孤独
あれから一週間が経った。雛は何度か反革命軍鎮圧の任で出動したが特にカードに関する事件は起きず、ほとんど待機場で座って過ごす日々だった。カリタス隊隊長は極秘にカードを探しているようだった。雛は何度か後をつけるとあの地下室に出入りしていたし、教会からの逃走ルートを念入りに調べていた。途中まで突き止めていたため冷や汗をかいたが心配するほどではなかった。
ミネルヴァとはあれから顔を会わせていなかった。ミネルヴァではなく自分が声を出せば他兵に怪しまれると思っていたがこれと言って何も起きなかった。誰も気にしていないようだった。ただ待機場で世情について長々と哲学的な議論を交わしているだけだ。雛はその反応に動揺を隠せなかったが気にしないことにした。
別の日に雛は他の部隊を覗きに行ってみたがみなむっつりした表情を浮かべ、黙って出動を待っていた。
朝、雀のような小さい鳥たちが一日の始まりを甲高い歌で教えてくれる。雛は階段を降りるとアゴバールとミス・ワルワーラが受付で事務仕事をしていた。
「ミスター・尾野、おはようございます」
「おはよう、アゴバールさん、ワルワーラさん」
「今日は休日ですけどこんなに朝早くどうなされたんですか?」
「少し朝の空気を吸いに散歩に行こうと思いまして。ところでジョイアを二つほどいただけませんか?外で食べたいなと思いまして」
ジョイヤというのはマフィンに似た焼き菓子のことである。雛はソフィにそのことを教えてもらった。
「かしこまりました」
ミス・ワルワーラが答える。彼女が持ってきたジョイアを受け取り、宿を後にした。相変わらず殺風景な街を黙然と歩き進める。
そして以前デスデに行く最中に通った廃墟の街に来た。以前と様子は変わらなかった。大理石の純潔な建物を知っていた雛にとってこの街は別世界のように思われた。空気も淀んでいた。重々しく、幽霊屋敷のような陰鬱な空気がここにも漂っていた。
十分ほど歩き一人の女の子を見つけた。食べ物が欲しくて雛を引っ張っていたあの女の子だった。瓦礫の山の前に下を向いて座っていた。笑えば子供らしさがあるのだろう。だが彼女からは子供らしさが感じられなかった。すでに身も心も貧しさに脅かされ社会という泥沼に放り出され汚れきっているように見えた。
雛は彼女に駆け寄り隣に座った。女の子は気づいて顔を上げ、雛を睨め付けるように見たがすぐに背けた。
雛は鞄から今朝貰ったケーキを出し、女の子に見せた。女の子はそれを見て再び雛の顔を見る。黙ったままケーキを受け取るとむしゃむしゃと食べ始めた。雛の視線を気にすることなく二つを一瞬で平らげた。女の子の口にケーキの食べ滓がついていた。雛は鞄に入っていたティッシュを取り出してそれを拭った。そして水を渡すと勢いよく飲んだ。「はぁー」と声を出した。
「美味しかった?知り合いからもらってきたんだけど」
雛がそう尋ねると女の子はこくりと頷いた。
「よかったよ。ところで君名前は?」
すぐに返事がなかったがしばらくして答えた。
「サチス」
無愛想な表情を浮かべる。
「サチスちゃんか。私は尾野雛だ」
そう言い、握手を求めたが見事に拒否された。
「私は大学で数学を教えていたんだ。だけど事件に巻き込まれてね。そのせいで今は革命軍にいる」
聞く耳がなさそうだった。
「人生を楽しいと思ったことがある?私にはほとんどない。小さい頃、親は顔を会わせるたびに喧嘩していてね。いい環境だったとは言えなかった。だからと言って学校に友達がいるかといえばそういうわけではない。孤独だったよ。ただ毎日ずっとぼぅーとしていた。たまに本を読んだりして毎日を過ごした。
孤独というのは辛いものだ。人と会話を交わすことがなく親友だけが友達になってしまう。『夢想くん、今日は何を考えようか?』とね。そうすると『じゃあ今日は生きがいについて考えよう』と言う。言われたからには一緒に考えないと親友に失礼だと思って一生懸命考える。生きがいとは人間が生きていく上で一番必要なものだ。でも水とか食料とかは生きがいとは言わないだろ。まぁ食べることが生きがいと言う人はいるだろうけど。自分にとって生きがいとは何かを考えた。でも何も思い浮かばなかったんだよ。すると
『君はなぜ生きているんだ?』と言ってくる。
『なぜ?そう言われても生きているんだから仕方ないだろ』
『でもさ、自殺をしてもいいんだよ』
『急になんでそんな話になるんだ?』
『そうじゃないか。生きがいがないということは人生の中で大切なものがないんだろ?だったらどうして生きているんだよ』。
案外恐ろしいことを夢想くんは言ってくるものだよ。それで色々生きがいがない人生というものについて考えてみた。私と夢想くんだけではそれがどういうものなのかよくわからなかった。だから人に話してみた。だけど頭の中の友達とのやり取りを言ってみたところで『いかれた人間』で終わった。親に言ったら精神病棟に連れて行かれたよ。何だか悲しくならないか?仲良くなった人に今みたいな事を言うと間違いなく敬遠された。『私は孤独から解放されたい。だから話を聞いて』という思いは誰にも届かないというわけだよ。卑しくて醜い奴なのだろうね。でもそうは思いたくなかった。サチスちゃんもそう思わないか?誰も自分を卑下したくはない。だから社会に敵意を向けたくなるものなのだ。真の孤独とはこの事を指すんだよ」
雛はどうせ聞いてくれていないだろうと思っていたが女の子は雛の目を見て真剣に聞いていたのだ。それを見て話し続けることにした。
「生きがいを持っている人の方が少ないじゃないか?ふとそう思った。だって生は黙っていても存在する。まぁ親が欲しいと思ったからいることは事実だ。とある人が言っていたことなんだけどね。人の場合、存在の方が目的よりも先行するらしい。変な話だと思わないか。しかし生を授かった私にとってみれば確かに存在が先行している。別に自分は生まれてきたくて生まれたわけではない。親のエゴで生まれたわけだ。親は生むだけで私をほったらかしにした。話を聞いて欲しかったが無意味だった。せめて自分が思っていることを誰かに伝える術があればと思った。自分にとって誰か話を聞いてくれる人がいるということが生きがいだと感じるようになっていたんだ。でもその生きがいが私は持っていない。持ちたくても持てない。生きることが辛くなったよ」
そう言い、雛は口を閉ざした。
「ごめんよ。こんな話をして」
「そんなことないわ」
女の子はそう言った。
「社会を生きていて悲しいものよ。私だって同じ」
胸に手を当てて答える。
「食べ物もありつけない毎日。昨日はごみを漁った。なけなしの食べ物しかないけどないよりはまし。この状況は革命前も後も変わらない。三年前からやっていること。私のような子は生きていても娼婦にされるだけだから死んだ方がいいって言われたこともある。だけど私はせっかくこの命があるんだから生きたいと思ってる。自殺なんてまっぴらよ」
「どこからその意志が湧いてくるんだ?」
「社会は悲しい。お金も住む家もないと路上で生活しなくてはいけない。革命で一部の人は生活が楽になったけど一部の人は生活が苦になった。今でも革命による争いは続いている。そして無駄に血を流す。大きな変化が何もかも変えるわけじゃない。でもそんな時の流れでも私の人生は止められない。単純よ。生きるとは誰かによって左右されることじゃないもの。自分の意志が決めることよ。だから私は生きる。それを選択した理由などない。何が起きようと私の中で決まっていることよ」
「強いね、君は。でも彼女はそうじゃなかった」
「彼女?」
「いや、過去の話だよ」
雛は笑ってごまかした。
「その人は私の話を真剣に聞いてくれた最初の人だった。お互いに色々な事を話した。あの時が唯一生きがいを持つことができた時だった。夢がかなった気がした。ようやく生きていることを素直に受け止められた気がした。親のエゴで生まれてきたわけではないと思うことができた」
「好きだったの?」
「そう言われると照れるな」
「好きだったんでしょ」
女の子はにやにやしながら面白そうに言う。
「そうだよ。好きだったよ。でも思いは伝えなかった」
「なんでよ。好きなら好きって言いなさいよ。意気地なし?」
女の子は満悦の様子でどんどん話に乗ってきた。
「意気地なしというのは否定しないよ。元々そういうところはあると自覚しているつもりだからね。でも自分としては親友でいたかったんだよ。自分は決して彼女に恋愛を求めたわけじゃなくて私の話を聞いてくれ、相手も自分の話を話してくれることを求めていたから」
「その気持ちわかるな」
「うれしいよ。ありがとう」
雛は言い、立ち上がって鞄を手に持った。
「そろそろ失礼するよ。もし何かあったら『ネクタール』という宿に泊まっているからいつでも来て。サチスちゃんと話せて嬉しかったよ。じゃあね」
雛はゆっくりと歩き去っていく。
サチスは大声で呼び止めた。
「ヒイナ、ありがとう」
先ほどの陰険な様子からは想像もできない明るい声でそう言った。
雛は微笑んでそれに答えた。手を振り、その場を後にした。路地に入ろうとしたその時、突然背後から襟首を掴まれて投げ飛ばされ、瓦礫の小さい破片が落ちている地面に叩きつけられた。
雛は咄嗟に顔を上げた。リンチしていた男共だった。
「よお、また会ったな。お前をつけていたんだぜ」
「この前の借りを返してもらう」
そう言うと、一人が大型の剣を取り出し、地面に突き立てるように両手で強く握った。そしてそのまま振り下ろす。雛は横に転がってかわし、すぐに起き上がる。
「そんなに人を物思いに暴行するのが好きか?」
「そりゃ、売られた喧嘩は必ず買うものだ」
「女の人を集団で殴っているのを見て止めない人がいますかね」
「あいつは悪魔なんだ。殴られて当然」
男たちは間を空けずに襲ってきた。雛は避けて逃げようとするが相手の方が走るのが早く、すぐに捕まり再び投げ飛ばされる。
倒れた体に何度も男たちは容赦ない蹴りを浴びせる。
「くそ、元素召喚が…」
その暇がなかった。腕を取り押さえられ身動きが完全に取れなくなった。足掻き、もがくが振りはなすことができなかい。
再び、剣を振り下ろす構えをとる。鈍い剣が突き刺さるその時、
「化合召喚
コバルト
サマリウム」
剣が宙に浮き、吸い寄せられて、一人の手に握られた。
「誰だ?」
男の一人が言う。
「僕らだよ」
「希の哲学者か」
雛の目に映ったのは、黒いケープに身を纏ったネイルと、プルートーだった。
新しく登場した元素
コバルト
原子番号27
元素記号 Co
発見者 イェオリ・ブラント
由来 ドイツ民話に登場する「山の精」
もしくはギリシャ語の「鉱山」
性質 生命の必須元素の一つ。ビタミンB12を構成する中心元素。
サマリウム
原子番号62
元素記号 Sm
発見者 ポール・ボアボードラン
由来 ロシア、ウラル地方産出の鉱石、「サマルスキー石」
性質 コバルトと混ぜた合金が永久磁石に用いられる。