ボトム オブ ピット、ライク デヴィルズ ネスト:1
カガミハラに届いたSOS。
それは因縁の地へといざなう、ヒーローへの救助要請……!
薄緑色の培養液に満たされた水槽が、照明の光を浴びて暗い室内に浮かび上がっている。床面から天井まで伸びる光の柱の中、丸い大きなモノがわずかに揺れながら浮かんでいた。
水槽の中の丸いモノは、一人のミュータントだった。膨らんだ肉塊に変形した下半身の上には、所々が変形しながらも少女の上半身のような形を保ったモノが生えだしている。
薄赤色の肌を持つミュータントは緋色の瞳をぼんやりと室内に向けながら、口をぱくぱくと動かしていた。彼女が口を動かすたび、小さな泡がいくつか生まれては天井に向かってのぼっていく。
床を伝って水槽内に響く、わずかな音。暗闇の中で近づいてくる足音に気づいて、培養液にたゆたうミュータントは目を見開いた。口から気泡を吐き出しながら周囲を見回していると、近づいていた作業着姿の男が水槽に張り付いた。水槽内を照らす照明の光を浴びて、顔をしかめた男の姿が浮かび上がる。
培養液に浮かぶミュータントは笑顔になって男を見下ろし、両手をパタパタと動かした。
「来てくれたんだ、じょうじ!」
水槽内で少女が声を発すると、口から溢れるように気泡が飛び出す。
「全然会いに来てくれないんだもん! もう来ないのかと思った!」
水槽の外に、直接少女の声が聞こえることはない。しかし男は左手のサイバネ義肢を水槽に当てながら、小さく笑っていた。
「『たかが三日、四日のことじゃねえか』」
義肢に内蔵された震動検知システムで培養槽の中の声を検知し、頭蓋に挿入されたサイバーウェアで内部スピーカーをハッキングすることで、自らの声を内側に届ける。
この研究所に連れてこられてからずっと水槽の中で暮らすことを余儀なくされていたミュータントの少女にとって、サイバネ化した男との会話は何よりも嬉しいものだった。
「『……けど、これで終わりだ。悪いが、もうお前には会えない』」
男がサイバーウェア越しに放った一言に、少女は目を丸くする。
「ええっ! どういうこと? 絵本の続きは?」
「『色々あるんだよ、こっちは』」
作業着の男は自らの顔を隠すように、額に右手を当てた。
「『とにかく、この研究所にいられなくなっちまったんだ。見つかるとマズいから、そろそろ俺は行くぞ』」
「やだ! 待ってよ、じょうじ!」
ミュータントの少女はあらん限りの力で両腕を動かし、水槽内で暴れ回った。わずかに揺れる水槽に左手を当てながら、サイバネ義腕の男は声を上げていた。
「仕方ないだろう!」
予想外の大きな声が出たことに、男自身がギョッとしていた。ミュータントの少女は男の顔を見下ろし、見開いた両目をぱちぱちとまたたかせている。
サイバーウェア通話機能を使っていなかったことに気づき、男は周囲を警戒した後「おほん」と咳払いすると、再び水槽内に話しかける。
「『仕方ないことなんだ。捕まったら、そこでお終いだからな。……新しい絵本、読み始めたばっかだっていうのに、済まないな』」
「じょうじ……」
部屋の外からわずかに漏れる話し声を耳にして、作業着の“じょうじ”は慌てて顔を上げた。
「『やべえ、誰か来る! じゃあ、絵本はここに置いておく。……達者でな!』」
「じょうじ!」
ミュータントの少女が叫ぶが、サイバネ義腕の男は絵本を水槽の裏側に置くと、そのまま研究室の暗闇の中に消えていく。
「待ってよ、じょうじ!」
返事はない。既に男は部屋の隅に作られていた非常用通路を通り抜けていった後だった。
「ねえ! ねえってば! 戻って来てよ!」
ミュータントの少女は叫び続けて水槽の壁を揺らすが、研究室の気密扉に白い光の縁取りが浮かび上がると騒ぐのをやめた。光が大きくなり、扉が開ききると白衣姿の研究者たちが数人、研究室に入ってきた。
“じょうじ”以外の人間の前では、静かにしていなければいけない。さもないと“変なもの”を水槽の中に流し込まれて、何だかよくわからなくなってしまうから……
研究室の照明がつくと、白一色で統一された壁や機材が目に突き刺さってくる。身をもって学んだ教訓を思い出しながらミュータントの少女は目を細め、ぼんやりと水槽の中に浮かんでいた。
研究者たちはスリープ状態だった機材を起動させると、慌ただしく動き始める。これがミュータントの少女にとっての、一日の始まり。自らの足元で動き回る白衣たちを見ながら、少女は祈った。
今日は、何も痛いことがありませんように。
ナゴヤ・セントラル防衛軍カガミハラ駐屯部隊、軍警察署の地下会議室。着古してところどころが擦り切れたライダースーツ・ジャケットを着た男と、オレンジ色の肌をしたカエル頭の男が、所在なげにパイプ椅子に腰かけていた。
取次を頼んだ受付嬢からは「あんなところに呼び出しですか!」と驚かれ、何度も使用状況を確認してから通された部屋はわずかに埃っぽく、古い書類が放つ独特の臭いが漂っている。数十人は収容できるような会議室の中央、ぽつんと置かれた折り畳み机に肘をかけ、パイプ椅子に腰かけると、ライダースーツ・ジャケットの男は虚空に向かって声をかけた。
「それで、何で俺たちだけ呼び出したんです、メカヘッド先輩?」
がらんとした室内には、二人以外誰もいない。けれども声を発した男も、もう一人のカエル頭の男も、話を聞かれていることを確信していた。
「いやあ、すまないねえ、お待たせしちゃって!」
入口からヘラヘラした声が飛んでくる。顔を出したのは、頭を機械部品に覆われた男だった。男は扉を閉めると、芝居ぶった身振りで両手を開きながら、大股で二人の前にやって来た。
「ちょっと念入りに、人払いしてたもんでねえ……いやはや、申し訳ない」
「まあ、待たされるぐらいならいいですけどね。……ああ、ふ!」
カエル頭の男が大きく口を開け、あくびしながら言う。
「メカヘッド先輩のやってきたことに比べればまだ、大したことないというか何というか……」
「おいおい、ひどい言いようだなマダラ君!」
メカヘッドが首をすくめると、ライダースーツ・ジャケットの男は「はあ……」とため息をついた。
「俺も、待たされるくらいは全然気にしませんよ。それよりも、これからどんな難題を吹っ掛けられると思うとねえ」
「レンジ君まで、そんなことを言うのかい?」
「事実じゃないですか」
「まあ、ね」
あっさり認めると、カガミハラ軍警察一般捜査課、巡査曹長を務める機械頭の刑事……自らを“メカヘッド先輩”と名乗る男は二人の前に腰かけた。
「カガミハラを守ったヒーロー、“ストライカー雷電”に、新たな頼み事ができてね」
「俺は別に、カガミハラを守るヒーローじゃないんだけどなあ」
メカヘッドの話を聞いて、レンジは頭を掻く
「それで、頼み事ってなんなんです?」
「うん。それがまさに、カガミハラを守ってくれたことに関係しているんだ」
「はあ?」
「君たちはあの時、この町に侵入してきた兵士たちを倒したが……そもそも、あの襲撃事件は私の協力者がリークしてくれた情報があったから対処することができた。それが無ければ君たちに助けを求める事も間に合わず、大変な事態になっていただろうね……」
ぽかんとしているレンジとマダラを後目に、メカヘッドはつらつらと説明を続ける。
「おっと、話が脇にそれてしまったな。ここからが本題でね。数日前に、その協力者からSOSが届いたんだ。組織の中で自分の立場が危うくなってきた。一人で逃げ出すのは難しいから、助けてほしい、と」
「組織、って、やっぱり……」
マダラがちらりと隣を見やる。レンジは口を真横に引いて、テーブルの上を睨んでいた。
「ブラフマー……」
「そう、ブラフマーだ」
ブラフマー。文明崩壊した後、少しずつ復興を続ける各地に根付き、勢力を広げ続けている一大非合法シンジケート。企業の後ろ暗い部分、表に出せない物品にサービスが集まる、いわば悪徳の見本市。
「より正確に言えばブラフマー内で強い力を持つ一企業、“アケチ製薬”の所属なんだがね。協力者……本人は“ヘイズ”と自ら名乗っていたが、彼はアケチのプラントで働きながら、私に情報を流してくれていたんだ」
「社内で立場が悪くなった、っていうのは、スパイがバレたってこと?」
むっつりと黙り込んだレンジに代わってマダラが質問すると、メカヘッドは首を横に振る。
「それは、わからない。音声通話で話した感じだと相当切羽詰まっているみたいだったけどね。……どうだいレンジ、マダラ君、話を受けてくれるだろうか?」
「ええっと……どうしよう、レンジ?」
マダラは返答に困ってレンジを頼った。ブラフマーに因縁のあるレンジはうつむいて考えていたが、顔を上げてメカヘッドを見る。
「質問があるんだが」
「なんなりと。お応えできる範囲なら」
「何で、俺たちだけなんだ? アマネとおやっさんを呼ばなかったのは、分からなくはないが」
メカヘッドはレンジからの質問を聞きながら、わざとらしく肩をすくめた。
「まあ、内通者の情報なんて、なるべく他の部局の人間には知られたくないからねえ。いくらタチバナ先輩や巡回判事殿とはいえ、知られるのはリスクが大きすぎるから。……それで?」
「このタイミングでナイチンゲールにメンテナンスを受けるようにしたのは何故だ?」
「何故って……」
何でもない風を装い、すっとぼけた声で訊き返すメカヘッドに、レンジは
刃のように鋭い視線を向けていた。
「この話には、“彼女”を関わらせられないような何かがあるのか?」
「参ったな。全く、君は大事なところで勘が鋭くて困る」
ため息をつくと、機械頭の悪徳刑事は姿勢を正してレンジに向き直った。
「君に侵入するように頼んでいるアケチ製薬は、かつてあるモノを裏世界に流したことが大きな問題になった。内通者の男も、元々はソレに関わる部署にいたらしい」
「それって、もしかして……」
マダラがごくりとつばを飲み込む。レンジは冷徹な表情で、メカヘッドを見つめていた。
「それは」
「ああ。かつてオーサカからナゴヤまで、広い範囲に蔓延した合成麻薬……“ニルヴァーナ”だ。君にとっては聞きたくもない名前だろうけれど……」
「まあ、な」
レンジは短く答えると立ち上がる。椅子に腰かけたままのメカヘッドを見下ろしながら、話を続けた。
「それでも、ナイチンゲールを巻き込まないようにしてくれたことは、感謝する。“ニルヴァーナ”は“彼女”にも因縁の深いものだからな。……受けるよ、その仕事」
「レンジ……」
マダラは掛ける言葉に困って、オロオロしながらレンジとメカヘッドのやり取りを見ていた。
「準備があるから、今日はここまでだ」
「ああ、また詳しい話は、後で」
互いにそれだけ言い合うと、レンジはさっさと部屋を出ていく。
「あ、ちょっと、レンジ! ……ええと、失礼しました!」
マダラも慌てて礼を言うと、レンジの後を追いかけて出て行いった。
静まり返った会議室に一人残ると、メカヘッドは天井を見上げて深くため息をついた。
(続)