第4話「聖女と魔王」
マリスはシャルムの案内で、魔王の居室に案内された。
「失礼したします」
シャルムは返事も待たずにドアを開け、室内に入っていく。
マリスは慌てて後に続いた。
広い部屋にあるのは執務机と大きな寝台だけだった。
寝台に、男性がひとり横たわっている。
魔王だ。
細い銀髪の下で瞼は硬く閉ざされており、眉間には深い皺が寄っていた。睡眠中であっても体を蝕む痛みに耐えているせいだろう。痛みのせいで寝つきが悪いのか、目は落ち窪んでおり下瞼には大きな隈が色濃くあった。骨格そのものは大きかったが、寝具の上からも身体が薄く細く衰えていることは察することができた。
マリスの率直な感想は「今にも死にそう」というものだったが、そんな印象とは裏腹に、魔王からは膨大な魔力が溢れ出していた。魔族の魔力生成量は人間を大きく上回るというのはマリスの知識にもあった。それにしても桁外れの魔力量だった。とても死の淵にいるとは思えないほどの。
「……」
「……あっ」
いつの間にか、魔王は目を覚ましていた。
真紅の双眸にマリスの姿が映り込んでいた。
魔王は視線を横にずらし、
「――シャルムか」
「ただいま戻りました、魔王様。お加減はいかがですか?」
恭しく礼をする猫人に、魔王はぎこちない笑みを作ってみせた。
「まあ、悪くはない。幾分マシだ。良くもないが」
「それは重畳です」
「体の調子が良かった頃がどうだったかも忘れて久しいな」
「……」
シャルムは魔王の諧謔に応じることができなかった。
表情を厳しいものに変えて、隣のマリスを紹介した。
「今日はお客様をお連れしました」
「……客? 儂にか?」
「はい。人間の聖女です」
「神の祝福を授かったという治癒の聖女か。よくも人の国から連れ出せたものだな」
「そこは色々とありまして……」
シャルムが要領よくかいつまんで事情を説明するのを魔王は黙って聞いていた。
贋物か、と苦笑しながら。
「こちらがその聖女の、マリス様です」
紅い眼差しに一瞥され、背筋が自然と伸びる。
重病と思えない眼光に射すくめられ、緊張がマリスの体を縛った。
「マリス・ミゼットと申します」
辛うじて、挨拶をすることはできた。
魔王は視線を緩めると僅かな好奇心を滲ませ、鷹揚に頷いた。
「儂が魔王である……。このような姿勢ですまんな」
「いいえ! どうぞ、そのままで!」
マリスは無理に身体を起こそうとする魔王を手で制した。
シャルムに目配せすると、猫人は神妙な面持ちで頷いた。
「マリスさん。早速ですが、魔王様を診ていただけますか?」
「はい」
勿論だ。
そのために来たのだから。
マリスは聖句を短く唱え、神に祈りを捧げると、一歩前に踏み出した。
「失礼致します」
「儂はどのようにしておればよい?」
「そのまま、楽な姿勢で」
マリスの顔に最早緊張は無かった。聖女のそれになっていた。
目を閉じ、静かに両手を翳す。
聖女の両手に柔らかな光が灯った。
感嘆の声を上げかけたシャルムが慌てて自分の口を塞ぐ。
淡く光るマリスの両手が魔王の身体の僅かに上を緩やかに動く。撫でるように。慈しむように。そして、探るように。
実際、マリスは魔王の病因がどこにあるのかを探っていた。
普通の病とは異なるように思えた。内臓を含む身体のあちこちが歪み、軋みとなって過剰な負荷をかけているのが分かる。
他方、身体の調子は悪いはずなのに莫大な量の魔力が生成され循環している。魔力はあらゆる生き物の体内で生成され全身を巡るものである。魔法の行使は勿論、生命活動を維持するのにも使用されている。魔王はその魔力の生成量が尋常ではなかった。異常と言ってもいい。
大量の魔力が全身に流れている。
そこに問題を見出した。
魔力の流れが悪い箇所が、身体のあちこちにあることに気付いたのだ。
おそらく最初はほんのわずかな歪みだったのだろう。だが、歳月を重ねるにつれて歪みは大きくなっていった。結果として流れの澱んだ箇所と流れの強まった場所ができてしまった。
河川の急流が土手を何年もかけて削り取るように、魔王は自分自身の魔力でその体を傷つけていた。
――原因が分かれば対処はできる。
マリスは息を吸い込んだ。
魔王の体内に意識を照準する。
高血圧の人間に施す、血流の整調化に感覚としては近い、とマリスは感じた。整えるのが血流ではなく、魔力の流れなだけだ。傷ついた肉体を癒しつつ、魔力の流れを微調整する。身体に染み付いた歪みを是正すれば流れは一定になるだろうと見当をつけた。
少しずつ時間を掛けて、治癒を施していく。
マリスは目を開けて大きく息を吐いた。
「終わりました――」
全身びっしょり汗をかいていた。
シャルムが汗拭きを渡してくれるのを有難く受取り、額の汗を拭った。
「マリスさん、お疲れ様です。……長かったですね」
「そうですか?」
「そうですよ!」
治癒の奇跡を行う際に、主観時間と実時間が乖離することはよくあった。
マリスの主観時間としては、さほど時間は経っていないつもりなのだが。
「待っている間、ずっと御心配でしたね」
「あの、それで」
「上手くいったと思います」
マリスは笑顔で太鼓判を押した。
シャルムは顔をくしゃくしゃにした。泣いているような笑っているような顔だった。寝台に身体を半分乗り上げて魔王の様子を確かめる。
「いかがですか?」
「うむ」
シャルムが固唾を飲んで見守っている前で、手を握ったり開いたりして調子を確かめている。
「――驚いた。全快したようだぞ、シャルム」
「本当ですか!?」
「嘘をついてどうする。今なら古竜でも一撃で軽く仕留められそうだぞ」
「それはやめてください」
「はっはっは」
魔王はすっかり元気を取り戻していた。まるで別人のように声に張りが戻っていた。
マリスはほっと胸を撫で下ろす。
「良かった」
「聖女の娘よ、すごいなお前は。驚いたぞ」
魔王の率直な称賛を受けて、マリスは照れてしまった。俯いた顔を覗き込むようにして魔王は悪戯っぽく笑った。治癒をする前とは違って、力強い笑みだった。顔にはすっかり生気が戻っており、若々しい印象すらある。
「あの、えっと……」
恐ろしく整った顔立ちの異性が触れるほど近い場所にいるというのは――治癒をしている時を除くと――マリスには未体験だった。頬が熱くなるのを自覚してますます熱を持つ。さっきまでとは違った意味で汗をかいてしまう。
「人間どもはこれほどの力を持つ聖女を放逐するとは……、アホなのか?」
「そのアホどものお蔭で魔王様の命脈が繋がったのですから」
「ははは、アホに感謝だな」
高笑いする魔王と猫人の主従を微笑ましくも羨ましく思うマリスだった。