第7話「聖女の朝食」
マリスの朝は早い。
日の出よりも前に勝手に目が醒めるのはそうした生活が染み付いているからだった。視界に入るのは見慣れた天井ではなく見知らぬベッドの見知らぬ天蓋だった。
魔王は宮殿内にマリスの居室を用意してくれた。かつて聖女として与えられていた部屋よりはやや狭い。それでもマリスひとり暮らすには申し分ない広さだった。
「おはよう……ございます」
誰にともなく挨拶をして体を起こす。職人がさぞや手間暇をかけただろう天蓋付きのベッドから下りて、着心地の良すぎる寝巻きを脱いだ。丁寧に畳んでベッドの隅に置く。昨夜の黒いワンピースもそうだが、寝間着もマリスにとっては肌触りが良すぎるものだった。着慣れた聖女の装束はいつ返してもらえるのだろう、などと詮無い事を考える。
大きな両開きの窓を開き――そう言えば王宮の部屋は窓が開かなかったな、と思った――、白み始めている空を眺め、まだ冷たい夜の気配の残った空気を吸い込んだ。軽く伸びをして、昨夜のうちに見つけておいた雑巾と箒を手に取った。下着姿のままで掃除を開始する。
窓拭きに取り掛かる。高い位置は手が届かないので、高価そうな椅子を恐る恐る踏み台にした。
板張りの床を掃き掃除する。元々手入れが行き届いていたこともあり、掃き掃除はすぐに終わった。雑巾で乾拭きをはじめるとつい熱中してしまった。
どれくらいの時間が経ったのか、窓から朝日が差し込んできた頃、部屋のドアをノックする音が響いた。
「はい」
と返事をするのとほぼ同時、ドアが開いた。
姿を見せたのは銀髪紅眼の長身の魔族――魔王だった。
「おはようございます、魔王様」
朝から顔が良い、と内心で思いつつ一礼。
対する魔王はマリスの姿を認めるなり、すぐに顔を横に背けた。
「年頃の娘がなんという格好をしておるのだ!?」
「あっ」
掃除に夢中になって忘れていた。
マリスは下着姿だったのだ。腕や太腿どころから腹も晒してしまっている。慌てて隠そうと試みるが隠しきれるものではなく、その場にしゃがみ込む羽目になった。
「服を着ろ服を」
「ひゃ、ひゃい!」
返事を噛みながら大慌てで黒のワンピースに袖を通して、マリスは大きく深呼吸をひとつ、ふたつ。胸の動悸が収まるのを待つ余裕はなかったものの、どうにか平静を装うことはできそうだった。
「魔王様、大変お見苦しいところをお見せしました」
「……朝から何をやっていたのだ?」
「お部屋の掃除をしていました」
「服も着ないでか?」
「綺麗な服が汚れると思いましたので」
訝しむような視線を受けつつ答えると、魔王は溜息を吐いて首を振った。
「お前というやつは……、本当に、なんというか」
「魔王様?」
「まあよいわ。朝から感心なことである」
「いえ、そんな」
日課を褒められてなんだかくすぐったい気持ちになる。
「今後はそうしたことはこの者に任せればよいからな」
と、魔王が言うと、その背後から一人の少女が顔を覗かせた。
マリスは少女の顔に見覚えがあった。昨日、風呂で散々あれこれ世話してくれた少女だった。
「これはヌルと言う」
「ヌルです」
これ以上ないほど簡素な挨拶と共に、少女――ヌルは一礼をした。
マリスも慌ててぺこりと頭を下げる。
魔王はそんなふたりの様子を面白そうに眺めつつ、
「今日からヌルがマリスの側仕えをする」
「えっ」
「どうした。不満か?」
「そうではなくて……」
マリスは眉をハの字にして魔王を見上げた。
「こんな立派なお部屋も側仕えも私には過分です」
「そうは言うがな、マリスよ。お前は四天王なのだから、それ相応の待遇を受けてもらわねば下の者に示しがつかん」
「そういうものですか……」
「そういうものである。加えて言うとだな」
魔王はやや勿体つけてから言葉を繋いだ。
「このヌルはな、本日付けでマリスの側仕えに専任したのだ。つまりマリスが拒否するとヌルの働く場所がなくなってしまうのだ」
「……」
大袈裟に困った困ったと繰り返す魔王の隣、無表情なヌルがじいっと見詰めてくる。
「わかりました。ヌルさん、よろしくお願いします」
「こちらこそよろしくお願いいたします、マリス様」
挨拶を終えて魔王を見ると、満足げに頷いている。ヌルが受け入れられたことが余程嬉しかったようだった。
「マリス、今日は四天王と顔合わせをしてもらうつもりだ」
「はい」
「ではヌルよ。あとは任せたぞ」
「承りました」
ヌルは魔王が去っていくのを一礼して見送ってから、マリスにくるりと向きなおった。メイド服の裾がふわりと舞うのがかわいいな、とマリスは思った。
「では、お部屋に朝食をお持ちします。少々お待ちくださいませ」
「えっ? お部屋で朝食、ですか?」
「はい。お持ちしますので、少々お待ちください」
「あっはい……」
ややあって、トレイに載せて運ばれてきた朝食の豪華さにマリスは絶句した。
ふかふかの真っ白いパン。具沢山のスープにはなんとベーコンまで入っている。新鮮な野菜のサラダにはカットフルーツが添えられていた。
「どうぞ、お召し上がりください」
「い、いただきます」
王都で聖女をやっていたときよりも遥かに上等な食事内容に若干のたじろいでしまうマリスだった。つい先日まで黒パンと僅かに野菜の入った薄いスープを摂っていたのだ。質素倹約が聖女の習わしだったからである。
朝からこんな立派な朝食を胃が受け付けるだろうか、と思ったが、それは杞憂だった。全て美味しく平らげてヌルがお茶を淹れてくれるのを待っている始末。
「……神様、飽食をお赦しください」
神に祈ってみるも、既に手遅れな気もするマリスである。
ヌルがサーブしてくれたお茶を一口。すっきりとした口あたりに僅かな甘みが舌の上で広がった。
「とてもおいしいです」
「恐れ入ります」
のんびりとした朝食のひととき。こんな贅沢な時間の使い方をしていていいのだろうか、とマリスは胸中で呟いた。今や聖女ではないのだから、これくらいは許容されはすまいか。いやいや、甘えていてはいけない。贋物と呼ばれはしたけれど、自分まで聖女であること投げ出してはいけない。手遅れになる前に、己を律して聖女らしくあるべきだ。
「おかわりはいかがですか?」
「いただきます……あっ」
既に手遅れかもしれない。