月曜日のサボタージュ(3)
増田くんのうわさは、ぼくが小学四年生のときからあった。勉強と運動が優れていて、塾通いで、いつかはすごい中学に受験をしに行くだろうって言われているのに、学校には来ない。たまに学校に来て、先生に呼び出されるのだけれど、テストは何も言わずに満点を取るから、文句も言えない。
そんな増田くんがいったい日頃どうしているかなんて、ぼくにはまるでわからないことだった。
増田くんは腕時計をちらと見てから、ふうん、と面白そうに、
「もう八時二十分だぞ。まさか、お前までそういうことをするとは思わなかったな」
「ま、まあね」
ぼくは作り笑いを浮かべた。まさかこんなことになるとは思ってもみなかったのだ。
「学校に行かなくていい理由を探して、疲れたら、ほんとうに学校に行かなくていいことになっちゃってさ」
「なんだよ、それ。学校に行かなくなるのに理由なんていらないじゃん」
増田くんは笑って答えた。その答えはぼくにとって目からうろこだった。理由が要らないって?
「え、そういうものなの?」
「そういうもんだよ。たぶん、最初はおれも理由を探していたかもしれないけど、もう忘れちゃった。休みたいから休む。なんとなく学校行かなきゃ、て思ったから行く。それでいいと思ったんだ」
立ち話もなんだ、秘密基地に来いよ。と、彼はそのあとにつなげた。ぼくがオウム返しに尋ねると、近くの体育館の裏にぽっかり空いたスペースがあって、そこにいろいろ捨てられたものを活用しているのだそうだ。
ランドセルと帽子はその場に置いて行った。彼はともかく、ぼくの場合は家がすぐそこというのもある。そして、ぼくは増田くんのあとについて行った。
いつも通っている道は避けた。あえて遠回りをして、人目につかない道を、とくに通勤中のお父さんたちに会わないように、駅を避けて進んだ。マンションの裏手や、裏路地や、石塀やフェンスのすき間などを、さいほうの針で縫うように。
そのためか、放課後や夏休みでよく見知った街並みが、まるでちがって見えた。かくれんぼや鬼ごっこをしている気分になったのだ。そしてそれは、ぼくたちが現実逃避をしているという点において、まったくもって正しい発想だと思えた。ゲームをしているときは、現実なんて忘れられるのだった。
やっとたどり着いた秘密基地は、思ったよりもしょぼかった。たしかに捨てられた革のソファがあったり、デスクがあったり、ゲーム機やら、トランプやら、楽し気なものにあふれていたけれど、そして、すごく居心地は良さそうだったけど、どこかしょぼかった。そのことを素直に言うと、そういうものだよ、と増田くんは怒るわけでもなく答えた。
「だってここに住むわけじゃないしさ。登校時間と下校時間をごまかすための隠れ家なわけだし。使えればいいの」
座るか? と聞かれたので、ぼくはうなずいた。
革が張ってあったが、ソファの座り心地はびみょうだった。
「ゲームでもするか?」
増田くんはそう言って、携帯ゲーム機を差し出した。この間の試験で満点を取って、買ってもらったのだという。しかし学校に行かなくなって、文句を言われて捨てられそうになったので、ここに持ってきたらしい。ぼくは断った。
増田くんはゲームをしながら、それとなく自分のことを話してくれた。たまたま勉強ができるとわかったときの親の期待、中学受験へのさそい、学力競争、いじめ……
「小四のときにさ、おれたちのクラスでいじめみたいなのがあったの。なにがどう、てわけじゃないんだけどさ。
彫刻刀ってあったろ? あれで机を傷つけて『死ね』って書くのが流行って。『死ね』とか『キモイ』とか『うざい』とか、そういうのがやたらとおれたちのあいだで投げ飛ばされたんだよね。
おかしい話だよな。友達百人できるかな、て歌って暮らしたはずのちびっこたちがさ、三年経ったらとつぜん互いに死ねとか言い始めるんだぜ? おれはちゃんと覚えていたんだけど、そんなの忘れたって言ってさ、聞かないんだ。おまけに勉強ができただ、できないだで格付けがされてゆく。テストの点数がなんだっていうんだろう。そうこうしているうちに、なんでおれは頑張っているのか、わからなくなったんだ」
そして、さも明日の天気を訊くような口調で、彼はぼくに尋ねたのだった。
「なあ、お前は、なんのために頑張っているんだ?」
「なんの、て、その……」
誰のためだろう? ぼくは即答できなかった。おとうさんやおかあさんのためではない。よくがんばったね、と言ってくれる笑顔を見るのは好きだったけど、べつにそれが目的だったわけでもない。でも自分のためだと言い切れる自信もなかった。おかしな話だった。
ぼくはすくなくとも楽しくて勉強しているはずだった。なにか新しいことを知ることが、理解することが楽しくて仕方なかったはずだった。でも、いつしかそれは先生にほめられることや、みんなにすごいと言われることと同じことになってきていた。テストで満点取ったの、そんなことも知っているの、詳しいね、すごいね……こうしたほめことばは、言われるとすごくうれしい。うれしいからこそ、次もがんばろうと思える。
けど、それを繰り返しているうちに何かがずれはじめる。楽しいだけならゲームをしててもいいはずだ。ぼくたちはゲームも勉強も遊びもともだちも、全部いっしょに楽しくやってきたはずなのだ。けれども、遊んでばかりではいけないよ、と誰かがささやく。ゲームは脳によくないよ、と言い始めるひとがいる。勉強でよい成績を取ることがよいのだ、と言い立てるひとがいて、そうでなければ未来はないぞとおどすひとが現れる。
たぶん現実は、おとなの世界は、きっとそうあるようにできているのだろう。放課後の時間は学年が上がるたびに減ってゆき、ニュースは脱ゆとりをがなりたてている。ゆとりがなんだったのか、ぼくは知らないけれど、だんだんと窮屈になっていく感じだけは、あったのだ。
「──なら、べつにがんばらなくてもよくね? なんかもう、あきちゃったんだ。こうしてゲームしているほうが、ずっといい。そう気づくと、すごく楽でさ。無理強いはしないけど」
ああ、と思う。増田くんはどこか壊れてしまったのだ。中学受験を前にして、無我夢中で走って、そして、なにか大切なものを失くしてしまったのだ、と感じた。それがなんなのかはわからない。けれども、それを失くしてしまったがために、がんばる理由を、意味を、失くしてしまったのだ。
「たしかに楽だけど、それって楽しいの?」
「楽しいよ。ずっとこのままでいてほしい。変わらないでいてほしい」
「それはちがうよ。増田くんだって、学校が楽しかったはずなのに、変わっちゃったんでしょう? なら、いまここでやっている『楽しいこと』も長続きしないよ」
「うるさいなあ」
増田くんはどなった。図星だったのだろう。
「だって、もうわからないんだよ、自分が何をやっているのか……いい中学に行くことがそんなに大事か? つるかめ算や読書感想文をやっていてなんになる? 理科の実験は小難しいし、社会は昔と遠いところのことばかりだ。少しぐらいは、ちょっとぐらいは、いいだろうが?」
「でも、それじゃあ、なにも変わらないよ」
急に静かになった。ぼくはことばの使い方をまちがえたのかもしれない。気まずくなって、ぼくは足を一歩引いた。
「ごめん。やっぱりぼくは、学校に行く」
それだけ言って、ぼくは、駆けだした。
背中からただひたすら、「裏切り者、裏切り者!」とののしる声だけが聞こえていた。それに対して返事はついにできなかった。