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存在についての考察

作者: 上山悟

存在についての考察

ー本当にテーブルの上にコップはあるのかー


(章立て)

1主体存在と客体存在の区別

2客体存在の確実性の証明可能性

3主体存在の確実性の証明可能性

4結び



1主体存在と客体存在の区別

「ある」とは何であろうか?英語で言えば、《be》である。

A cup is on the table.

I am in my house.

前者は「コップがテーブルの上に《ある》」

後者は「わたしは家に《いる》」

このように、英語の《be》は、日本語では《ある》と《いる》という単語に分岐される。

ここで、私は《ある》と表わされる存在を《客体存在》、《いる》のそれを《主体存在》と概念化したい。



2客体存在の確実性の証明可能性

例えば、このようには考えられないであろうか?

《私》(=《主体存在》あるいは《認識主体》とよんでもよい)が、その事実を見ている。さらに、テーブルの上のコップを触ってみる。

あるいは、コップを持ち上げて、テーブルの上に、たたき置く。音がする。《私》はその音を耳で聞く。

このように、《主体存在》の《認識》あるいは知覚を通して《客体存在》の確実性は保証されるのではあるまいか?

ましてや、別の第三者が同じような行為をし、同じような《認識》を得る。

同じように《認識》する。

《主体存在》の数が増えれば増えるほど、《客体存在》の確実性は担保されていくのである。つまり、《客体存在》の確実性は、《主体存在》の《認識》を通して、証明可能である。

しかし、ここでも問題が残る。

ある思考実験を行うとしよう。

人間(=《主体存在》)だけを死滅させるような新兵器が開発され、使用されたと仮定する。そして、地球上の全ての人間が死滅したと仮定する。

残るのは、ただ、ビル、家、電信柱などの無機物だけになった。テーブルの上のコップも含めて。

「テーブルの上にコップがある」

その事象だけが残っている。《主体存在》なくして。

《客体存在》の確実性が《主体存在》の《認識》に依拠すると考えても、なお、「テーブルの上にコップが《ある》」とは言えるのか?

人間が絶滅した世界でテーブルの上のコップだけが未来永劫、《ある》続けるのである。



3主体存在の確実性の証明可能性

ここまで、《客体存在》の確実性は《主体存在》の《認識》を導入することによって、証明可能性の余地があると考えた。しかし、《主体存在》の確実性、すなわち、《いる》ことが証明できなければ、《客体存在》の証明可能性は不可能となる。

そこで、《主体存在》を証明することが問題となる。

《主体存在》の確実性は、いかにして証明できるか?

こんな話がある。

ある囚人が終身刑を宣告され、独房に閉じ込められた。彼は常に、冷たい壁と石製の床だけの空間に居続け、発狂寸前であった。

ところが、ある日、壁のすき間から、ネズミが現われた。彼は日々、支給されるパンを分かち合いながらネズミと対話した。

そして、こうしながら、彼は精神錯乱を来たすことなく、独房の中で生涯を終えたのである。

この話から、次のように考えられる。

自らの《存在不安》は《他者》の存在によって、治癒されると。

ここで言う《存在不安》とは、自己がこの世界に《いる》のか、あるいは、いないのか、不明瞭になる精神的危機的状況である。

つまり、自らの存在(=《主体存在》)は、《他者》(=さらに別の《主体存在》)によって、その確実性は担保されるのではあるまいか。

わたし達は日常生活において、《他者》の中で生きている、《他者》と対話している。

この事実は気付きにくいことではあるが、別の《主体存在》によって、自己の《主体存在》、つまり、《私》がこの世界に《いる》ことを知覚しているのである。

概すれば、ある《主体存在》の確実性は、さらなる別の《主体存在》の《認識》によって証明し得る可能性がある。



4結び

以上述べたことを図式化すれば、次のようになる。

《客体存在》の確実性→《主体存在》の《認識》に依拠→《主体存在》の確実性→別の《主体存在》の《認識》に依拠。

しかし、こう結論づけたからといっても、事はそう簡単ではない。

少なくとも、問題は二つある。

第一、《主体存在》の《認識》をそれほどまでに信頼してよいものか。

人間の《認識》には、ちょっと考えてみただけでも、見間違い、聞き違い、果ては、幻覚、幻聴......。

人間の《認識》ほど当てにならぬものはないのである。

したがって、《客体存在》の確実性を《主体存在》の《認識》によって根拠づけようとするのは、はなはだ危険なのである。

いわゆる認識論の考察が必要になってくる。

第ニ、ある《主体存在》の確実性を別の《主体存在》によって、根拠づけようとしても、さらに別の《主体存在》の確実性は何によって担保されるのか。

さらなる別の《主体存在》の《認識》によってか?

要は堂々めぐりなのである。

ここにおいて、わたしの思考は停止し沈黙せざるを得ない。

わたしは、テーブルの上に置かれたコップを前にして、ため息を吐きながら、腕組みをして、空を見上げるしかないのである。

以上



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