恋の結末
「いいでしょう。あなたたちにはすべて話しましょう。私にはその義務があります」
怨神はそう言って私とショウイチを交互に見た。
ショウイチは完全に傷が癒えたようだ。ごく自然に私の隣に立っている。目が覚めた直後は、ミノルや怨神がそばにいることに大慌てしていたが。
「怨神様。構いませんよ。私が代わりに話します」
そう言ったのはミノルだった。大樹に寄りかかって腕を組んでいる。
「ですがミノル……」
「怨神様にとって話しづらいこともあるかと。ただでさえ疲弊しきっているその御身、どうかごゆるりとお休ませください」
言うなり、ミノルは寄りかかっていた背を向け戻すと、怨神と話を交代した。
「これくらいのことはすでに知っているだろうが……怨神様の使命は『人の欲を自身に吸収する』こと。怨神様がいらっしゃるからこそ、人間は今日まで繁栄してこられた」
私は頷いた。幼少期よりうんざりするほど聞かされた話だ。
いわく。
人間は繁栄しすぎた。物質的な隆盛は、ますます人々の欲望を強くさせる。以前は子孫の継承のみを欲してきた人類は、次第に権力や金、復讐、嫉妬……さまざまな負の欲を抱くようになった。神の力が、とうとう及ばなくなってしまうほどに。
「それでも怨神様は耐え続けた。人の欲をひたすら御身に吸収していたが……つい最近になって、それが崩れてしまった」
「く、崩れた……?」
「負の欲望はついに怨神様の人格を支配した。これまで守り神として世界を保護してきた怨神様は、欲望にまみれた破壊神となってしまった」
イタイ、クルシイ、ウゴケナイ……
なぜわらわはこんなに苦しまねばならない?
ツライ、アツイ、サムイ、サミシイ……
ニンゲンナンテ、ホロビテシマエ……
「そうして理性をなくした私は、次々と村を襲いました」
神は天に救いを求めるかのごとく、祈るように目を閉じた。
「理性はなくしても知性は残っていました。畑のある村だけをひたすら襲い続け……そして、あなたたちの故郷に行き着いたわけです。――チヨコさん」
「は、はい」
ふいに名前を呼ばれ、怨念の敵へ向けて間抜けな返事をしてしまう。
「私はあなたの恋心をただ弄ぶためだけにミノルを連れ去り、洗脳しました。そう、初めはただの悪戯心でした。なのに……」
「いいんですよ、怨神様……」
言うなり、ミノルはぽんと優しく怨神の頭に手を置いた。
外見的には私とほとんど変わらない年齢に見える怨神は、恥ずかしそうにうつむいた。
「お、おいおい……」
隣のショウイチが目を見開く。
私も動揺を禁じえなかった。
二人のこの雰囲気。まさか……
「ミノルの無垢で強い心に接するうち、私を支配する悪魔は徐々に消えていきました。人間がいなくなったこともあり……いまでは私は正常でいられます」
「洗脳されてようがいまいが関係ありませんよ。私の気持ちは消えません。――ですから、洗脳を解こうなんてしないでください」
なんて笑い話だろう。凶悪な敵を倒すために旅に出た。しかし肝心のミノルはその敵と恋仲になっている。
ミノルの無垢で強い心。私もたしかに彼のそこに惹かれた。同じ女として気持ちはわからないでもないが、まさか怨神の欲望の呪縛すらミノルは解き放ったというのか。
「よしましょう、ミノル。こんなことを話すために彼女たちを案内したわけではないでしょう」
「……そうですね。失礼しました」
そう言って怨神から離れるミノル。
彼の慈愛に満ちた表情が、ズシリと私の胸に突き刺さる。かつては私だけに向けられたその表情が、狂おしく私の心を高鳴らす。
「チヨコさんには謝らないといけません。私のせいであなたの人生は大きく狂った。そして……人類の運命も」
人類の運命。それだ。
まわらない思考を必死に回転させながら、私は言った。
「正常に戻ったんなら、もうやめてよ。荒れた畑や田を元に戻して。このままじゃ本当に人間は絶滅するわ」
「――いや、そういうわけにはいかないな」
返してきたのはミノルだった。
「人が増えてもまた同じことが起きるだけさ。人間には滅んでもらう」
「なんで……! みんな苦しんでるのに、あなたたちはまだやるつもりなの!」
「勘違いしないでくれ。おまえたち二人だけは怨神様のご厚意により生かしてやってるが……あまりふざけてたことを言っていると、それもどうなるかわからないよ」
足元がぐらっと揺れた気がした。
ミノル。元恋人がこんなにも最悪の敵になるなんて。
「ふ、ふざけんじゃねえ……!」
ショウイチが怒鳴った。
「俺たちの村も、他の村も……てめえらのせいでほぼ全滅した。それをまだ続けようってのか!」
「いいことを教えてあげよう。生物は、同種が死んだり全滅することをなにより恐れるものだ。理屈じゃなく、本能でね」
「て、てめえ……!」
いまにも殴りかかからんばかりのショウイチを、私は片手で制した。
「わかった。あなたたちの考えはよくわかったわ」
ミノルの意見にも一理はある。
森に向かう道すがら、私はたしかに見た。
人間のいなくなった世界で、平和に暮らす動物性たちを。
人がいなくなったことで、動物たちは穏やかに暮らせるようになった。彼らの世界には、利権をめぐる争いや嫉妬、復讐なんて存在しない。ただただ互いを尊重して暮らしている。
もちろん、動物である以上、多少の喧嘩はあるかもしれない。それでも、自分たちのためだけに村を襲ったり、目的のために身体を売ったりはしない。
――でも。
「短い旅だけれど、いろんな人を見てきた。私も最初は賊なんて大嫌いだったし、いまも好きになったわけじゃない」
でも最近になって、ちょっとはわかるようにはなってきた。彼らの苦しみや、葛藤が。
人は必ずわかりあえる。
わかろうとしていないだけだ。
「あなたたちの考えを、私は否定しない。私なりの考えで、人と動物をともに生きるようにしてみたいと思う」
「……へっ、たいした女だな、おまえは」
隣のショウイチがへへっと笑った。
「俺もチヨコに賛成だ。別にどっちかが滅ぶ必要なんてないんじゃねえのか?」
沈黙があった。
鳥のさえずりがあたりに響きわたる。穏やかな風が、大樹の葉を擦っていく。
「……なるほど、素晴らしい。あなたたちは変わったようですね」
怨神は優しく微笑んだ。
「わかりました。私もあなたたちに賛成です」
「お、怨神様……!」
「すみませんミノル。悪魔となった私が洗脳したばかりに、あなたは汚れた思想を持ってしまった。あなたの洗脳は、やはりここで……」
怨神が言いかけた、その瞬間だった。
「う、あ……」
突如、鈍い声をあげはじめる怨神。
見ると、神の周囲に黒い煙がもうもうと立ち込めている。
人目でわかった。
人間の欲の塊だ。
びくっと背筋が凍る。まだ触れてもいないのに、なんという霊圧だ。
その煙がさらに巨大化するや、怨神がおぞましい悲鳴をあげる。全身を震わせ、赤子のように手足をばたつかせる。
「ま、まずい! このままでは……」
ミノルが叫んだ、その直後。
金切り声をあげる怨神に、漆黒の塊が容赦なく集まっていき。
神は、恐ろしい姿へと変貌を遂げた。
そう、忘れもしない、巨大蜘蛛の姿に。