第2話「聖女への依頼」
声の主は猫だった。
一匹の猫が、草の上に仰向けに横たわるマリスを覗き込んでいる。
「……え? 猫……さん?」
だが、普通の猫は喋らない。
その猫は普通ではなかった。
マリスの半分ほどの体長で、丁寧な仕立ての服を着て、二足で立っていた。足には革のブーツまで履いている。整った身なりの猫はマリスの疑問に答えた。
「私は猫人ですよ」
「ワーキャット」
マリスも知識としては知っていた。ワーキャット。人間の言葉で言うなら亜人の一種だ。魔族に近いとされる存在で、高い知性と魔力を持っている。らしい。
マリスはそろりと上体を起こし、居住まいを正した。
「はじめて見ました」
「この辺りに同胞は滅多におりませんからね」
猫人は目を細めて笑い、貴族がするように一礼をした。
「はじめまして、聖女のお嬢さん。私は猫人のシャルムと申します。以後お見知りおきを」
「マリスです。あの、シャルムさん、ちょっと待ってください」
聖女。そう呼ばれてマリスは慌てた。
わたわたと両手を前に突き出して、否定の言葉を口にする。
「……私、もう聖女じゃないんです」
「にゃ?」
シャルムという名の猫人ははじめて猫らしい仕草をして首を傾げた。
「今日、国王様から聖女の名を剥奪されたんです。だから私は聖女さん、ではないです。贋物の、ただのマリスです」
「貴女は真面目な方ですね、贋物聖女のマリスさん」
シャルムはマリスの掌をぺちぺちと叩いた。肉球の感触が心地いい。
「失礼ながらマリスさんが人間の王に聖女の地位を追われたことは、既に存じ上げております。ですが、聖女の力まで失ったわけではないのでしょう?」
「あっ、は、はい。それは、そうですね」
治癒の奇跡は使える、はずだ。今日は一度も使っていないけれど、力が失われたような感覚は無い。聖女に覚醒した五年前のあの日からずっと胸の奥に感じている清冽な光は、今なお翳りなく輝きを放っている。
「でしたらマリスさんは聖女でらっしゃいますね。人間の決定など私たちには関係ありませんから」
シャルムはにゃははと笑い飛ばした。
つられてマリスも微笑んでいた。
「いいですね。女の子は笑顔でいるのが一番ですよ」
「ふふっ」
「これで本題に入れるというものです」
本題。
あ、とマリスは思い当たった。
「最初に『死ぬのはちょっと待って』って」
「はい。言いました。よく覚えていてくださいました、マリスさん。正解です。それが本題なのです。どうか死ぬのは思いとどまっていただいて、私の主人の病を癒してはくれませんか?」
――シャルムの話はこうだった。
彼の仕える主は病に冒されており、長い間闘病生活を送ってきた。シャルムは方々手を尽くして、あらゆる霊薬や治癒魔法を試したが全く改善しないばかりか、病状は日を追うごとにひどくなっている。最後の希望は歴代最高との呼び声高い聖女――マリスの治癒の奇跡だった。シャルムは前々から聖女の力に目を付けていたが、猫人が聖女に接触・依頼をするのは難しかった。諦めかけていたところに、どういうわけか聖女が贋物の烙印を押され、追放されたという。
「それで私は王都を去ったマリスさんの行方を追ってきたわけです。ここでこうして出逢えた奇跡に感謝を!」
「御主人様の病ですか」
芝居がかった調子のシャルムを半ば無視して、マリスは思案する。
マリスはこれまで聖女として数多くの怪我や病を癒してきた。だが、王国内に限った話でしかなかったのだ。シャルムのような亜人からの依頼は受けたことがないどころか聞いたこともなかった。言われるままに、目の前に並んだ相手に治癒の奇跡を行ってきた。それが間違いだとは言わないまでも、どこか違和感を覚えてしまった。
「あの、私で良かったら――」
「本当ですか!?」
かなり食い気味にシャルムが叫んだ。
マリスがコクコク頷くと、本当に嬉しそうに跳んだり跳ねたり、踊り始めた。
「引き受けてくださってありがとうございます! これできっと主人は助かります!」
「あっはい。が、がんばります。あの、それで――」
「なんでしょう?」
「シャルムさんのご主人様はどちらに?」
シャルムは喜びの踊りをピタリと止めてマリスにしれっと告げた。
「はい。魔界におります」
「え?」
まかい? 魔界!?
「魔界。ご存知でしょうか? 魔王様の支配領域――通称魔界。きちんとご案内させていただきますので、どうぞご安心ください」
「あの、ええと」
狼狽するマリスの前で踊りを再開させながらシャルムは言うのだった。
「お伝えしておりませんでしたか? 私の主人は魔王様です、と」
「はいぃ!?」
聞いてませんけど!?
今、魔王様って聞こえましたけど!?
マリスは声にならない声で叫ぶのだった。