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五月は虚無の国【打切】  作者: 八雲 辰毘古
月曜日のサボタージュ
6/7

月曜日のサボタージュ(6)

「どうしてあんなことをしたんだい?」


 先生は職員室で、そう尋ねた。

 ぼくは、わかりません、と答えた。


「わからない? 困ったね。それじゃあ、かなちゃんや親御さんは納得しないよ」


 そんなことを言われても、ぼくにはもうなにがなんだかわからなかった。自分が悪いことをしたのはわかっている。かなちゃんにすごく謝るべきなのも、わかっていた。しかし、そこに理由が必要なのがわからなかった。どう釈明したって、ぼくがかなちゃんを傷つけたのは、変わらないのだから。

 けれどもそうなったとき、どうすればいいのかはまるで教わったことがなかった。ただ、ちゃんとした理由があればどうにかなるとは、決して思わなかったのだった。


「ぼく自身でも納得がいかないんです。ぼくは、」

「きみ自身のことはどうだっていいんだよ」


 先生はとつぜん、冷たい口調になって、言った。


「きみはもう十歳──半分はおとなになったも同然だよ。いつまでもかわいくて、やんちゃで、どうしようもないお子様というわけにはいかないんだ。世の中はきみを中心には回っていない。いいかげん、気づいたらどうなんだい?」


 ぼくは心臓がばくばくと鳴るのを感じていた。さっきまで、たまたま学校をサボったことで責め立てられ、感情を否定され、意味の分からないことでさんざん悪く言われた挙句に、このありさまだ。先生はなにひとつとしてわかってくれなかった。もちろん、それはぼくがなにも言わなかったからだが、ぼくが学校を休みたい気分だったことを、きちんと腹を割って話そうとも、してくれないのである。

 ふと、先生のことがお面をかぶったからくり人形のように見えた。その表情は時と場合によって使い分けられ、どれも整った都合の良い顔をしている。しかも、そのお面が付いているのは、スイッチをひねればすぐに切り替わるような、感情のひとかけらもないような仕掛けだけで動く人形があるのだった。


 いい子ちゃんのときには優しく、

 悪い子の相手には厳しく、

 悲しそうな子供にはそっとよりそい、

 怒っているひとにはさとすように語りかける。


 そのことばはどこからやってくるのだろう? 話せば話すほど、聞けば聞くほど空虚な気分になるようなまっとうなお話とやらは、いったいどこからきて、どこへ流れつくんだろう。まるでインフルエンザかなにかのように、わたふたと、みんなでよってたかってことばを封じ込める。それ以上はしてはいけない、といつのまに空気がよどむ。掃除をしないメダカの水槽のように汚く、苦しい、あの雰囲気が、いつしかぼくらの周りを押し包んでいる。

 ああ、なんで気づかなかったんだろう。たしかに世の中はぼくらを中心には回っていない。ぼくらの生活は、ぼくらの両親や家族が決めていて、先生をはじめとするおとなたちがいて、さらにもっと遠い、顔と名前しかわからないようなひとたちがテレビや新聞の中で知らされるだいじなことを決めているのだ。


 ぼくらはその中に、たまたま生きている小さなこどもにすぎない。お砂場のありんこみたいなものだった。いつかおとなになりたいと思っていたのに、ぼくらはいつまで経っても、おとなになれる気がしないのだ。ただ果てのないお砂場を、砂漠のように感じて、やる気を失って、どうにもならないと何かをあきらめて、冷めてしまう。

 幼稚園時代のことだった。しあわせになりたいとねがったこどもがいた。素敵な女性になりたいと書いた女の子がいた。かっこいい男になりたいとあこがれた男の子がいた。みんな顔を知っている。だいたい同じ幼稚園で、そのまま同じ小学校に上がったからだ。けれども「しあわせ」ってなんだろう? 「素敵な女性」ってなんだろう? 「かっこいい男」ってなんだろう? かつては具体的に誰かの何かが入っていたはずのことばから、中身が抜き取られ、あるいはこどもの心をつかみたいおとなたちにネタにされ、だんだんと意味が変わっていることに、だれも気付いてはいなかった。自分だって、最初から答えを持っていたわけでは、ないのだから。


 そうしてぼくらは何かを失ってゆく。失くしたことすら気が付かないままに。自分はきっとちがうと棚に上げたまま、ずっとほんとうに大事なものを見過ごしたまま、人並みによいことを演じて、人並みにぜいたくができて、人並みに尊敬される人間であればどうにかなると安んじてしまう。それはたしかに不幸ではないかもしれない。けれども、決定的に不自由だった。

 息苦しくてたまらない。ぼくは増田くんに初めて同情した。いまなら同じ気分をわかちあえるような気がした。しかし、もう遅かった。わかりあえるとさしのべられたうでは、もうふりほどいてしまったのだ。


 思えばかなちゃんのやさしいことばも、増田くんの声も、おかあさんの説教も、そしていまの先生のお叱りも、ぜんぶがぜんぶ、ぼくは要らないとはねのけた。そのどこかで妥協すれば、きっとぼくはどうにかなっていただろう。しかし、そのすべてをぼくは無視した。自分に向けられた愛情だったはずなのに、そのときぼくはなにもわかってはいなかったのだ。

 大切なものは、失くしてからようやく意味がわかる。わかったところでどうしようもない。ただ水道からすくおうとして、指のあいだをすり抜ける水を眺めるようにしか、できなかった。


 ぼくはすっかり学校が嫌になってしまった。あれほど好きだったはずの空間が、あっという間に嫌いになるなんて、ぼくもひどい薄情者だと思って、すっかり自分を馬鹿にするような笑いがこみあげてしまったのだった。

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