第3話「聖女は魔界へ赴く」
魔王の支配地。
世界の果て。
闇の世界。
王国に住む者の魔界に対する印象はそんなものだった。噂話の域を出ない話ばかりだ。魔界は大陸の北端に位置し王国からは遠く離れている。実際に訪れたことのある人間は殆どいないため、伝聞の不確かな情報しかないのだった。
「もう目を開けて大丈夫ですよ、マリスさん」
「はい……」
手を引いてくれているシャルムに言われて、マリスはおそるおそる目をひらいた。
息を飲む景色が眼前に広がっていた。
荒涼とした大地を舐めるように暴風が吹きすさび、黒雲が空を覆う。
人が住むには厳しい環境だと、一見してわかる。
「ようこそ魔界へ」
「……私たち、ここまでどうやって来たんですか?」
大袈裟な所作で歓迎の意を示すシャルムに、マリスは率直に疑問をぶつけた。シャルムの指示で目を瞑らされて、手を引かれて歩き、目を開けたらもう魔界だったのだ。
「にゃはは。秘密の猫の小路があるのです。本当は人間を通してはならない決まりなのですが、緊急事態ですので。ああ、このことはどうかご内密に」
「は、はあ」
そういうものか、と思うしかなかった。
マリスは人生を、はじめの十年は修道院という狭い世界で過ごし、聖女になってからの五年は王宮という奇妙な世界で過ごした。だから市井のことさえ詳しく知らない。猫人の秘密の道については言うまでもない。
「早速参りましょうか」
「えっと、どちらに?」
「勿論、魔王様のところにです!」
魔王の宮殿は大陸の北の淵ともいえる断崖絶壁にそびえたっていた。
風雨と海水に浸食され、骨のようになった崖は今にも崩れそうで、上に鎮座する宮殿を重たそうに支えていた。そんな宮殿を扇の要に見立てるようにして、放射状に街並みが広がっている。マリスが想像していたよりもずっと立派な都市だった。
「迷子にならぬようにお気をつけて」
シャルムに手を引かれ、市街区をゆく。
通りを行き交う者の中に人間の姿はいない。獣人、魔族は比較的人間に近いが《《毛並み》》や肌の色が決定的に異なる。不死者や異形の姿にマリスは声を上げそうになってしまった。
「大丈夫ですよ」
と言うシャルムの手を強く握ると、柔らかく握り返された。僅かな安堵と、絶対に手を離すまいという緊張がマリスを満たした。周囲からの視線をなるべく意識しないように、歩くことに集中した。
ほどなくして宮殿へ繋がる長く緩やかな坂道に辿り着いた。坂道を往くのはシャルムとマリスだけだった。人気のない坂道の終点には、見上げれば首が痛くなるほどの門が待ち構えていた。
「すごい……」
「これより先が魔王様の宮殿となります」
門の脇で槍を立てていた狼人の衛兵が最敬礼をした。
「シャルム様、お帰りなさいませ」
「はい、ただいま帰りました」
「そちらは……」
「魔王様の大切なお客様です」
「失礼いたしました!」
衛兵はマリスに深々と一礼をした。マリスも慌てて頭を下げた。
彼が何やら合図を送ると、門がごごん、と音を立てて開き始めた。
「マリスさんにはお疲れの所大変申し訳ないのですが、すぐに魔王様にお会いしていただくことはできますか?」
「は、はい! もちろんです!」
「ありがとうございます」
シャルムは目を細めて笑った。
本当に嬉しそうで、マリスもつられて嬉しくなってしまった。