最も楽しみにされたであろう海水浴
「犬と猿と雉の必要性とは」
宮浦弥生
私が先生を恨んでしまったのは、私が学生になってから誰も、私を必要としてくれなかったからだとわかった。
私の恩師、菅原先生は、誰からの評判も良い先生だった。菅原先生は私のこともほとんどわかっていて、私の性格などに合わせて、最適な役割を与えてくれた。その役割ができそうにないと私が感じた時、菅原先生は私の手を握って、「大丈夫、君だから大丈夫なんだ」と笑ってくれた。根拠はないのに、そう言われるとそんな気がした。
私が通うことになった学校は、私には素晴らしすぎる所だった。先生も生徒も、みんなそれぞれが夢や目的を持ち、それぞれがそれぞれで楽しめていた。私は慣れない生活に疲れていたのだと思う。だから私は、私を、必要とされていることに慣れさせてしまった菅原先生うぉっ! あっ! ちょっと! 今良いところでしたのに!
ヒグラシたちが鳴き叫び始めた。夕立が止んだからだ。
さらに耳を澄ますと、風鈴も鳴り続けているのがわかる。風が吹き続けているようだ。その風鈴はというと、「無人」の小さな神社に吊るされている。みかん色の水たまりが波打つ境内に、2つの人の形をした物がいる。
1つは、スーツを着、笠を被り、ペストマスクのようなものをつけている。本殿の屋根の上で、さっきまでノートに書かれた作文のようなものを読んでいた方である。名は笠地蔵。元かかしで、今は式神をしている。
「あの終わり方だと菅原先生殺っちゃったみたいですよ」
笠地蔵はノートを取り返そうと、屋根の上で座ったまま手を伸ばす。すると、さっき笠地蔵からノートを取り上げた方が、笠地蔵の手がギリギリ届かないあたりでノートを上下させる。学ランを着、魔女が被っているような大きな黒い帽子を被っているその少年は、楽しそうに口を開く。
「人間のだ、丁寧に扱えよ? あと菅原先生はご健在だ」
「ですよねぇ」
彼の名は大路。元神で、笠地蔵ら3体の式神を使役している。
「ところでここで何をやっておる? 今日は演奏する予定はなかったであろう」
大路は見た目に似合わない年老いた口調で、なおかつ口調に似合わない無邪気な目で聞く。ちなみに、この神社は大路らがいつも演奏する時に使っている所だ。
「かかしの頃の知り合いから演奏の依頼がありましてねぇ」
笠地蔵の芝居じみた口調はいつも通りである。気づけば風は止み、風鈴の音も止み、疲れたのかヒグラシの声も丁度よくなっていた。
「余は聞いてないぞ」
「あいえ、今日のは私のソロですよ。明日の海水浴のためにも、皆さんは早くお休みになられたほうが」
「そ、そうだな」
大路はゆっくりと屋根の上で座った。その時、神社の床下から白猫が飛び出した。今夜演奏があることを聞きつけ、さっきまでは笠地蔵の朗読を聞いていたのだが、途中止めになったため床下で涼んでいたようだ。白猫が見上げる夕空から、3匹の烏が舞い降りてきた。
「来ましたね」
「また烏か!」
3匹の烏は、ヒグラシの1番少ない木に留まった。
「元かかしですので、烏の知り合いは多いんですよねぇ」
「元かかしが害鳥と仲良くてどうする」
白猫が烏達に鳴く。すると烏達は、神社の床下へと急降下して行く。
「お、気が利きますね」
「何かあったかの」
「昨日の演奏の後床下に置いといたんですよ、今日もあったのでまた持ってくるのも面倒でしたしねぇ」
烏達は、赤い垂れ幕のようなものを掴んで床下から出てきた。烏達はその垂れ幕の紐を、鳴り止んでいた風鈴の短冊の紐に器用に結びつけた。風鈴は赤い垂れ幕をつけられ、アドバルーンぽくなった。
沈みかける夕日に照らされたその赤い垂れ幕には、黒い墨でかっこよく「ゆる奏屋」と書かれていた。
「ここにいたの。とても探した」
とても探したようには全く聞こえない、そっけない声が聞こえた。
「おや」
笠地蔵が屋根の下を見下ろすと、本殿の前に首から下が包帯で包まれ、白いエプロンをつけた人影が見えた。
「御子か。何か用か?」
大路が聞くと、御子と呼ばれたミイラメイドはそっけなく答える。
「手伝ってほしい、芝刈りと洗濯、どっちがいい?」
「洗濯を選べば桃がもらえるんですかねぇ」
「川で一生待っておれ」
御子の足元で白猫が鳴いた。すると御子はしゃがみ、顔色ひとつ変えずに白猫の真っ白な頭を撫でた。猫の方はというと気持ちよさそうにしている。
「なら余が芝刈りをしよう」
大路はそう言うと、屋根から降りてすぐに本殿の縁側に座る。
「大路は手伝わなくていい、風邪ひいてるから」
「え!」
御子の一言に2人とも驚く。
「か、風邪などひいておらんぞ!」
「嘘、みんな気づいてる」
「か、笠地蔵もか?」
「え、えぇもっちろんちゃっかりと!」
元神が風邪をひくのかという話だが、この小説に出てくる人型の登場人物は基本的に人間と同じ性質を持っている。違う部分は追々説明するとする。
「明日の海水浴もやめた方がいい」
「そうなるのが嫌だから黙っておったのだ。弥生にも約束してしまったし、稲荷卿と武蔵坊も楽しみにしてくれておるのに」
弥生はさっきの作文を書いた人間、稲荷卿と武蔵坊は笠地蔵と同じく大路の式神である。容姿などについては追々説明するとする。
「しかしばれてしまっては仕方ない。余は欠席するが、中止するわけにはいかぬ、皆待ちわびておったであろうからな」
いつのまにか、日は沈みきっていた。
「しかし我々だけで楽しむわけにもいきませんしねぇ」
「延期した方がいい」
「延期は気の毒だ。皆楽しみにしてくれておったからな」
「でも」
「気持ちは嬉しいのだがな、気持ちだけもらっておくとしよう」
日は沈みきったものの、空には月も星もあり、屋根の下以外は明るかった。
「あのですね」
笠地蔵は屋根から降り、大路の方を向いた。
「海水浴なんか楽しみにしてないんですよねぇ。我々は元気なあなたとの海水浴が楽しみなわけで」
笠地蔵の芝居口調の後、御子もそっけなく言う。
「延期した方がいい、その方が楽しいから」
「そこまで言ってくれるか」
大路は立ち上がり、夜空の下の2人の前まで行くとさっきのノートを差し出す。
「弥生に返しておいてくれ。余はしっかり休むとしよう、延期日までな」
御子がノートを受け取る。
「1週間後の明日?」
「そういえば弥生も土曜日が良いと言ってましたしねぇ」
「よし、それまでには完治してみせよう」
大路の発言の直後、なぜかヒグラシ達が歓声を上げた。
「ヒグラシ達も喜んでる」
「これは早く演奏しろと言っておるのではないか?」
「そういえばそうでしたね」
ヒグラシ、烏、猫に蛍、狸に蛙に河童、兎と亀。数人人間もいる。いつの間にか境内は、笠地蔵のソロライブの観客であふれていた。
「そろそろ始めましょうかねぇ」
笠地蔵がそう言うと、蛙は鳴き、人間は拍手をした。
「弥生に延期の伝達してくる」
「では、余は戻って休むとしよう」
「あ、芝刈りと洗濯はお願いしますよ」
「え?余?」
「桃買ってきてあげる」
「まじで余?」
「冗談ですよ」
笠地蔵はパイプ椅子と赤いアコーディオンを持ってきて座った。
「だが桃は買ってきてくれ!」
「ですよねぇ」
河童は手を叩き、烏は羽を羽ばたかせた。するとその時、烏が留まっている木の後ろから、赤いランドセルを右肩に背負い、赤いウエストポーチを左腰につけた1人の小学生が現れた。
「話は聞かせてもらいました。桃を買うなら、今は駅前のスーパーが1番安いです」
制服姿の小学生は、3人に淡々と話す。
「おったのか!ち、ちなみにどこから聞いておった?」
「『沈みかける夕日に照らされたその赤い垂れ幕には、黒い墨でかっこよく「ゆる奏屋」と書かれていた。』の所からです」
「読者目線!」
御子は気にせず近づき、ノートを差し出す。
「これ、弥生の」
弥生は驚く。
「み、見てませんよね!」
「私は見てない」
「もし勝手に見たら、プライバシーの侵害ですから!」
「そろそろ始めましょうかねぇ」
幻想的な元気な月光、明るい境内を、明るいアコーディオンの音色が彩る。
これは、天才小学1年生宮浦弥生の、夏休みの時のことである。