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第20話「聖女の眠れない夜」


 城下の遺棄された区画を訪れた日の夜、マリスは眠れないでいた。


 疲労はある。

 あるが、目が冴えていた。

 帰ってから――正確には帰り道からずっと、考え事をしている。

 

 今日訪れた竜災被害のあったあの区画の、子供たちのことを考えている。

 災害孤児を見るのははじめてではない。


 王国の聖女だった頃何度も目にしている。慰問をしたことだって一度や二度ではないのだ。だから慣れていた。慣れていたと思っていた。そのはずなのに。どうしてか、あの子供たちのことが頭から離れないでいた。


 それだけではない。

 ヌルのことも気にかかっていた。 


 ヌルは自分のことを殆ど語らない。だからマリスが彼女について知っていることはほんの僅かだった。今日知ったことの方が多いくらい。それくらい何も知らなかった。竜災の被害を受けていたこと。遺棄された区画で子供たちと暮らしていたこと。宮殿で働くようになり、“裏切り者”とビートに呼ばれて避けられていること。


「……ふうっ」


 マリスは眠ることを諦めた。


 身体を起こし、天蓋付きのベッドから下りた。寝巻きのまま部屋のドアを押し開けて廊下に出た。夜のひんやりとした空気が足元から伝わってくる。両手で体を抱きしめて歩き出す。夜気はゆるやかに流れを持っていた。流れに逆らうように、魚が川を遡上するように進む。


 壁に一定の間隔で最低限の火が灯されただけの薄暗い廊下を何度か曲がっていくと、不意に視界が明るくなった。


 月光だ。


 淡く白い光が差し込んでいる。

 光に導かれるように廊下を進むと、広いバルコニーがあった。窓は大きく開け放たれていて、そこから夜気が流れ込んできていると知れた。


 マリスがバルコニーに出るとそこには先客がいた。


 ……魔王様!

 

 すらりとした長身が淡い光を吸い込むようにして闇色の柱のように立っていた。銀髪だけが月明かりにきらきらと煌めいている。真紅の眼差しは眼下に広がる街並みに注がれていた。


 邪魔をしてはいけない、とマリスは踵を返そうとしたものの、足がもつれて転びそうになり、必死で足を踏み出した際にかなり大きな足音を響かせてしまった。


「む」


 魔王の視線がこちらを向いた。

 魔王はマリスの姿を認めると表情を明るくさせた。 


「おお、マリスではないか」

「はい。こんばんは、魔王様」


 丁寧に挨拶をするマリスに、魔王は「来い来い」と手招きをした。

 おずおずと近付いて魔王の横に並んぶ。

 頭一つ以上高い位置から、魔王はにやりと笑んでみせた。


「夜更かしは感心しないな。ん?」

「魔王様こそ。お体に良くないですよ」

「快復したからこそ不健康を楽しむこともできるというものだ」

「いけません」


 魔王の軽口にマリスは表情を変えた。


「よくなったといってもまだ全快したわけではないのです。ご自愛いただかなければ」


 叱るでもなく、怒るでもなく、淡々と、フラットな表情で注意をするのだった。


「これからも時々は経過を診させていただきますからね」

「マリスよ、お前は人の身を案じる時は聖女の顔になるのだな」


 魔王は面食らったような顔からすぐに笑顔を取り戻した。


「普段はどこにでもいる娘の顔をしているのに」

「そ、そうでしょうか?」


 そんな自覚はマリスにはなかった。

 狼狽するマリスを魔王の紅い眼が見ていた。


「――儂はどちらの顔も好きだがな」

「え?」


 一瞬、魔王が何と言ったのかわからなかった。

 言葉を理解したマリスの顔が熱くなっていく。

 夜気に触れてもすぐには冷めないほどに。


「魔王様! 私は真面目な話をしているのです!」

「儂もだよ。冗談で好き嫌いを口にしたりはせんよ」

「……」


 両手で頬に触れた。熱い。


 魔王の顔を見れず、マリスはバルコニーからの夜景を眺めた。あちこちに僅かではあるが明かりが灯っていて、月光と合わさってぼんやりと街の輪郭を闇から浮き上がらせている。遠く、ほぼ完全に影に沈んでいるのは遺棄された区画だろうか。


「聖女殿の諫言に感謝する。以後、夜更かしは慎むとしよう」

「そ、そうしてください」

「だがまあ、今日のところは勘弁してくれ。聖女が傍におれば安心だろう?」

「仕方ありませんね。今日だけですよ」


 ようやく顔が熱いのが収まってきたマリスだった。


「儂のことはこれくらいでよかろう。マリスはどうした? 若い娘の夜更かしも感心できることではないと思うが」

「……なかなか寝付けなくて」

「魔都の空気にはまだ馴染めないか?」

「そ、そんなことはありません! 皆さん良くしてくださいます!」


 魔王の問いをマリスは否定した。口には出さないけれど、むしろ王都よりも居心地がいいくらいだと思っている。

 魔王は目を細め、頷いた。


「それは良かった。――だが、ならば何故寝付けないのだ?」


 マリスは躊躇いがちに口を開いた。


「実は、城下のことで、ひとつ気になっていることがあるのです」

「話を聞かせてもらえるかね?」

「はい。ありがとうございます……」


 マリスはゆっくりと口を開いた。話す内容は今日のことだ。竜災があったこと。結果として遺棄された区画が城下にあること。そこには今も子供たちが暮らしているということ。ともすれば感情が先走り、話の前後は滅茶苦茶で、思いつくままに喋り続けた。


「――ヌルさんも、あの区画に住んでいたんですね。はじめて知りました」


 城下に視線を遣る。

 明かりひとつないからこそ逆に夜の闇の中で際立つ、竜災の爪痕が残る区画。あそこで眠る子供たちの姿をつい想像してしまう。


「……ヌルさんが宮殿で働いていることを、あの子たちは、特にビートさんは快く思っていないようでした」


 こんなことを言っても意味がない。ヌルとビートの関係を伝えられても、魔王様だって困ってしまうに違いない。マリスはそんな風に思っていた。


 けれど、


「すまなかったな」

「えっ?」


 魔王は謝罪の言葉を口にした。

 マリスには魔王が謝る理由がわからなかった。


「要らぬ気苦労をかけた。ヌルにもすまないことをした。全ては儂のせいだと言うのに」

「魔王様の、せい……ですか?」


 ますますわからない。


 魔王は困惑するマリスの頭に手を乗せた。くしゃり、と撫でる。慰めるように、慈しむように。誰かにこうやって撫でられるのはいつぶりだろうか。


「ヌルを王宮に雇い入れたのは儂なのだ。ヌルの父親と儂は古くからの友人でな」

「そうだったのですね」

「うむ。あやつは竜災の折に命を落としてしまった。他にも多くの者が犠牲になったのだがね」


 魔王の口調には僅かな後悔が滲んでいた。


「あやつが庇ってくれたお蔭で儂は竜災を鎮めることができた。それでも儂は多くの力を喪失(うしな)うことになってしまった」

「ひょっとして、魔王様のご病気って」

「うむ。竜災の時に、な。しかも竜災の復興に儂が着手する前に病が悪化してしまったのだ。結果として――、あの地区を遺棄することになった。ヌルだけをあの場所から連れ出したのは儂の偽善だ」


 亡くなった友人の子を放っておけなかっただろうことは想像に難くない。けれど、そんな自分の行為を魔王は恥じており、己を責めているようにマリスには思えた。


「ヌルにも、あの地区の者たちにも申し訳ないことをした」

「あの、魔王様」

「どうした? そんな顔をするものではないぞ」


 どんな顔をしているかわからないけれど、魔王に気遣わせてしまう程度には妙な顔をしているのだな、とマリスは思った。


「私がこんなことを言っても仕方ないのですけれど、魔王様は悪くないですよ」

「む」

「ヌルさんも悪い事をしたみたいに考えています。そんなことはないのに」


 誰もが誰かのために行動しただけなのに。勿論、ビートの気持ちもわかる。置いて行かれたように、裏切られたように感じてしまうのは無理からぬことだ。


「すまんな」

「ですから!」


 つい、声が大きくなってしまう。

 だが止められなかった。


「すまない、じゃないんです! 悪くないのに謝らなくていいのです! 誰も悪くないのですから!」


 もやもやとした感情を吐露してしまっていた。


「では、ありがとうと言うべきだな、マリスよ。儂らのために涙まで流してくれて」

「はぇっ?」


 知らないうちに泣いてしまっていた。指摘されるまで気付かなかった。頬を伝う濡れた感触に戸惑ってしまう。


 魔王がこちらを見ている。紅玉のような瞳に優しい光を湛えていた。すう、と伸びてきた指先が頬に微かに触れる。そっと拭われたが、涙は流れ続けてあまり意味をなさなかった。


 魔王は苦笑。両手でマリスの顔を掴んだ。


「ふぇっ?」


 両の手の平で頬を抑え、親指の腹で涙を強引に拭う。今度は何度も。


「もう泣くな、マリスよ」

「ふぁい」


 返事がおかしなことになった。魔王はまた笑う。マリスも少しだけ笑った。よし、と魔王は頷きマリスを解放すると、

 

「四天王のマリスにひとつ仕事をしてもらいたい」


 厳かに告げた。

 マリスは顔をごしごし擦って涙の痕を消して、姿勢を正した。


「本来儂がやるべきなのだが、マリスが適任だろうからな――」


 夜の空で柔らかな光を放つ月だけが、魔王と四天王を見下ろしていた。 


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