幸無き者
「御月ィ!ここにあったケースどこやったァ!?」
「事務室に戻しましたけど?」
「バカが!いちいち戻すな持って来い」
青年は駆け出す直前、横の机にちらと目をやる。工具類やらよくわからない器機、ジャンクパーツなどがごちゃ混ぜになって机の上を埋め尽くしている。またすぐに使うという言葉を信じて敢えてそのままにした結果の惨事だ。
「片づけなんて幼稚園レベルのこともできねえくせに偉そうにしやがって」
青年は今しがた怒鳴りつけてきた現場担当に気づかれないよう口の中で悪態をつきながら監督様の所望のものを取りに工場の隣の事務室に向かう。
「御月くぅん、ちょっといい?」
「?今日の工程は全部終わりましたけど」
低い声で間延びした喋りで、やはり広報のオバサンかと察した青年は振り向きつつ身構える。オバサンの肩越しに壁の時計に目をやると現在時刻4時55分、この時間帯にこの人が工場内に足を運ぶのは、
「今日サビ残してくれなぁい」
サビ残しろと言いに来るときだけだ。
「分かりました」
しかし給金の出ない無駄な労役に対し、青年の返答はあっさりとしたものだった。理由は単純にやらざるを得ないからだ。19歳の彼はこの工場内で最年少故、断ろうにも「ほかの人はぁ、家族がいたり友達と約束あるけどぉ御月くんはぁ帰るだけでしょぉ。ならいいじゃぁん」と押し切られてしまい、そうでなくとも先輩方に任せると借りを返せなどと恐喝まがいの当たりを受ける。つまりこのオバサンが来た時点で彼の選択肢は1つしかないのだ。そしてオバサンもそれを理解しているからいの一番に青年に声をかけるのだ。
「…ッ、何をすればいいんですか」
小さく舌打ちしつつ感情が表に出ないように静かな口調で指示を仰ぐ。
「明日ぁ、企業見学で学生さん来るからぁ工場内の片づけお願いしたいのぉ。」
つまり整理整頓やお片付けのできない30歳児40歳児の後始末をしろ、と。それも無償で。
「了解です。鍵は俺が閉めておきますね。」
「うん、お願いねぇ。」
工場の門と事務室の鍵を受け取りオバサンの背中を見送ると現場監督が散らかしに散らかした机に向き合いはぁ、と1つ息を吐く。
「…めんどくせぇ」
すべての作業を終え、門と事務室の扉の戸締りをし・・・一応自分のタイムカードを確認するとキチンと5時で切られていた・・・プランターの下に鍵を隠し、原付のエンジンを掛ける。スマホの時計を見ると8時40分だった。12月のこの時間は恐ろしく寒い。青年はグローブとヘルメットしっかりと装着しクリスマスイルミネーションに彩られた夜道に原付で繰り出した。
赤や白や緑のキラキラした光が視界に入っては後方に流れていくを繰り返す。レストランや居酒屋の前を通り過ぎると芳しいにおいが一瞬だけ鼻に届く。すると腹が切ない音をたて今日の晩飯はどうしようか思案してしまう。交差点の赤信号で停車したところでいつも通りカップ麺でいいかという結論に落ち着く。
横断歩道を渡る人を眺めてみると左手のレストランから向かいの駐車場行くのだろう家族連れが目立った。子連れや夫婦かカップルか二人連れも見受けられる行列を眺めながら、クリスマスは来週だぞと誰に向けたものでもない独り言を漏らす。
信号が青になり子供が飛び出てこないか確認し母親や父親がその手を掴んでいることを認めると原付のアクセルをひねる。そろそろ腹が限界だと思いつつ今日はやけに街灯が眩しいなと少しばかりい目を細めながら・・・
________違う
左に視線を向ける。
2メートル先にトラック。全くスピードを落とそうとしない。そもそも相手も自分も今更ブレーキなんか間に合わない。
1メートル。こちらが素早く交差点を抜けてかわす?加速も間に合わない。
30センチ。突然トラックがスピードを落とした。青年は悟った、俺はここで死ぬのだと。その瞬間、頭の中に知っている人間の顔が浮かんできた。
20センチ。明日の朝一に自分の死を聞かされた工場のおっさん共はどんな顔をするだろうか。
10センチ。9年前に変な宗教に嵌まって以来おかしくなったお袋は一人で生きていけるだろうか、8年前お袋に愛想つかして出て行った親父は上手くやっているだろうか。
5センチ。おかしい。おっさん共、なんで笑ってる?お袋、聖書に釘付けになってる。親父に至ってはそっぽを向かれた。
1センチ。青年は理解した。自分の人生はどうしようもないまでに、はずれの人生だったと。彼は自分の口角が自然に上がっていくのを感じた。
0センチ_____________