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失われた未来の再建  作者: 水素
1/18

一枚のカードから始まる

 人はただ漠然と過ぎていく時の中でふと何のために生かされ、そして自分は今本当に生きているのかを思う。

 生を授かった時から何も考えず、前を見続け走ってきた。

 だが、後に何がいて、何が起きているのかを知る者はいない。

 もし振り返れば生きる意味を見失うことを知っているから。

 振り返った私は失った。

 生きる意味とは?

 見つからないとわかっていて探し続ける。

 失った自覚なんて持ちたくなかったから。

 そして一つの井戸を見つける。

 井戸の底に手を伸ばす。でも真理は井戸の底より深い。

 決して目を反らしたくないから。

 考えて考え抜いて、たとえ悩み、傷つき、心を抉られる精神の痛みを味わったとしても。

 その存在を肯定し、悪魔をねじ伏せて手を伸ばす。

 価値観という猟犬に噛まれ、

 権力という巨人に殴られ、

 金という津波が流れてこようとも、

 この命がある限り、届く限り、意味などそこになくても

 あると信じたいから

 手を伸ばし続ける。

 涙を流しながら。


1


「万物は一体何が元になっているのか?人にしたって鳥にしたってはたまた石にしたって全てに共通する要素があるのではないか。人々は何千年にもわたってそれを探求し続けた。ミレトスのタレスは水と唱え、エフェソスのヘラクレイトスは火と唱え、ピタゴラス学派は数と唱えた。デモクリトスは物質をバラバラにしていったときにあるところで分割ができなくなる最小単位がありそれをアトム、つまり原子と名付けた。この考えはのちの科学の発展の中心となっていきます。今では原子にはたくさんの種類があることがわかり、それを人々は元素と名付けたのです」

 無表情で、毅然とした態度の一人の男は一切周囲を気にすることなく、講義を進めている。聞いている生徒たちの大半は寝ており、3人ほどは隅で雑談をし、聞いているものはごくわずかであった。

 「しかし、原子も最小単位ではなかった。それはさらに素粒子という最小単位がありました。しかしこうした現代の科学の考え方のおおもとが古代ギリシャでもう生まれていたのは驚きです。それではまとめに入りたいと思います」 

 その言葉を発した途端、聞いていなかった学生の形相が変わり、突然皆机に向かい板書を書き写していった。

 彼は講義を終え、教室を後にした。

 木々が鬱蒼と茂る中、一本の小道が大学のキャンパスへと続いている。

 都会ではあるもののここでは昆虫の鳴き声や鳥のさえずりが響き渡り、大学全体を包み込む。

 学生たちが行き交う中、彼は研究棟へ向かうため歩幅を広げ、速く歩く。

 構内の「研究棟A」と書かれた建物に彼は入って行った。

 改修されて外装は以前より白色が明るくなっているが壁に若干赤錆が付着していた。

 階段を上って2階の廊下を進み、研究室に入っていく。壁一面を埋め尽くす本棚には、茶色く黴が生えた臭い匂いのする古本から最近刊行された白い歯のように輝く本まで様々な数学書が並んでいる。机の上は、クリップで止められた分厚い書類が何層にも積み重なる。プラスチック製の、表面が凸凹した安物の机と椅子の足はチョークの粉で汚れ、床の絨毯にはこぼしたコーヒーの染みの跡がある。また、壁脇では水漏れが起きており、絨毯を裏返せば黒い斑点がコンクリートの、はだけた床を埋め尽くす。肩にかけていた鞄から本を一冊書類の山に置く椅子に腰かけ、目をつむり、腕を組んだ。

 眉をひそめたかと思うと突然立ち上がり、窓の向かいの黒板に、チョークを手に取ると数式を書き始めた。手は一瞬でチョークの粉にまみれ、一瞬手を止め考えても間髪入れずに手を休めず動かし続ける。その中、廊下から靴音が聞こえ研究室のドアが開いた。

(ひいな)くん、研究の方はうまくいっているか?」

 返事をすることなく、黒板を裏側にして手を走らせる。

「スイッチが入ってるようだな。仕方ない、少し待つか」

 腰を下ろすと書類の山の本に目をつけ、それを手に取ると読み始めた。

 時間が経ち、雛が手を止めて休むために振り返り、ようやく人がいることに気づいた。

「川越さん、いつからそこにいたんですか?」

「ちょっと2時間ほど前からだよ」

川越は本から目を離すことなく言った。

「申し訳ありません、つい夢中になってしまいまして」

「だが、それが君の長所でもある」

「光栄です。ところでコーヒーでも飲みに行きません?私がおごりますよ」

「ありがとう、そうしよう」

川越は読んでいた本を山の上に戻した。

「それで今はどんな研究をやっているのかね」

 二人は大学構内のカフェテリアに来ていた。

「パリティーの対称性の理論ですよ」

「君みたいに素粒子の理論にも多少手を出せるなんて羨ましいことはないよ。」

「ちょっとアメリカにいる友人に計算を頼まれまして。対象性の理論は私の専門が応用できる分野でもあります。それに私自身とても興味のある分野でもあります」

「確かにな」

 川越は2回ほど頷き、コーヒーを飲む。

「ところで定年後の生活はどうですか?」

「名誉教授の肩書きはもらってるがあまり研究できそうにないな。なんといってもこの大学には君がいる。君以上に優秀な教え子も、学者も、そういたものではない。ただ、君のことの方が心配だ。君の噂は校内でよく聞くがほとんどいいものではない」

「あまり気にはしていませんが」

 雛は口端を引きつる。

「そう言うだろうと思った。数学者はある意味気楽だ。数学は他の学問と違って一人でもできる。周りがなんと言おうと、自身の理論が無矛盾であれば一貫した至高の美を貫き通すことができる。」

「そうですね」

 雛はコーヒーの上がる湯気を見ていた。湯気はある程度上がると目に見えなくなる。

 店内を見回す。照明は赤っぽく、カウンターは木製、テーブルは10台ほど置かれ、照明の明かりに反射するほど表面は清潔さを保っている。人はまばらにいて、話し声がとても響く。二人の間で沈黙が続き、ある程度の時間が経って川越が口を開いた。

「君も三十過ぎたが相手を見つけることを考えたほうがいいぞ」

「何ですか急に」

「そうだろ?君は仕事ばかりでほとんど気を抜こうとしない」

「仕事というより私にとっては趣味です。もういいじゃないですか。そんなことどうだっていいですよ」

「独り身でいいことはほとんどない。私も家内と結婚して30年近くになるが、喧嘩が結婚した時から絶えない。でも喧嘩できる相手がいるだけでも私は幸せだよ。年寄りになるとそう思う。一人じゃないと思えるからさ」

「そうでしょうね」

「だったらだよ」

「私にはもう縁もゆかりもないことです」

 そう言い、立ち上がると

「精算は先にしておきます。もう少し理論を考えたいので研究室に戻ります。

 では」

「そうかい」

 雛は会計を済ませ、カフェを後にした。

 大学の暗い夜道を雛は一人で歩く。

 周囲に遮る光がないため、夜空を彩る星たちは燦然と輝いていた。

 一段と寒さが厳しくなりコートのポケットに手を入れる。

 道には所々に街灯が立っているが、柱は鳥の糞で汚れ、電球は明滅を繰り返しており、今にも切れそうな古いものばかりである。

 風が吹き、温もりという名の初夏の新緑の葉を食い荒らす幼虫のような冷たい空気が顔に当たる。

 枯葉を踏む音が構内のこの静寂の中響く。

「これ以上何かをしようとは思わない。ただ漠然と数学という仕事兼趣味に取り組み、一生を過ごせればいいさ。これ以上現実について何も考えたくない」

 立ち止まり、下を向いて深いため息をつく。

「結局のところこの感情は誰にも届かないかな」

 雛は夜空を見上げた。彼の目がとても悲しく見えた。

 ふと、街灯の足元で何かが光るのが見えた。

「何だ?」

 それを拾い上げた。

「カード?」

 ふと、不思議な温かみを感じる。

「いったい今の感覚は?」

 それを去ることながら表面には青い雲のようなものが描かれ、その下の方には見たこともない文字が書かれていた。裏面には文字は書かれていないが大きな正五角形が描かれ、それぞれの頂点に5つの正多面体が描かれている。

 魔法陣のようにも見えた。

「英語なわけがないし、ヘブライ語とか、アラビア語とか、いやチェコ語でもないな。なんて書いてあるんだ?全くわからない」

 何のカードかを考えてみる。トランプでもなければタロットカードでもない。花札やかるたなわけがない。あれこれ考えてみたが一向に何なのか分からない。

「落し物かごにでも入れておくか」

 ポケットに入れ、歩こうとしたその時、突然眩い光に包まれる。

「何だ、この光は?」

 カードから発せられる青白い光はさらに強まり、雛はその光に飲み込まれて意識を失った。


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