第17話「聖女と竜災の爪痕」
財布を手渡そうとしたマリスとヌルの間を飛ぶようにして駆けたのは、
「こども!?」
異様な俊敏さの子供だった。尖った獣耳から獣人族と知れた。
それよりも、
「財布が!」
スられていた。
マリスは慌てて立ち上がり、獣人の子供に手を伸ばそうとした。が、届かない。
「ま、待って――」
追いかけようと駆け出したマリスは何もない所で躓いて転んだ。顔面から前のめりに滑る。
「いたたたた」
「マリス様、ご無事ですか」
「だいじょうぶですよっ」
「お顔に傷が」
ヌルの言葉通り、マリスの顔には擦り傷ができていた。軽く手で触れると僅かに痛みがある。指先にうっすらと血が滲んだ。
「えへへ。これくらい平気です」
「治癒はなさらないのですか?」
ヌルが問いかけにマリスは、決まりが悪そうに眉尻を下げる。
「治癒の奇跡は、私自身を対象にすることはできないのです。それにこれくらいの擦り傷だったらすぐに治ります」
マリスの治癒の唯一にして最大の欠陥がコレだった。自分を癒せない。どんな重い病も、どんな軽い怪我もマリス自身を対象とすることはできないのだ。マリスは殆ど万能の治癒能力を持つが、マリスが致命傷を負えばどうしようもなくなってしまう。
外出時の護衛を増員する必要性を検討しようとヌルは思った。
一方マリスはというと、
「盗られたのが魔王様の財布じゃなくてよかったです」
などと呑気なことを言っている。
ヌルは思考を切り替えて今できることをすべきと判断した。
「財布を取り戻しましょう」
「えっ、でも」
マリスが視線を獣人の子供が去っていった方へ漠然と向ける。
とっくに子供の姿はない。
「もう見失ってしまってますよ」
「問題ございません。犯人の目星はついております」
「えっ」
訳知り顔のヌルはマリスの疑問には応じず、
「追いかけましょう。少々治安の怪しい区画へ参ります。私から離れないようお願いいたします」
早口で告げて歩き出した。
いつもよりもやや急ぎ足のヌルに寄り添うような恰好でマリスは市場から離れた道を進んでいく。一本、二本と区画を外れるたびにどんどん人気が少なくなっていく。
建物の様子もまた変化していた。焼け落ちているもの、破壊の痕跡のあるもの。人が住むのは難しそうな家の残骸がまばらにあり、道には瓦礫が散乱している。
「魔都にこんなところが……」
マリスは幼少期を過ごした修道院を思い出した。あの建物も古くてボロボロだったけれど、ここまでではなかった。ここでは人は住めなさそうだ。
「あの、この区画は?」
焼け焦げた廃屋を横目にしつつヌルに尋ねる。
ヌルは歩調を緩めず、視線を前に固定したままで、口を開いた。
「災害の爪痕です。竜災というのをご存知でしょうか」
「名前だけは知っています」
竜災とは――
自然災害の一種とも、自然災害を超える厄災とも言われるドラゴンによる災害を指す言葉だ。主な発生原因がドラゴンの大量発生であるため、非常に稀有な現象ではある。ただし一度起きれば国が滅ぶことも珍しくはない。
「魔都を竜災が襲ったのです。その時に特に被害を受けたのがこの辺りです」
「……そんな」
文字通り、災害の爪痕が残されたというわけだ。
人が住めないほどに荒れた区画はそのせいか、とマリスは得心した。
一方で竜災の被害を微塵も感じさせない区画があるのはどういうことだろうか。それなりに移動したとはいっても同じ魔都の城下である。数区画離れただけでここまで差があるのはどういった理由からなのか。
ヌルはマリスの疑問をすぐに察した。
「竜災から城下全域を守り抜くことは不可能でした」
「でも、退けたんですよね……?」
「はい。魔王様の御力があってこそですが。ただ、この区画は遺棄することになりました。他の全域を保全するための犠牲としたのです」
淡々と事実のみを告げる口調。
マリスの胸中に新たな疑問が湧きあがった。
「遺棄された区画を訪ねているのはどうして――」
「まもなくです」
今にも崩れそうな廃屋とは異なり、壁や屋根が無事な比較的マシな家屋が肩を寄せ合うようにして建っている一角があった。窓は壊れ、壁は焼け焦げているが、建物としての体裁は保たれている。
その一角へ進んでいたヌルが足を止めた。
彼女の進路を妨げたのは、薄汚れた服を着た子供だった。瓦礫や廃屋の影から次々と姿を現し、最終的にその数は十名を越えていた。
「あの――」
「マリス様、お下がりください」
口を開きかけたマリスを制したヌルの横顔は無表情。いつもよりも強張っているように見えた。