の適合者、そして現れた黒服の男たち。老人の記憶がまざまざと蘇ってくる。画面の中で男たちが語る“秘匿義務”……“忘却措置”という言葉……何らかの処置を受けて記憶を奪われ、封じられていたことはもはや明らかだった。
「そうだ、あの時、俺は……! ああ、クソ! 何だ?」
店主が画面に見入っていると、視界が突然暗転した。
「ちくしょう!」
端末機に仕込まれていたマルウェアが、ブラックボックスの開封をキーにして起動し、老人のサイバーウェアにも侵入を開始したのだ。真っ黒になった意識の中、次々と浮かび上がる“CAUTION!”の禍々しく赤い文字。
「何か仕込んでやがったな、このタワケどもめ……!」
店主は慌てて端末機から伸びるコードを引き抜いた。視界はマルウェア侵入の影響で、あちこちが黒く欠け落ちている。 脳髄を激しく揺さぶるような不快感に襲われ、よろめきながらもテーブルの上の通話端末に手を伸ばした。
地下深くに伸びる都市、ナゴヤ・セントラル・サイト、西部地区。その最上層、地表部から吹き抜けになった、地下第一層。 暗闇の中に輝くネオンと立体映像の光に文明の豊かさを見出し、外敵が侵入する危険の少ない深層区画に安心感を得るナゴヤの住人に放棄され、旧文明の廃墟遺跡が放置されて、生い茂る草木に埋もれかけた“遺跡公園”のベンチに、スーツ姿の若い女性が腰かけていた。
「……ふう」
オレンジ色に染まりはじめた空を見上げて、娘はため息をつく。人いきれとネオンの閃光、爆音のコマーシャル・ソングに曝され続け、すっかりへとへとになっていた。 去年まで、ずっとこの町で暮らしていたのになぁ。今ではすっかり、穏やかなナカツガワの朝と、豊かな音楽と人々の歓声が響くカガミハラの酒場こそが自分の居場所だと思う。
「結局、大した収穫はなし、かあ。西部地区が怪しい、ってことだったけど……」
「仕方ありません、アマネさん。結局、“ウィスパー・マスク”以外の手がかりは得られなかったのですから」
独り言のように漏らした、娘の声に答える声。上空に円を描いて飛んでいた機械仕掛けの小鳥が、娘の前に降り立った。白磁のボディを持つ小鳥はぴりり、ぴりりと鳴いて小首をかしげる。
「一度、メカヘッドさんとマダラさんに合流するのはいかがでしょうか。新しい捜査の視点を得ることは有用であるかと」
「うーん、でもなあ。せっかく別行動でここまでやって来たんだし、メカヘッド巡査曹長の力を借りないで頑張ってみたいのよね」
小鳥の提案を聞くと、若い巡回判事・滝アマネは口笛を吹くように口先を尖らせた。負けず嫌いなのである。
「捜査の効率性と正確性という観点から、アマネさんの選択は推奨できるものではありませんが」
機械仕掛けの小鳥の言葉を聞き、巡回判事は不満そうに頬を膨らませた。
「わかってますー。……それに、それならレンジ君にもコンタクトをとって一緒に捜査した方がいいと思うんですけど?」
アマネが反撃すると、小鳥はぴりり、ぴりりとさえずるような動作音をあげながらぴょんぴょんと跳ねて首をひねった。
「ご提案は却下します。マスターは“お忙しい”ので」
間を置かずあっさりと、すっぱりと言い切る小鳥をアマネはじっと見つめる。
「やっぱり、ナイチンゲールちゃん、レンジ君と喧嘩してるの?」
「当AIには、そのような機能は搭載されておりません」
「はいはい……」
アマネが総合戦闘補助AI“ナイチンゲール”に呆れ声で返した時、ポケットに入れていた通話端末が激しく鳴り響いた。
「わっ、わっ!」
慌てて端末機を取り出す。発信者の番号に見覚えはなかったが……
「はい、もしもし?」
「『刑事さんか』」
妙にしおらしいというか、神妙ささえ感じるような真剣さで呼びかけてきたのは、“さいばあうゑあ施術院”の店主だった。……そういえば、逃げるように店から出ていくとき、メイシ・カードを置いていったんだっけ。
「はい。巡回判事の滝アマネです。どうなさいました?」
「『さっきは済まんかったな』」
「えっ、はい?」
急にしおらしく謝る店主に驚いてアマネが目を白黒させていると、店主が続ける。
「『急にデンワしたのは他でもない、あんたから話があった件についてだ』」
「あっ、“ウィスパー・マスク”ですか?」
「『そうだ。あの件……』」
急に激しいノイズが入り、店主の声がかき消える。
「『……クソ! こいつは……』」
「おじいさん? どうしました?」
「『すまん、ヘマを……俺……』」
ノイズは激しさを増し、店主の声を飲み込んでいく。
「『……たの……す……』」
とうとう全てがノイズの中に埋もれ、通話回線がぷつりと切れた。アマネは首を横に振ると、携帯端末をポケットに突っ込む。
「ナイチンゲールちゃん、“さいばあうゑあ施術院”に戻ろう! 何か、あったみたい……!」
機械仕掛けの小鳥、ナイチンゲールはアマネの肩に飛び乗ってぴりり、と鳴いた。
「了解です。最短ルートを見積もりますので、少々お待ちください」
ナゴヤ・セントラル・サイト、西部地区の“遺跡公園”。アマネたちが憩っていた区画から数ブロック先に、公園管理事務所の小さな建物があった。 窓から射す夕焼けが、部屋の中をオレンジ色の光で満たす。最低限の家具類が並んだ、殺風景な事務所の中。壁には赤い飛沫が点々と散り、床に倒れ伏した老人の周囲には鮮やかな血溜まりが広がっていた。 男を見下ろすのは、頭を覆うショールに返り血を浴びた老婆。血糊がべったりとといたナイフを持つ手は、細かく震えていた。
「ふう、ふう……」
殺すつもりはなかった。ただ、寂しそうな“彼”の話し相手になってあげていただけだったのに、急に迫られて……“もう、私には後がないんだ”なんて脅されて、襲われそうになったから、怖くなって……
「ああ、ああ……」
動かなくなった“彼”を見下ろし、後悔と絶望と罪悪感に胸を押しつぶされながら、すすり泣きのようなうめき声を漏らす。 ひとしきり声を吐き出すと、老婆はショールを脱いで顔を上げる。既に、涙は止まっていた。ショールを血溜まりの中に放り捨てる。
そこに立っていたのは、両目に流星のような光を散らす若い娘。彼女こそ、ナゴヤ・セントラルの闇から現れ闇に消える、神出鬼没の“顔の無い殺人者”……“マスカレード”。 暗殺者はナイフを放り捨て、折り曲げていた腰や背中を伸ばして無造作な声をあげた。
「ふう。はー、あー……!」
初めてやってみたが、老婆の“役”は、どうにも体が固まってよろしくない。でも、まあ、これでこの役ともおさらばというものだ。 “彼”がしがみついていた袖には、赤い手形が残っていたことに気が付くと、暗殺者はターゲットだった男を見下ろした。 “彼”は何度も、この老婆の“役名”を呼んでいたなあ、とふと思う。死にそうになりながらも“役名”を呼び、どうして、どうして……と言いながらこと切れたのだった。 “役名”を呼ばれても、“マスカレード”の心は動かなかった。当然だ。それは本当の名前ではなく……そして本当の名前はもう、すっかり思い出せなくなっていた。
誰も私の名前を呼ばない。誰も私の名前を知らない。もちろん、外ならぬ私自身も。それでいいと思っていた。仕事には困らないし、仕事をすれば、電子ドラッグを買える。何とか死なないで済む。……でも、そんな時にあの人が現れた。
“マスカレード”は血濡れた朽葉色のスカートを脱ぎ捨て、バッグに収めていた薄手の上下に着替える。これで、依頼された仕事は全て終えた。ようやく……
そうしたら、私は何になればいい?
私の名前も、姿も、全て“仕事”のために身につけた偽装に過ぎない。“あの人”に名乗った名前だって嘘だ。 だって私には名前がないから。私は名無し。名無しの、なーんにもない、ナナ……
「……くだらない」
娘は首を横に振った。そして再び血溜まりに横たわる男の亡骸と、自らが脱ぎ捨てた朽葉色の装束を見下ろした。 “仕事”は終わったのだ。ひたすら殺し続ける1年を過ごし、安い電子ドラッグを買い続けながらつつましやかに暮らすだけのカネは手に入れたのだ。だから、もう、こうやって悩む必要はないのだ……
「あ」
“マスカレード”は脳髄が震えるような感覚に襲われ、凍り付いたように動きを止めた。
「あ、あ、あああ……」
視界にノイズが走り、砂嵐が覆いつくす。思考がまとまらない。全身が言うことを聞かない。吐き気のような、こみ上げる不快感と叫びたくなるような不安。
「ああ、ああああああああああ!」
壊れたように声が漏れる。……実際、彼女は壊れ始めていた。インストールしているサイバーウェアをゲートウェイに、緊急命令を伝えるクラッキング・ウェアが彼女の脳髄を、全身を侵し始めたのだった。
「ああああああああ、あああああああああ……!」
“忘却措置”は破られた。“秘匿義務”に重大な違反が発生した。……抹消せよ。暗殺者“マスカレード”に関わる全てを。抹消せよ、抹殺せよ。全て。
叫ぶのをやめた彼女の両目は赤く、爛々と輝いていた。
「……いかなきゃ」
“マスカレード”は誰に言うでもなく言葉を漏らすと、消火用スプリンクラーのスイッチを押し込んだ。室内に滝のような勢いでシャワーが降り注ぐ。 全身をしとどに濡らしながら、暗殺者は夕焼けに染まる遺跡の森へと消えていった。
(続)