#5 「平凡な少年 堤納馬(つつみ のうま)」
外界からの影響によって世界が崩壊したという事実を、内なる世界に住む人間でしかない自分が自覚することはなかった。
それは、重大な欠損を抱えたにも関わらず破片の一つ一つが世界として機能してしまったことに起因した結果であり、世界の歪さを正しい現実として誤認したまま成立してしまったのである。
例えば、”平凡な学生である筈の少年、堤納馬が実家で一人暮らしをしていた”という事実について。
これは親、収入、その他の権利がどのような形で成り立っているのかという”過程”を超越し、一人暮らしという現実を”結果”として成立させているということになる。
故に自分には両親がいない。少なくとも、居たと言う記憶は自分の中には存在していない。
魔王と契約し、真実を知り、異世界を救う役割を持つ契約者として選ばれる瞬間まで、その事実を何の疑問も抱くことなく受け入れていたのだ。
自分だけでは無い、この世界に生きる人間は誰もが皆、そうなのだろう。
主体を失ってしまった世界は、かつてはこうだった筈だという残滓によって辛うじて形を留め、その本質を誰も理解できないまま存在し続けているのである。
そんな有様の世界とは、一体どこからどこまでを”世界”として定義すれば良いのか。
そんな歪な理を抱えたまま成立してしまった世界が、果たしていつまで存在し続けられるのか。
分からない、だからこそ。
考えることの出来る立場を得た自分は、行動することを決断した。
「”黒い扉”を”魔王の鍵”で開く。”異界名”は、”ノーマ=ブリングス”!」
この口から紡がれた呪文の羅列は、異世界に続く道を開く為のパスワードのようなものだ。
”黒い扉”とはすなわち、魔王に属する眷属として赴くということ。
”魔王の鍵”とはすなわち、魔王エルガンから振り分けられた力を行使するということ。
”異界名”とはすなわち、その世界における自分自身を定義する真名であること。
女神や魔王が娯楽として利用するための干渉システムを応用し、契約者の意識を異世界に送り込むことを可能にするこの儀式を経て、ようやく”破片世界”への干渉が可能となるのだ。
そうして訪れた世界で狂った理を但し、安定させることで世界は少しずつ統一されていく。
一つずつ、確実に。
そうした行動の果て、完全に世界が再生するのはいつになるのか、またその時まで自分が生きていられるかは分からない。
それでも、縋るような思いでも進んでいかなければならない理由が、自分にはあるのだ。
「俺は平凡な人間なんだよ。だからこそ返してもらう、俺の平凡で退屈な日常を!」
両親が居たであろうと言う事実は記憶していても、名前や顔はすっかり抜け落ちている。
ただ、品行方正に生きるよう厳しくしつけられた記憶があるからこそ、そうあり続けなければならないという強迫概念にもにた思いを抱き続けていた。
それは世界の変質を自覚したことによって、より歪な形で自身を縛り付ける枷となってしまった。
自分は平凡な人間であり、そして平凡であり続けなければならにのだ、と。
取り戻したいのはすなわち、人間としての在り方そのものだ。
だからこそ、解決しなければならない問題が目の前に立ち塞がったのなら、これを何としても乗り越えなければならないという思いが湧き上がるのだ。
これが契約によってもたらされた、呪いにも等しい行動理念の形なのである。
かくして少年は黒い扉を潜り、魔王の意思を伴って異世界へと赴くことになる。