#1 「後輩少女 塚原静(つかはら しず)」
夕暮れの校舎の中の光景に日常からかけ離れたような何かを感じるのは、日中の喧騒を肌で感じているからに違いない。
図書館での調べ物を終えた私、塚原静はそんなことを考えながら足早に廊下を通り抜けようとしていた。
他の生徒の気配はまばらで、日頃頻繁に行き来している後者の通路はまるで別世界のようだ。
自分一人が取り残されそうな感覚に、本能的に抗いたいと言うおもいがは思いが働いたのか、特に意識することなく早足は駆け足に、一秒でも早くこの場を離れたいという思いに捉われ始める。
そんな時である、たまたま通りかかった傍らの教室の扉が突然開き、その音に驚いて思わず足を止め、視線をそちらへ向けた。
開いた扉の奥から顔を出したのは偶々顔見知りだった男子生徒であり、相手も驚いたような表情を浮かべながらこちらを見ていた。
「あれ。お疲れさまです、堤先輩」
「塚原? 珍しいところで会うな」
堤納馬。1つ年上の先輩で、友達を経由して顔見知りとなった男性だった。
落ち着いた雰囲気と清潔感を伴った装いから、自分を基準としたところによる"大人"の空気を感じさせる存在であり、密かに憧れを抱いている相手でもある。
そんな納馬が突然目の前に現れたことで、必要以上に早くなる心臓の鼓動をひた隠しにしながら、言葉を続けた。
「こんな時間まで残ってたんですか?」
「あぁ、今日の宿題を片付けていてな」
「宿題を、学校でですか?」
「帰宅後の方が忙しい……気がしてな。先に済ませようと、先生に断って教室を使わせてもらってたんだ」
「それは、大変ですね……?」
自主的に図書館に残っていた自分の感覚からして、納馬の解答そのものは至極真面目な態度であると受け止めることが出来る。
ただほんの少しだけ違和感を感じるとすれば、用事があるという前提における行動であると答えながら、肝心の用事そのものが当人さえ曖昧な認識であるという点だろうか。
流石にそんな細かい部分まで聞けるような仲ではないと思っている立場としては、それ以上の追求をすることは出来なかった。
途絶えてしまった会話をどう繋げるべきか、悩む時間を与えることなく、納馬の方から問いが発せられたのはその時だ。
「そう言えば、香花は一緒じゃないのか」
辻香花。自分のクラスメイトであり、目前の先輩と面識を得る切っ掛けとなった友人である。
納馬とは家が近く、幼少の頃から家族ぐるみで付き合いのあった間柄と聞いており、それ故に複雑な思いを抱かずにはいられない存在だ。
にも関わらず友人としての関係を続けていられるのは、香花という少女が極めて明るすぎる、それこそ男子に交じって近所を駆け回るような腕白さを伴ったその性格故である。
納馬の視点からすれば手の掛かる妹程度にしか認識されていないのでは、という希望的観測を根拠に、隙あらば何らかの進展を得たいという願望を抱き続けていた。
無論、それが少しでも形になっていればこのような悩みを抱え続ける必要も無いのだが。
「香ちゃんなら、用事があるからってすごい勢いで帰って行きましたけど」
「そうか……やはり忙しくなりそうだ」
自分の伝えた解答に対して、納馬の表情が僅かに強張ったことに気付く。
それは日頃から取り繕っているであろう穏やかな表情の端から覗いた、強い感情の顕れに他ならない。
自分の知らない感情を向けられる友人の顔が脳裏を過ぎり、ちくりと痛む胸の内を見透かされないよう意識しながら問い掛ける。
「あの……ひょっとして香ちゃんと待ち合わせとか、していました?」
「いや? そもそもアイツは、律儀に俺の帰りを待ってるようじゃないだろう」
「そう言われたら、確かにそうですね」
制止の言葉を聞く耳持たず、興味本位のままに暴走して大体痛い目に遭っている香花の日頃の姿を思い返せば、説明に思わず納得してしまうのも無理はないことだ。
故にこれ以上の追求は難しいと半ば諦めかけたその瞬間、納馬の口から驚くべき一言が飛び出した。
「気になるのか?」
「え!? それは、その……」
憎からず思っている相手からの不意打ちの一言で、顔が火照って一気に熱を帯びたことを自覚する。
ひょっとして心の内の全てを見透かされていて、その上で自分に対して律儀な態度で接してくれているのではないか、という所まで思考が発展してしまった。
しかしそれも、次の一言が発せられるまでの間である。
「確かに、あんな騒がしいのが日頃近くにいれば気になるか。毎日大変だな」
「あっ、はい。ソウデスネ……」
自分の立ち位置は幼馴染みの友人でしかないのだと、その言葉が示していた。
確かに、トラブルメーカーの傍らに立つには自己主張に乏しい性格をしていると自覚している自分にとって、その評価は嫌と言う程に納得できるものである。
やはり行動を伴わなければ流されていくしかないのかと悟り、今からでもほんの少しだけ前向きに行動した方が良いのだろうか。
その結論に至る直前に、納馬は不意に自前の腕時計に目を落としながら、驚いた様子で口を開いた。
「おっと、こんなところで立ち話して帰りが遅くなっては悪いな。折角だから近くまで送るよ」
「え? …………えぇっ!?」
思わず声が裏返ってしまったのは、自分の行動を先回りされて出鼻を挫かれた驚きによるものが半分。
残り半分は、そうあって欲しいという願望が見事的中したことに対する喜びによるものだ。
反応が意外だったのか、納馬は驚いた表情で目を見開いている。
「同じ方角だし、その方が良いと思ったんだが……何か他に用事があったか?」
「い、いえ! これから帰るところでした、全力で!」
力み過ぎて要らない一言を付け加えてしまったのは、無鉄砲な友人の性格が移ってしまっただけだと自己弁護しながらも、提案に同意する意思を明確に表現することには成功したようだ。
納馬は安心したように表情を綻ばせ、頷きながら行動を促した。
「そうか? なら問題ないな。さて、行こうか」
「はい! ……えへへ」
先に相手が行動してくれたおかげで、言葉の端から漏れた緩み切った表情を見られなかったのは幸いである。
幸せな感情に包まれた心とは現金なもので、先程まで抱いていた悩みなど跡形も無く消し飛んでしまい、納馬の背中を追いかける行動に夢中になってしまっていた。
納馬の言い掛けた"帰宅後の予定"に関する疑問をすっかり忘れる程に、である。