第7話 壁
天皇賞・秋の後、優一はサツマキリコでデイリー杯2歳ステークスも制し、好調なまま国際招待競走・ジャパンカップを迎えた。
ザワイルドウインドは疲労のためこのレースを回避し、年末の有馬記念に直行。スムースクリミナルは同じオーナーの馬で使い分けるため年末は香港を目指すことになり、間隔が充分取れないジャパンカップは回避していた。
日本馬の有力馬は、ロマンオンザターフの次にGⅡレベルと目されているランアンドガンが来るくらい層が薄かった。
しかしながら、今年は海外馬もあまり評判の高い馬は来ていない。今年のバーデン大賞を始めGⅠを2勝しているドイツのグーデンタークが一番の実績馬で、二番手は昨年のメルボルンカップを勝ったオーストラリアのワラルー。
しかしワラルーも今年の成績はイマイチ、更にその他にはGⅡを勝った程度の馬が2頭来ただけで、グーデンターク以外は買うに値しないというのが下馬評だった。
レース当日が来た。オッズは1番人気にロマンオンザターフが2.1倍、2番人気はランアンドガンで7.1倍。3番人気に外国馬のグーデンタークが8・7倍で続いていた。
優一はパドック脇の待機所で馬の様子を見る。やはりロマンオンザターフは良く見えていた。少なくとも他の国内馬に負けることは無いだろう。
怖いのはやはりグーデンタークだ。この馬は強い馬特有の雰囲気をまとっていた。自分が一番強いという自信に満ちたオーラを見せ付けて、パドックを周回していた。
彼の馬はロマンオンザターフを意識しているのが明らかに見て取れた。一方ロマンオンザターフもグーデンタークを意識して回っていた。馬同士はすでに牽制をし合っているようだ。
馬場の特性的にもドイツは日本に近いと言われている。ならばやはり警戒は必要だろう。
時間は進んでいき、間も無くレースが始まる。ファンファーレが鳴る。順調にゲートイン、スタートが切られた。
少しばらついたスタート。ロマンオンザターフと優一は五分に出て、中団に付けた。優一は内側の斜め前を見る。そこにはグーデンタークがいた。このポジションなら相手の出方を見ながらレースができる。期せずして最高の展開に持っていくことができた。
レースは遅めのペースで流れていく。向こう正面に入り、最後方にいた馬がスローペースに焦れて引っかかり、大外を通り先頭の方まで上がっていった。それにつられて、多くの馬が行きたがるそぶりを見せていた。
そんな中、ロマンオンザターフは落ち着いて、中団でジッと脚を溜めていた。ここで他馬に影響されないのは強い精神力のおかげだろう。
ただ、それはロマンオンザターフだけではない。グーデンタークもまた同じように、惑わされず静かに脚を溜めていた。長い輸送が有ったとは思えないほど彼の馬は落ち着いていた。さすがはGⅠ2勝の強豪である。
レースは第3コーナーから第4コーナーにかけて、我慢しきれず動く馬が多数出る激しい流れになった。そんな中、ロマンオンザターフもグーデンタークも動かず脚を溜めたまま、直線を迎える。
直線に入るや否や、グーデンタークの騎手は仕掛けを始めた。先に仕掛けてもらうと、優一の方としては目標にしやすく、レースがしやすかった。優一はそれから二呼吸置いて、自分も追い出しを始める。
レースは直線半ばで、グーデンタークとそれを追いかけるロマンオンザターフが抜け出し、マッチレースの様相を呈していた。優一は必死に追う。追いかける、追いかける、追いかける。
しかし、差は全く縮まらなかった。仕掛けを我慢して遅らせたのに、伸びは互角、いや、むしろ相手の方が上だった。少しずつロマンオンザターフは引き離されていた。
追いかける、引き離される。残り1ハロンを過ぎたところで差は大きくなっていく。ゴールするときには、ロマンオンザターフはグーデンタークに4馬身付けられてしまった。
3着の馬はさらに9馬身後方であった。ロマンオンザターフも強かったが、それ以上にグーデンタークは強かった。
畜生、どれだけ強いんだよ。優一は打ちひしがれていた。ロマンオンザターフもこれだけ強いのに、世界にはまだ上がいる。優一達が初めて感じた大きな壁だった。
*
12月に入り、GⅠ戦線も佳境を迎える。ダートの頂点を決めるチャンピオンズカップに続き、阪神では2歳の頂点を決めるレースが続く。まずは牝馬のチャンピオンを決める阪神ジュヴェナイルフィリーズ。その次の週は世代の頂点を決める朝日杯フューチュリティステークスが行われた。
その朝日杯で、優一が騎乗したサツマキリコが圧勝した。定位置の最後方から、一気の末脚を使い他馬をなで斬りにし、最後は5馬身差の圧勝だった。
これにより、この年の最終週に行われるグランプリ有馬記念で優一の2週連続GⅠ勝利がかかることになった。
今年の下馬評を見ていこう。まず有力なのは、やはりロマンオンザターフ。前走も差を付けられたとは言え日本馬では再先着であり、実力は上位だと目されている。
天皇賞・秋では僅差で敗れたザワイルドウインドも評価は高い。その他にも牝馬GⅠエリザベス女王杯を制したブルーバードも参戦する。
若い3歳馬の中では、実力上位は春の二冠を制したアシタ。菊花賞は3着に敗れたが距離不向きと敗因はハッキリしており、ダービーに近い距離の有馬記念なら勝機は充分だと思われる。
秋華賞を勝ったシャイニングデイズは有馬記念に直行してきた。能力は高いが、さすがに3歳牝馬で勝てるとは思われていなかった。この馬はそもそも牝馬戦線でも常勝の馬でもないので、軽視されている。
今年は春の実績馬に故障が多く、他にGⅠ馬はいない。ランアンドガンあたりが実力では上位だが、この馬ですら賑やかしにしかならないと思われている、比較的手薄なGⅠになった。
現在のところ本年度にGⅠを2勝した馬はアシタの他におらず、勝てればロマンオンザターフにも年度代表馬の目は有りそうだ。優一は何としても勝とうと気合が入る。
レースが近付く。オッズは1番人気がアシタで2.6倍、ロマンオンザターフは2番人気だったが2.8倍で差が無く続いていた。
その次がザワイルドウインドで8.8倍、4番人気の時点で20倍を超えており、この3頭が勝負になりそうだとファンの皆は見ていた。
パドックの周回が終わり、返し馬に移ろうというところでアクシデントが起こる。1頭暴れ出し、地下馬道を通って馬場に入り、所構わず走り回っていた。それを押さえるため係員が走り回り、何とか収めた。この馬は12番人気、レースの大勢に影響はない。
しかし、騎手が乗ってから返し馬まで時間がかかったため、興奮する馬が多く出た。ブルーバードやシャイニングデイズは牝馬特有の癇の強さを見せ、興奮を抑えきれないでいる。
優一は、そんな中まわりを冷静に見渡した。歴戦の猛者ザワイルドウインドは全く動じず。アシタはマイペースな性格なのか、我関せずでイラついた素振りは無かった。落ち着いているのは自分が乗るロマンオンザターフと3頭のみ。これは、やはりこの3頭の勝負になるだろう。
その後各馬返し馬を終え、輪乗りを送り、そしてファンファーレが鳴る。ゲートを嫌がる馬もおり、全馬ゲートインまでは時間がかかった。
ゲートが開き、スタートする。バラバラっとしたそろわないスタート、好スタートを見せたのはザワイルドウインド。先に行く馬がいないことを確認すると、すぐさま自分が先手を取り、自分に向くスローペースに落とす構えだ。
ロマンオンザターフとアシタは五分のスタート、ロマンオンザターフと優一はそのまま中団に付け、アシタは自分の形、最後方に押し下げた。
レースは恐ろしいほど淡々と進んだ。スローペースだがさすがこの大一番に挑む騎手達、上手く馬をなだめ、レースに合わせていく。
第3コーナーを回る時、まず動き出したのはザワイルドウインドだった。優一は悪寒が走った。彼の馬は切れ味を持ち味とする馬である。その馬が末脚を溜めないで早めに仕掛ける、と言うか早すぎるのではないかというくらい早い仕掛けだ。それはつまり後ろの馬を警戒している証拠である。
そして、それはおそらくロマンオンザターフではない。鞍上横原はもっと後ろに感覚を集中している。それはつまり、アシタはそこまで警戒に値する相手だということだ。その強さを察して、優一は寒気を感じた。
その瞬間優一は自らの直感に身をゆだねた。すぐさまロマンオンザターフを外に持ち出し、自らも仕掛け出したのだ。おそらく、自分の得意な形にこだわっていたら、アシタに末脚で負ける。それならできる限り最善のタイミングで出し抜けをかますべきだ。
それに対して、アシタは不動。鞍上の高巧は自分の形に専念する。その覚悟と度胸の深さ、さすがに鞍上はJRA最多勝保持者と言えた。
レースは、終盤を迎えた。ザワイルドウインドがやや抜けた先頭のまま直線を迎える。しかしすぐに中団から捲り上げていたロマンオンザターフが並びかけ、追い抜いた。ザワイルドウインドは典型的な中距離馬、距離適性も不適であり、また、キレを身の上とする馬にロングスパートも合わなかったのか、この馬はここで終わりのようだった。
それに代わって先頭に立ったロマンオンザターフ。鞍上の優一は必至で追い続けた。相手は後方にいるアシタ1頭。それだけを意識して、絶対に追い付かれないセーフティリードを作ろうと必死だった。
あと1ハロン、もうゴールは目前である。だが、歓声に混ざって、確実に迫ってくる足音が聞こえてきた。アシタの物である。彼の馬は確実に差を縮めている!
中山競馬場には最後の1ハロン、200メートルに急な坂が有る。この急坂のおかげで、中山競馬場は直線が短い割に差し馬が届くコースになっている。つまりは先行馬がヘタれるわけだ。
なら、逆に考えて、坂を上りきって脚が残っていたら勝ちだ。優一はそう考える。必死に、追い続けた。全身全霊を持って、馬を押して押して押していく。
最後に急な坂が有るのはやはり馬としてもきつい。だが、ロマンオンザターフはその坂を淡々と登っていく。登りきった瞬間、ロマンオンザターフの手応えはまだ残っていた。脚が止まる気配は無い。
勝った、優一はそう思った。
その瞬間、隣に馬が並びかけていた。いつの間にかアシタは追い付いていたのだ。優一は驚愕を大いに込めた酷い形相で横を見てしまう。
それからのわずかな距離で、ロマンオンザターフは追い抜かれてしまった。最後はアシタが勝利、2着のロマンオンザターフとの距離は半馬身だった。
アシタの鞍上高巧が拳を突き上げる。それを優一は茫然と見ていた。あれだけ全身全霊をこの身の全てを込めて戦ったのに、叶わなかった。優一は意識が飛びそうになるほど気持ちが抜けていった。
ロマンオンザターフは強い。だがそれでも、歴史的名馬と呼ばれるのはまだ力が足りないのだ。優一は歯噛みする。
ロマンオンザターフはその後、疲労を取るために放牧に出された。実績を積んだ馬であるから、この後の始動は春になってからである。
年が明け、年度代表馬が発表された。もちろんGⅠを3勝したアシタである。
ロマンオンザターフは秋の成績が評価され。最優秀4歳以上牡馬を受賞した。それでもやはり、年度代表馬が、最も栄誉ある賞が欲しかったと優一は思う。
なお優一も67勝を挙げたが、最優秀新人騎手賞は82勝を挙げた山風に持っていかれてしまった。来年は、人馬共にリベンジを目指すことになる。