#3 「魔王 エルガン」
常に沈着冷静を心掛けていた筈の心が容易く乱されるようになったのは、間違いなくあの人間と契約してからのことだと自覚している。
世界を女神と競い合う陣取りゲームの舞台程度にしか認識していなかったこの魔王エルガンにとって、人間とは扇動によって思い通りに動かすことの出来る盤上に存在する駒の1つに過ぎないものだった。
その認識そのものは今なお変わることなく、契約を交わしたとは言え相手を対等の存在として扱うつもりはなく、単に己の目的の為に役に立つ道具として使うだけである。
変わったのは、目線の高さだ。
ゲームで相対していた女神の癇癪によって引き起こされたイレギュラーな事態によって、その巻き添えを食う形で地上世界へと落とされたことにより、仮初めの肉体を通して人間と同じ目線からものを見る様になったのである。
とばっちりで不自由な生活を強いられる形となったことで、その不便さを抱えたまま生きている人間と言う存在に抱いたのは純粋な興味であり、そんな気まぐれに端を発した地上での生活を繰り返す内に、自身にも”感情”と呼ぶものが芽生えていることに気付いたのだ。
それが良い事か悪い事かの判断は、未だに下せていない。
自分もまた日常の流れに乗り、毒され、そして適応しているのだという事実には複雑な思いを抱かずにはいられないが、それでも退屈を感じない程度に充実しているのではないかと思い始めていた今日この頃。
だからこそ、ほんの少し思う通りに行かないことに直面した時に語気が荒くなってしまうのだと、内心で自分に言い訳しながら目の前に立つ男に相対した。
「遅いわよ、納馬!」
”扉”の出現によって異世界に最接近し、渡ることの出来る条件が整ったことを知ったその日の午後。
本来であればもう少し早く帰宅してくる筈の人物の帰りが遅く、目的を果たす為の行動が一手遅れてしまったことに対する苛立ちを抱いてしまったが故の言葉に、目前に立つ少年は困惑の色を含みつつも申し訳そうな表情を浮かべながら頭を下げた。
「悪かった。こっちの都合があるとは言え、"扉"が開きそうなタイミングで帰るのが遅れたのは俺のミスだ。すまん」
堤納馬は魔王である自らと契約を交わした少年は学生の身で、同時にこの家の家主と言う立場にある。
この地上に住家など持ち合わせていない立場として、生活の場としてその一角を借り受けている現状を思えば、自分にとって本来なら目上の存在に当たるのだろう。
が、仮にも魔王という立場の自分が気安く首を垂れるなどあってはならないことであり、あくまでも対等以上であると分からせるために常に従来通りの高圧的な態度で接するよう心掛けていた。
それ故に納馬も強い口調で当たり散らされることは想定していただろうし、口にした以上はその場凌ぎの逃げ口上などでは無く、本心を含めた言葉を紡いでいると思われる。
一切の言い訳を挟むことの無い潔い態度を示されたことで、動揺したのはむしろこちら側の方だった。
契約を交わす際にお互いの事情は説明し合っており、彼が求めてきたのは自らの生活基盤の保障なので、それを脅かす可能性があれば極力回避を試みるというのはこちらも了承したことである。
そして今回の帰りが遅くなった理由はその学業に関わることであり、つまりはその点に関して彼を責め立てるのは契約に違反する行為になってしまうのである。
このまま怒りをゴリ押しするような状況になれば、これは単に思い通りにいかない出来事に駄々をこねる子供の我儘に等しいということになる。
それは少々、いやかなり恥ずかしいことではないだろうか。
「……そ、そこまで言うなら、まぁ。元々そういう契約だった訳だし、そうね、私も強く言い過ぎたかも知れないわ」
羞恥に顔が赤くなることを自覚しながら、この話題はここで手打ちとすることを提案する。
この台詞を意図的に言わせているのだとすれば相当に性格の悪い相手だと思うが、特に茶々を入れることもなく同意する彼の反応を見るに、そんな思惑は無いだろうと評価できる程度には相手を理解しているつもりである。
堤納馬とは、平凡な少年だ。
それは特技を持たないという意味でも、同世代として平均的であるという意味でもない。
およそ人としてこうあるべきだと思われる概念そのものを持ち合わせた存在、親や大人から"これをやってはいけない、こうありなさい"と言われた内容そのものを律儀に守り続けた結果の到達点のような存在だと認識している。
なので人を欺き、煽り続けてきた黒幕のような生き方をしてきた魔王としてはやや直視に堪えないと言うか、もの凄い居たたまれない気持ちになってくるのだ。
はっきり言って、この空気は居心地が悪い。
彼と正面から向き合うと強く言い返すことが出来なくなってしまうのが、ここ最近の小さな悩みにもなっていると言えた。
「俺に関しては気にしてない。ただシルの方には後で一言あると助かる」
例えばこのように言われた場合。
まず、これまで自分が不機嫌な態度を取っていたことは事実として認識している。
自分とは違う管轄で派遣され、この家に住み込んでいる使用人に対してした仕打ちを思い返せば、確かに理不尽なものだったと言わざるを得ない。
その全てを自覚していることを前提として、その態度を取ったことを敢えて責め立てることなく反省を促すよう仕向けてくるのだ。
まるでこちらの心の内を見透かされているようで落ち着かない。
こちらにも魔王としての威厳があるので、それを保つためにも素直に首を縦に振る訳にはいかないというのに。
ここは敢えて毅然とした態度で訴えてみるのも一つの手では無いかと思い至り、反論を試みた。
「"アレ"は守護者の使いみたいなもんでしょ、何で私が」
「エルガン」
「…………分かったわよ。八つ当たりしたのは私の方だし、謝れば良いんでしょ」
駄目だった。
そもそも、自分でも悪いと思ってしまっていることを誤魔化そうとしたところで、それすら読まれている相手に虚勢だけで立ち向かえる道理はない。
しかしこのまま負けっぱなしと言うのも癪に障ると言うか、どう対抗するべきか本気で考える必要があるかも知れないと考える。
まぁ、今日の所は契約者である相方に華を持たせてやるのが良いという結論で良いだろう。
これは負け惜しみなどでは決して無く、戦略的撤退というものである。
「そうしてくれ。なら荷物を部屋に置いてくるから、それから"扉"へ出発するとしようか」
こちらの内心など知る由も無い納馬は、満足そうに頷きながら自らの鞄を示し、この先の行動を提案する。
ここで下手に反論したところで話が伸びるだけでしかないと判断し、その提案を了承した。
「仕方ないわね。それくらいなら待っててあげるわ」
あくまでも上から目線の物言いに、これこそ負け惜しみの台詞では無いかと思ったのは気のせいだろう。
この家で生活を始めてから、どうにも納馬相手に優位に立てる気がしないことが常に心のどこかで引っ掛かっている。
いつかその状況を覆さなければならないと強く誓いながら、部屋へと戻っていく納馬の背中を見送った。
さて、使用人に謝ると自分から言ってしまった以上は、速やかに実行しなければ。
この律儀なところは契約者の生真面目な部分が映ってしまったのではないかと考えてしまい、渋い表情になっていることを自覚した。