#2 「仮面の従者 シル」
今の自らの境遇を端的に説明するのであれば、"居候から追い出されて家主の帰りを外で待たされている"という表現が適切である。
改めて思い返しても理不尽しか感じない状況でありながら、従者として生み出されて仕えるべき主の下へ派遣された自分には、その主と契約を交わしている対等な存在に対して強く振る舞うことは許されなかった。
故に今、その言葉に従って自らの勤め先である一軒家の玄関先で、女性用の給仕服姿のまま途方に暮れた様子で立ち尽くしているのである。
しかし、道行く人が奇異の視線を向けてくるのはそういった状況とは無縁のものであるということも理解していた。
それは口元を除いてこの顔を覆っている、灰色の仮面に起因していることは明白である。
何故このようなものを付けなければならないのかと問われれば、そもそも外すことが出来ないからだ。
すなわち従者が仮面を被っているのではなく、仮面を媒体に生み出された存在が従者としてこの家に仕えているのである。
人を模して造られたこの身は限りなく人に近い模造品でしかなく、己と認識している自我もまた、目的意識の為に刷り込まれた仮初めのものに過ぎない。
人の世に溶け込もうとしている異形でしかない自分を、それでも今の主は受け入れてくれた。
その事実があるからこそ、与えられた従者という立場を弁えた行動を心掛けることが出来るのである。
ただ正直なところを言えば、この仮面は必要ないと常々思っているのだが、その意見が通りそうな気配はまるでなかった。
改めて理不尽な世の中に対する形容し難い思いを抱えながら、待たされてより一時間ほど経過した頃合い。
姿を見せた待ち人が家の外で待ち構えている自分の姿に驚いた様子を見せ、慌てて駆け寄ってきた。
気を遣わせたことに申し訳なさを感じつつも、そうして気に掛けてくれることをほんの少しだけ喜びながら、彼を出迎える為に会釈をしながら声を掛ける。
「納馬さん、お帰りなさい」
「ただいま、シル。外に居るってことは、エルガンはまた機嫌を損ねてるの?」
その情報だけで判断に至る納馬の洞察力を流石と言うべきか、或いはそこに至るまでを見透かされてしまう程の居候の態度を短絡的と諌めるべきかは、微妙なところだ。
エルガンとはその居候の名で、家主は納馬の側であることから厳密には自身が特に何かを命令される立場にはない。
存在である。
ただ、納馬とある契約を交わしていることを根拠に対等な立場にあることを公言しており、それ故に納馬と主従の関係にある自分との立ち位置もまたそれに準ずるものだという意識が働いているのかも知れない。
敢えて事を荒立てるまでもないことだと認識しているため、敢えて現状の不満をぶつけようと言う考えは持ち合わせていないが、今の様に彼に気を遣わせてしまう要因となるのであれば、ある程度の改善は要求する必要があるかも知れない。
とは言え今はそれを訴えるよりも、エルガンが不機嫌であるというその"原因"を解決する方が先決だろう。
「はい。香花さんが"扉"を開けたことを感知したことにご立腹で、納馬さんを連れ帰って来いと叩きだされてしまいまして……」
"扉"とは端的に言えば、この世界とは理の違う異世界へと繋がっている通り道のことを示す言葉であり、それが開かれたという事は開けた人物がおり、かつ扉を越えて異世界へと繰り出したという事に他ならない。
それが何故エルガンを不機嫌にさせるのかと言えば、その一連の出来事は本来、彼女自身が契約者である納馬を送り出すことによって果たされるべきものであり、つまりはその何者かに先を越されて横取りされたような心持ちになっていたということである。
故に帰りの遅い契約者たる納馬に腹を立て、その八つ当たりで自分が外に立たされていたという訳だ。
改めて考えてみても、納得のいかない仕打ちであることは間違いない。
納馬はそこまでの経緯を補足の必要なく理解した上で、改めて謝罪の言葉を口にした。
「それは何と言うか……悪い。おそらく今日辺りに繋がるだろうと思って、先に学校の用事を終わらせていたんだけど裏目に出たな」
「いえ、その判断で正解です。"扉"から帰って来れる時間が不確定である以上、我々の依頼で学業を疎かにさせる訳には行きませんし」
「留年なんてしようものなら、何て言い訳すれば良いのか分からなくなるからな……」
異世界や扉、契約といった情報は一般的に出回っているものでは無く、それを引き合いに出したところで周囲に理解されることはない。
そもそも、エルガンや力ある存在との契約が無ければ現実と理解することさえ不可能である為、例えば"異世界に行っていたから宿題が出来ませんでした"と訴えても通用しないのである。
契約によって得られる力は契約者の資質にこそ左右されるものの 納馬本人を超人化するような類のものではない。
それ故に継続してことに当たるためには、彼自身の生活基盤や生活リズムを崩さずに維持することが重要なのである。
だからこそ家を空ける際にの維持管理を行うという名目で、自身がこの家に派遣されてきたのだから。
当然、そんな自分には異世界に関する出来事に干渉する権限も、また能力も持ち合わせていない。
その事に起因して罪悪感を募らせ、自然と表情が曇ってしまうことも少なくはないのだった。
「申し訳ありません。いつも気苦労を掛けてしまって……」
「シルが気にすることじゃないだろう。まぁ、何とか機嫌を取ってみるよ」
しかし彼はこちらの思いを他所に、現状に不満を抱いている様子1つ見せず、或いは悟らせないように気を遣わせてしまっているのか、最後は笑顔で自身を受け入れてくれている。
その事実が申し訳ない反面、嬉しく思っていることもまた事実であり、だからこそこの家のことを任された自らの使命を確実に果たそうと決めて、ここに居る。
その思いに偽りは無い。
しかし。
「……ありがとうございます、納馬さん」
彼の厚意に甘えてしまいたくなる程度の贅沢は許されて良いのではないかと、心の片隅でほんの少しだけ思っていることは、誰にも知られていない自分だけの秘密である。