プロローグ
謁見の間で。
玉座の正面に平伏していたマリスは、最初、国王が何を言っているのか理解できなかった。彼女は神の恩寵を受けた奇跡の体現者――聖女だった。その手に宿した治癒の力は歴代聖女でも最高との誉れ高き、いわば神の子であった。
――少なくとも、この発言がなされる瞬間までは。
「マリス・ミゼットの聖女の力は偽りである」
「……っ!?」
マリスは思わず顔を上げてしまった。赦しを得ていないにもかかわらず平伏の姿勢を解いてしまうほど、気が動転していた。声を漏らさずに済んだことは僥倖だったといえる。
玉座からマリスを見下ろす国王の顔は平静を保ちながらも、怒りと屈辱に満ち満ちていた。
マリスが聖女に覚醒してから五年。長きに渡り偽物に騙され続けてきたことに対する怒りだろうか。或いは贋物を見抜けなかった自分に対する? それとも、贋物を世継ぎである王子の婚約者にしてしまったことに対する?
そもそもマリスは偽物ではない――そのことはマリスが誰よりもわかっているの――のだが、国王の言葉を覆せる者はこの場にはいなかった。
「この者より聖女の資格を剝奪し、王子との婚約も破棄するものとする」
国王は抑揚の効いた口調で、宣言した。
国王の隣に立つアフォカトロ王子と一瞬目が合った。王子は特に動じた様子もなく、さっと目を逸らし二度とマリスの方を見ることはなかった。
王子とは聖女になってすぐに婚約を交わした。以来、聖女としての務めの合間を縫って、何度も顔を合わせてきた。他愛もない話もしたし、国の将来について語り合いもした。好きとかどうとかいう感情よりも聖女としての責務を果たそうと思った。王子に相応しい存在になれるよう努力をしてきたつもりだった。それも今、全て、徒労に終わった。
なぜ、という思いが胸中を駆け巡った。
五年の間、マリスは聖女としての務めを十全に果たしてきた。王族も、貴族も、騎士も、民も。あらゆる人々の傷を病を癒し続けてきた。誰もがマリスを聖女と認め、称えてくれた。神の恩寵による癒しの奇跡が偽りとされるのが全く信じられなかった。
「やはり孤児院育ちの聖女というのはいささか嘘が大きすぎましたかな」
「貧しさから抜け出すために聖女の名を騙るとは不埒な話です」
謁見の間に集まった上級貴族たちが囁く声が否応無しに耳に入ってきた。
マリスは視界がじわりと滲むのを自覚する。泣くものか、と思いはするものの、涙の粒は次第に大きくなり零れ落ち、絨毯に染みを作った。
マリスは己が出自を恥じたことなど一度もなかった。捨て子である自分を育ててくれたシスターも、聖女として覚醒したことを自分のことのように喜んでくれた孤児院の仲間たちも、マリスにとってはかけがえのない家族だった。
十歳の時、はじめて王宮に上がった際には礼儀作法も何もわからず気後れしたし、平民らしい不調法を叱られたりもした。けれど、自分が平民であることも、孤児院で育ったことも、嫌だと思ったことはない。
「アフォカトロ王子にはよりよいご縁があることでしょう」
嘲笑混じりの貴族の言葉に、マリスはぎゅっと唇を嚙みしめた。
贋物の烙印を押され、聖女としての矜持を穢され、王子との婚約も破棄され、何も残されていないマリスにとどめとばかりに国王は告げた。
「偽りの聖女を廃し、ここに新たな聖女の誕生を宣言する」
わあっ、と静かな歓声が湧いた。
「輝かしき我らが神の御子の名はアールンド侯爵家が令嬢、セシリア・アールンドである」
王の宣言を受けて前に進み出た美しい令嬢に、謁見の間の誰もが視線を奪われた。
マリスもだ。
侯爵令嬢の自信に満ちた堂々たる佇まいに目を見張った。貴族の証たる金髪碧眼。手入れの行き届いた肌と爪。女性らしいふっくらとした容姿。精緻な刺繍がふんだんに用いられた豪奢なドレス。
癖のある黒髪と茶色としか形容できない瞳。下町の子供じみた、棒のような手足。清貧を旨とする聖女としてはごくごく一般的な、素っ気ない礼装。そんなマリスとはどれもがまるで正反対だった。
「後日、聖女セシリアとアフォカトロ王子との婚約の儀を執り行うものである」
奪われた全ての栄誉は、新たな聖女へと与えられるようだった。平民の、孤児院育ちの見栄えのしない“贋物”の聖女ではなく、高貴な生まれと育ちの、美しい聖女へと。
哀しさより悔しさより、虚しさだけがあった。
胸の真ん中に大きな空洞ができたようだった。