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失われた未来の再建  作者: 水素
8/18

宿の主

三人はなんとか屋根伝いで教会から逃げ、ロドン郊外にやってきた。雛は建物の間の路地を上から覗き、誰もいないことを確認するとそこに飛び降り、ソフィを下ろした。

 雛が「召喚解除」と唱えると装甲は消えた。

「やはりこの状態は本当に疲れる」

 雛は、息を切らせ、その場に倒れこむ。

「まだまだだな。途中で元素召喚が使えなくなるなんて」

 そう言い、ブレスレットからミネルヴァが現れ、雛の肩に乗る。

「使いこなせれば半永久的に連続して使用することが可能なのに」

「先は便利じゃないと…」

「思わず言っただけだ。気にするな」

「気にするなって…。それより、ソフィさん大丈夫ですか?」

「私ですか?えぇ、全く。問題ないです」

 ソフィは少し頬を赤らめ、目が泳いでいる。何か言うのをためらっているような様子だった。

「本当に?」

「いや、何でも。何でもありません。ばっちり。もちろん平気ですよ」

「もしかしてソフィさんに変なことしてしまいましたか?」

 雛は申し訳なさそうな表情を浮かべる。

「突然抱き上げたことに関しては面目ありませんし、その時、何と言いますか気分を害するようなことをしていたのであれば申し訳ないです」

 そう言い、雛は謝る。

「いや、そんな。全く。また助けていただいたわけですし。本当に。以前は気絶していてあまりわかっていませんでしたけど。自覚してなかっただけで」

「何が?もしかして…」

「いや、本当に何もありません。もちろん今回も以前の時も深く雛さんに助けていただいたことは感謝しています」

「そんな感謝されるようなことはしてませんしなんか申し訳ないですね。本当に」

「気になさらないでください。本当に」

 ソフィは手を振り、何でもないという。

「そうですか。ところでずっとここにいるのは追っ手がいる場合まずいので移動した方がいいですよね」

「雛の言う通りだ」

 三人は路地を後にした。

 商店街の人混みの中を歩く中で雛が口を開く。

「で、どうします?」

「それしか言えないのか?自分でも何か考えろ」

「ならば考えますよ。私ならまず何日か滞在するでしょうし、宿を探しますね。ただ宿に泊まっていることがばれないようにしなくてはいけませんけど。まぁそんなことができるかは問題外とします」

「私も賛成です。ロドンの中心地からは少しばかり離れますけど知り合いが経営している宿があるのでそこなら泊めてくれると思います」

「雛、あそこ!」

 後ろを振り返ると剣を持った五、六人の兵士が周囲を見回し、何かを探しているようだった。

「おそらく私たちでしょう。探し者(、、、)と言いますか」

 ソフィが身をかがめて小声で言う。

「気づかれずにここを離れましょう」

 三人は後ろを振り返らず、裏道に足を踏み入れる。

 その後も何人もの兵と遭遇し、機転を利かせて何とか逃げた。

「こう兵だらけじゃ一向に逃げられないじゃありませんか」

 再三再四、今度は前方から三人の剣兵が近づいてくる。

「どこか建物に隠れますか?」

「そうですね」

 三人は右手にあった古めかしい木造の建物に、感づかれないよう平静を装って入る。

 咄嗟に隅に隠れ、剣兵が後を通り過ぎるのを待った。

 広い歩道をゆっくりした足取りで周囲を警戒しながら歩いて行き、別の路地へと去っていった。

「はぁー。これでなんとか大丈夫だな」

「そうですね」

 雛とソフィは深呼吸した。


 三人は裏路地を選んで街を歩き回り、ソフィが言う「ネクタール」という宿にやってきた。

「ここがソフィさんの言う宿ですか。それにしても随分古そうですね」

 それは木造の古めかしい建物だった。

 スライド式の扉は不快な軋みを鳴らし、三人は開いて中に入った。

 玄関はなぜか光る鉱石のようなもので照らされている。電球ではない。それは淡いオレンジ色の光を静かに温かく放っている。光によるものか、とても穏やかな雰囲気を(かも)し出す。人はとても少なく外とは裏腹に誰もいない森のように静かだった。入って右手に三つほどあるソファには人が座っていたがみな人形のように口を閉ざし、集中して雑誌や本を読んでいた。

 三人は受付に向かう。だがなぜか係が一人もいない。

「誰もいませんけど?」

「いますよ。アゴバールさん」

 ソフィが言うと

「ソフィ、久しぶり。五年ぶりぐらいかね」

 穏やかで優しい、品性のある声だけが聞こえる。人の姿は見えない。

「どこに人がいるんですか?」

「人じゃありませんよ。ほら」

「はい?」

 雛は言っていることの意味がわからなかった。

「彼は連れかい?それにしてもどこにいるかわかっていないようだよ」

「えっとですね。なんと言えばいいのか。私だけ見えていないようですけど。もしかして幽霊?」

「ありえない。幽霊など存在しないよ」

 声の主が言う。

「上にいますよ」

 ソフィにそう言われ、上を見る。

「はい?」

 雛は驚嘆の表情を浮かべる。

 傘のような飛膜。不釣り合いな大きさの手。体は円柱状。豚のように潰れた鼻。縦に伸びる細長い猫のような耳。ほうれん草の茎のように赤い腕と足。淡いピンク色の毛。

 間違いない。

「コウモリだ」

 天井に通っている細い木の棒に、逆さに掴まっていた。

「雛さんどうしました?」

「あ、あ、どうも」

 雛はミネルヴァたちが喋るのは例外と考えていたが、例外でないことを今知り動揺を隠せない。

「どうしたんです」

 ソフィが訝しげに尋ねる。

「察するに彼は戸惑っているようですね」

「はい、そうです。失礼しました。私は尾野雛と申します」

「私はアゴバールです」

「まさか。ミネルヴァ君が例外と思っていました」

「アルビヨンに生息する大半の動物は人含め言語を使いますよ。ディノクスは少し別なんですが。地球では動物は…」

「絶対言語は話しません。ミネルヴァ君の事も受け入れざるをえなかったから受け入れていただけです。私にはそうとしか言えません」

 雛は冷静でいられなかった。

「ミネルヴァさんが話すのを普通に受け入れていたので…」

「そうですね。単純に私の順応が追いついていませんでした。はい」

 雛はただ頷くことしかできない。

 そうしている中、ミネルヴァがブレスレットから出現する。

「何やってる?」

「おお、フクロウですかい。なかなか見かけない方に出会いました。私はアゴバール。君は?」

「ミネルヴァだ」

 初対面のアゴバールに高圧的な態度で答える。

「あなたがですか。何か特別なことが君にあるとミスター・尾野がおっしゃっているようでしたが何のことについてなのか教えてくれはしませんか?」

「無理だ。秘密事項だ」

「そうですか。それは失礼。よからぬことを聞いてしまったようだ」

 逆さの状態でお辞儀をする。

「ところでソフィ。ここには…」

「宿泊に」

「それであれば。お越しいただきありがとうございますと言いませんとね。お客様なのですから。三名様でよろしいですね?」

 知り合いであっても客として丁重な迎え方をわきまえている点においておそらくホテルの受付係としては彼に叶うものはいないだろう。

「えぇ。だけど少しお願いがあるの」

「とおっしゃいますと」

「もし革命軍がここに来た時に男女の二人組とフクロウが一匹ここに泊まっているということは言わないでいただきたいの」

 アゴバールは棒から降り、デスクに乗り三人を見た。

「そうですか。何か事情がおありのようですね」

「そうですな」

 雛が答えた。

「わかりました。お客様のプライバシーと安全をお守りするのが当宿『ネクタール』の主である(わたくし)の務めでございます。おっしゃるとおりに」

「アゴバールさん、この宿の主なんですか?コウモリで…」

 雛は思わず大きな声を出す。

「雛さん失礼ですよ」

「ソフィ。気になさらないで。そう思いになるのも当然です。一部の人からもそう思われていることでしょう。ですがこの宿も運営できているのはお客様のご理解とご協力の賜物。もしよろしければミスター・雛にもぜひともご理解とご協力をお願いしたい」

 そう言い、右翼を肩につけ、目をつぶって深くお辞儀をする。

「それはご丁寧に。私も失礼なことを言ってしまい申し訳ない」

 雛も深くお辞儀をする。

「奴らは慇懃(いんぎん)無礼というのも知らないのか?」

「ミネルヴァさん」

 ソフィがしかめっ面をする。

「ふん」

 ミネルヴァは無視をする。

「では、ミス・ワルワーラ。三人を客室にお連れしてくれ」

 アゴバールがそう言うと、受付のデスクを挟んで三人とは反対側の奥の方から一人の若い女性が出てきた。

 おそらく二十代前半と思われる。ふっくらした体型で、表情は穏やかで柔和だ。大きく優しい目は、表情に柔和の色を添える。髪は麦の穂のようなブロンド。肌は白くつややかだが、手の甲と足の付け根に(あざ)のようなものがあるのが見える。

「三名様ですね。こちらへ。部屋までご案内します。荷物はお持ちしましょうか?」

「そのご厚意はありがたいですが自分で持ちます」

「そうですか。では」

 ミス・ワルワーラはそう言うとゆっくりした足取りで歩き出す。三人はその後をついていった。

 ぎしぎし音がなる階段を上り、殺風景な廊下を少し歩き、アルビヨンの言葉で「3」と書かれたドアでミス・ワルワーラは止まった。

「どうぞ」

 そう言い、ドアを開ける。

「ちょっと、別室でというのは…」

 雛が遠慮がちに言う。

「お客様。まことに申し訳ありませんが今の所満席となっております。ご不便をお許しください」

 たどたどしい口調だが、アゴバールと同様の慇懃な態度で述べた。

「そうですか」

「大丈夫ですよ。気になさらないで」

 ソフィがミス・ワルワーラに言い、ちらっと雛の方を見て一瞬顔を赤らめたがすぐに戻る。

「では、どうぞごゆっくり」

 ミス・ワルワーラが恭しくお辞儀をするとゆっくりした足取りで去って行った。

 雛とソフィは控えめな様子で部屋に入っていく。ミネルヴァはそんな二人に若干不満を覚えた。

 部屋内は窓から微かな光が差し込む。川のせせらぎのような清涼な雰囲気が漂う。部屋は掃除が行き届き、見る限りでは布団も清潔だ。テーブルの表面も埃は落ちておらず、床のカーペットにもごみはなく、()みもない。問題点は置かれている木の、家具やテーブル、椅子が少し欠けているぐらいだ。

「こんなに部屋は綺麗になのになぜ外観は古めかしいんだ?」

 雛はこのギャップに驚きを禁じえない。

 ソフィは黙ったまま雛を見ていた。

 二人はそれぞれ椅子に座り、黙然(もくねん)としていた。

 ミネルヴァはドアの鍵を閉め、窓のカーテンも引くと、雛の鞄から入手した書類を早速取り出し読み始めた。顔が機械的に動き、次々に書類を読み進めていく。

 雛は「とても疲れたから申し訳ないけど少し眠るね」と言い、少しして小さいいびきをかいて眠り始めた。

 ソフィはそんな雛の様子を見、カーテンの隙間から見える外の景色を覗いていた。

 外はもう夜になり、街のあちこちに点灯係が杖を使って火を順々に灯していく。明かりがまばらなため、夜空に燦然と輝く星たちがはっきり見える。美しく綺麗で鮮やかに星ごとに青白、白、淡黄、赤、黄など様々な色の光を放っていた。星の光は干渉しあい、まるでオーロラのような幻想的な光景を生み出す。地球では絶対目にかかれない光景だ。

 部屋に入ってから二時間ほどが経ち、雛は目を覚ます。大きくあくびをし、立ち上がって背筋を伸ばした。ソフィは背もたれを脇に挟んで顎に手を当て、依然、隙間から外を覗いてぼおっーとしていた。

「よく寝た。ところで順調?」

「全くだ」

 ミネルヴァは眉をひそめ、書類にかかりっきりである。

「どうかしたの?」

「ほとんどがたわいもない書類だ。例えば家族に宛てた手紙とか政府への金銭の申告書。あとは本の原稿とかそんな類でこれといってカードに関わりがないものばかりだ。何か企んでいることは間違いないのだが。使い方次第で惑星一つを滅ぼしかねないカードの力を美術品みたいに見て楽しむはずがない」

「相当物騒なこと言っていますが」

「だが、幾つか他のと性格が異なる資料を見つけた」

 そう言い、ミネルヴァは雛に投げてよこす。

「アルビヨンの言語がわからないのにどうやって読めというの?」

「見せてください」

 ソフィは雛から十枚の書類をもらい、一枚ずつ目を通していく。

「確かに言われてみればこれは少し変です。紙の目が他のに比べて荒いですね」

「その十枚だけは別だ」

「変ですね」

「文字の方じゃないのか。ところでミネルヴァ君、アルビヨンの言語読めるんだね」

「もちろんだ。哲学者のパートナーは全ての言語を読め、話すことができる。」

「何気にすごい事言ってますね」

 雛はミネルヴァが平然という事に若干呆れていた。

「ところでもう夜になりましたし食事でもとりません?個人的にはこうゆっくりしませんと気持ちの整理もこれからの整理もつかないので」

「遠慮なさらないで先行っててください。少し考え事があるので」

「僕は忙しい。この通りだ。構わず行け」

「そうですか。では」

 そう言い、雛は部屋を後にした。

 再び軋む階段をゆっくり降り、受付に出た。

 この広間は相変わらず物静かで、人がいても一切の物音を立てていない。

「あの、アゴバールさん?」

「どうかなさいましたか?」

 受付のデスクの、ちょうど真上の天井にアゴバールはぶら下がっていた。

「お腹が空いたのですがここでは食事などは出るのですか?」

「もちろん。こちらへ」

 そう案内され、階段の脇にある通路を通り地下に降りると小さく細長い部屋に通された。

 バーのようで、カウンターに沿って古風な木の椅子が並んでいる。棚には様々な種類、色、材質、形の瓶が並ぶ。ラベルの文字はアルビヨン以外のものも入っているように雛には見えた。英語に近い文字もあれば、象形文字のようなものもある。ルーン文字のように直線だけで形成された文字も見られた。

 客は誰もおらず、玄関の広間同様静寂がこの場を支配していた。

 アゴバールは雛を先導し、椅子に雛を迎えるとメニューを渡しながら

「ソフィとミスター・ミネルヴァは?」

「ソフィは先に行っててくれと。おそらく後で来ると思います。ミネルヴァ君は来るかどうか」

「そうですか」

 雛はメニューを開く。案の定読めないことがわかり、

「何かおすすめはありますか?」

「そうですね。川魚のフリッタータなどがおすすめです」

「ではそれを」

「かしこまりました」

 お辞儀をして、メニューを受け取ると奥の方へと羽ばたいて飛んで行った。

「それにしても壁がすごいな」

 背後の壁は岩盤がむき出しのままだ。雛は軽く手でそれに触れた。表面は隕石のように黒く堅く、穴が所々にあいていた。

「ブレスレットの情報では、えっーと。基本主成分は鉄だが数パーセントイリジウムが含まれていると。なるほど」

 ブレスレットは直接雛の意思に語りかけ、成分を教えてくれる。

 雛はバー内を見回す。玄関広間よりは暗く、先と同じ電球ではなく鉱石が部屋を照らしていた。

 十分ほどが経ち、ソフィが降りてきた。

「ソフィさんこちらにどうぞ」

 雛はカウンターから椅子を出し、ソフィは「ありがとう」と言い座った。

「ミネルヴァは?」

 ソフィは首を横に振った。おそらく書類の謎究明に血眼になっているに違いない。明かりもつけずに。地球にいるフクロウは夜行性ではあるが視力は悪く、移動の際周囲の状況を認識する感覚は基本聴覚である。ミネルヴァはどうなのだろうかと雛は心の中で考えていた。

 数分が過ぎるとアゴバールが奥から出てきた。手には二皿分の川魚のフリッタータを持っている。

 おぼつかない手取りでカウンターにゆっくり起き、フォークとナイフを二人にそれぞれ渡した。

「どうぞ。ソフィも来ると聞いていたので作っておきました」

 そう言い、再び奥の方へと行き、今度はグラスを二つ持ってきた。

「ちょっとお待ちください」

 棚から緑色のワインボトルの形の瓶を取るとコルクを開ける。

「ネオネクタールですね」

「ご名答、ソフィさん。これはネクタールの中でもとびきりの品です。ごく希少で、宝石のような色彩を誇る赤い実ネオを絞って熟成させた最上級のネクタールです」

 そう述べながらそれぞれのグラスに赤紫色の輝かしいネオネクタールを注いだ。

「いいんですか?」

 ソフィは遠慮がちに尋ねる。

「もちろん。ソフィがうちに来てくださったのですからこれくらいのもてなしはしませんと主として無礼というものです」

「アゴバールさん、ありがとう」

 ソフィはグラスに手をつけ、軽く揺すって香りを引き立たせ、少し口につけた。

「おいしい」

 ソフィは唇に微笑を浮かべ、目を細める。

「そうなんですか?」

 雛はソフィの真似をしてネオネクタールを飲む。

「確かに。赤ワインに近いですけどちょっと違います。これは香りがすごい。無花果(いちじく)のような甘さかな?」

「フリッタータの方もどうぞ」

 そう言われ、二人はナイフとフォークを手に取り、小さく切ると口に入れた。

「これはロドンの隣町の森に生息するクォークという鳥の卵です。川魚はアパライアという大型の魚です。味はとても淡白で、あっさりしたクォークの卵と相性がいいです。それに調味料で味付けをし、少し山菜を加えました。このフリッタータはネオネクタールの甘く柔らかな舌触りと爽やかな風味に合わせて私が考えました。お味はいかがですか?」

「とても美味しいです」

 二人とも舌鼓を打つ美味しさに頬を落とす。

「誠にありがとうございます」

 深くお辞儀をした。

「ところでネクタールってお店の名前ですよね。ネオネクタールにも同じ言葉が入っていますけど」

「ネクタールには『神の酒』という意味があるの。アゴバールさんは昔は一流のネクタール職人で働いていたのよ」

「もう年寄りです。おだてなくてもよろしいでしょう」

 雛は年寄りなのか年寄りでないのか見ただけではわからず、発言に少し疑問を持った。

「あんなに美味しいネクタールを作れる職人も数えられるぐらいしかいないわ」

「そうですか、ありがとうございます。昔は懸命に働きました。仕事に熱意を持って取り組めましたので。私はネクタールを愛していました。心から。特にネオネクタールを。あの赤い輝きは星でも叶わない最上の美しさ。他のいかなる赤をも退ける最高の美。光を全身に受けて育った真紅の丸い実は火よりも熱く燃え、花よりも凛としている。それを生涯かけて追求し続けたかった。この命が果てるまであの真の美しさを…」

 アゴバールはそこで口を閉ざし、目を沈めた。

「どうしたんですか?」

「いや、ミスター・尾野。心配しなくても私は大丈夫です。私もへクサ迫害を受けました。コウモリはデウス教の根拠のない噂によってへクサの手先とされました。おかげで同僚の人間から罵倒と嘲笑を受け、危うくネクタールの樽に入れられ溺死するところでした。それをソフィが助けてくれたのです。おかげでこうして生活していくことができます。何度感謝しても感謝し足りません。命の恩人なのですから」

「そんな、気にしないで。本当に」

「その後、資金を集めてロドン郊外のこの地に宿を営むことにしました。ここであれば人もあまりいませんしひっそり暮らす頃ができます。それにここの人は他の地域に比べてへクサ狩りは浸透していません。革命もあったことですしこれからどうなるかはわかりませんが迫害が終わることを祈りばかりです」

「そうですね」

 ソフィもアゴバールの発言に目をつむり頷く。

「迫害ですか」

 雛はネオネクタールを少し口にした。

「ではこれで私は失礼します。出る時に、奥の方にいるので声をかけてください。ごゆっくり」

 そう言い、奥の方へと去っていった。

 バーには二人だけ残った。

 静寂がその場を支配した。

 ソフィは二人になったことに少し胸がどきどきしていた。教会から逃げる時、不意に雛に抱き上げられたことを気にしていたのだ。初めての経験にソフィはときめいていた。

 胸の高鳴り。一瞬の出来事。春のそよ風が吹くような経験。

 ただ、一度気絶している時に抱き上げられていることは知っていた。だから二度目ではある。ソフィは雛の方をちらりと何度も見る。

 雛は黙して、残っているフリッタータを頬張り、ネオネクタールに口をつけている。

 雛はソフィの何度も向けられる視線に気づき、

「何かあったんですか?」

「いえ、何でも。本当に。大丈夫ですよ。もちろん」

「そうですか」

 ソフィは強い意志を持ってはいるが、胸がどきどきしたことを正直に言うこととものをはっきり言うことは全く違う。

 とても彼女に言う勇気はまだなかった。

 バーの中、二人の、時は静かに、刻々と流れていく。

 二人の時の果てに待つ、生死の分岐点に辿り着くまでは。


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