第6話「聖女への感謝」
魔王の宮殿の大広間の片隅にマリスはひとり佇んでいた。
目の前で今まさに宴会の準備が進められている。
次々にテーブルが運び入れられて、色とりどりの料理と飲み物が並んでいく。
忙しなく動き回る魔族や獣人たちの表情は皆一様に明るい。
掲げられている横断幕には「魔王様 祝ご快復」の文字。
マリスは魔王の快気祝いの宴に招かれていたのだった。
浴場であれこれ世話を焼いてくれたメイドの少女が大広間まで連れてきてくれたのだ。だがその少女の姿も今は無い。色々と用事があるらしく「宴がはじまるまで寛いでお待ちください」と言って去っていったのだ。
「寛いでって言われても……」
周囲からの視線をひしひしと感じ、緊張状態が続いているマリスだった。遠巻きにしている者たちのひそひそ話が聞こえてくる。ひそひそ話の声量が大きいのだ。
「あの人間の女の子が聖女様らしいぞ」
「魔王様の不治の病を一瞬で治したんだと」
「人間の王国を捨ててまで魔界に来てくれたって話で……」
話に尾鰭がつき過ぎちゃってるなあ、と苦笑いしてしまう。
ただ、嫌な気はしなかった。
耳に届く声はどれも好意的なものだったから。
彼らはマリスに興味津々なだけなのだ。
「おまえ声かけてこいよ」
「いやお前がいけよ」
「いやいやそちらにお譲りします」
肩や背中を押し合って、謎の譲り合いをしていた。
そこへ、ひとりの女性が姿を現した。
波打つ豊かな髪の女性だった。妖艶な肢体の下半身は真っ赤な花弁と植物の弦が絡み合ってできていた。異形でありながらも美しい姿にマリスは見惚れてしまった。
「あなたたちね~、聖女ちゃんに挨拶したいんならもっとしゃんとしなさいよ、しゃんと」
艶のある声で叱責した彼女は、マリスへと向きなおった。
「あなたがマリスちゃん?」
「そうです。はじめまして。マリス・ミゼットと申します」
「わたしはカメリア。見ての通りアルラウネよ~」
カメリアはするりと近付き、そっと手を取った。細くしなやかな指先に触れられて、マリスはびくりとした。柔らかい感触。いい匂いもする。
カメリアは微笑みながら目の端からつぅと涙を零した。
「えっ?」
「魔王様の命を救ってくれて本当にありがとう……」
涙は後から後から溢れ続け、マリスは慌てた。どうしたらいいかわからずおろおろしていると、カメリアは泣きながら笑った。
「マリスちゃん、このご恩は必ず返すからね~。わたしにできることなら、いつでも~、なんでも~、どれだけでも~。約束するわ~」
「そんな、私は大したことはしてませんから」
「何言ってるんだよ!」
その声はカメリアのものではなく、遠巻きにふたりのやりとりを見ていた魔族が発したものだった。
「ずっと長い間患っていた魔王様を貴女が癒してくれたんじゃないか」
他の者たちも続けて言った。
「お元気になられたと聞いてどれだけ俺たちは本当に安堵したんだ」
「あんたのおかげだ」
「感謝してる」
「ありがとう」
ありがとうの言葉は伝播していき、宴会場全体に響き渡った。
「え……えっと……」
「みんな嬉しいのよ~。魔王様が大好きだから~」
目尻の涙を指先で拭い、メリアが言った。
魔王がこんなにも大勢に愛されているんだと知って、魔界に来てよかったとマリスは思った。
「お役に立てて私も嬉しいです」
「お役にどころの騒ぎじゃないんだけどね~。謙遜も過ぎると嫌味になるわよ~」
「ご、ごめんなさい」
「謝ることじゃないわ。……あら~、そろそろはじまるみたいね」
宴の準備はすっかり整い、それぞれの手に飲み物が配られる。マリスにも細長いグラスが手渡された。中には薄っすらと黄色がかった液体が入っている。
「お集まりの皆さん大変お待たせいたしました」
聞き覚えのある声の元に目をやると猫人のシャルムが司会役を担っていた。
「急遽の呼びかけにも拘わらず大勢のご出席誠にありがとうございます。本日は、ご連絡しました通り、我らが魔王様の快気祝いの宴でございます」
わっ、と歓声が上がり拍手が宴会場を満たした。
シャルムは拍手が鳴りやむのをじっくりと待った。
「それでは、魔王様にご登場いただきます」
宴会場の最奥、螺旋階段の上を指し示す。
全員の視線が集まる中を、長身の魔族がしっかりした足取りで姿を現した。
おお、という感嘆がそこかしこから漏れた。
美しい銀髪は丁寧に整えられていた。真紅の瞳には強い光が宿っている。痩せこけていた頬は張りと艶を取り戻し、瑞々しい生気を感じさせ、活力に満ちた全身から迸る圧倒的なまでの存在感は、彼が支配者であることを雄弁していた。
「魔王である」
端的な名乗り。
宴会場は水を打ったように静まり返った。
「長い間心配をかけたが、儂の病は完治した」
先ほど以上の歓声が爆発した。
万雷の拍手の中、魔王がゆっくりと階段を降りてくる。
「聖女マリスの多大なる尽力もあり、儂は全盛期の力を取り戻したといっても過言ではない」
魔王とマリスの間にいた全員が数歩下がり、道を作った。
魔王がマリスへと歩み寄ってくる。
魔王がマリスの目の前にやってきた。
魔王はマリスの前で、あろうことか膝をついた。
魔王はマリスの手を取り、頭を下げた。
「聖女マリスに、感謝を」
小柄なマリスの視線の先に、魔王の後頭部が見える。
マリスは顔が熱くなった。焦る。
ありえない。
王がこんな風にして頭を下げるなんて。
少なくとも王国では絶対にありえないことだった。
魔界でもそうだろう。周囲のどよめきがそれを証明している。
「お、お顔を上げてくださいっ」
言っても聞いてくれない。
長い長い一礼を終えてようやく立ち上がると、魔王はマリスの横に立った。
肩に手を置く。
魔王の掌の温度をマリスは感じた。
見上げると、魔王は豪快な笑みを浮かべていた。小声で「黒も似合うな」とワンピースを褒められ、ますます顔が熱くなる。
「マリスに褒美を取らせようと思う」
と、魔王は宣言した。
「望むまま、なんでも申せ」
褒美。
望み。
なんでも。
マリスの胸中を駆け巡ったのは五年間の聖女としての人生と、たった一日にも満たない魔界での出来事。より鮮烈だったのは後者だった。
「ここで働かせてください」
だから、それは自然と口をついて出た言葉だった。妙にすっきりした気分だった。
魔王は器用に片方の眉を跳ね上げ、至極もっともな疑問を口にした。
「働き口を与えることが褒美になるのか?」
「はい」
この魔王の下でなら、今までとは違う何かをきっと見つけられる。そんな予感がマリスにはあった。
「それは魔界に住む、ということだぞ?」
「はい」
もう一度、はっきりと頷いた。
魔王はなおも尋ねてくる。
「人間の国に未練はないと?」
「もう、王国には居れませんので」
贋物扱いされ、聖女の称号は剥奪され、王子との婚約も破棄された。あの国にマリスの居場所はもう、無い。だけど。だから。ここで再出発するのだ。
マリスの顔をまじまじと見つめて、魔王は「よし」と破顔した。
子供が何か悪戯を思いついたような笑みだな、とマリスは思った。
そして実際その通りだった。
「ならば四天王だな。決定だ」
「えっ」
「丁度ひとつ四天王の席が空いているだろう。どうだ皆の者?」
割れんばかりの大歓声が巻き起こった。
それこそ魔王が姿を現した時と同じくらいの。
「今宵、聖女マリスは我が四天王の一角となった。祝うがよいぞ!」
「えっ? 四天王って? それって?」
本人の困惑を他所にマリスの再就職は決まったのだった。