4.お望みのままに
小人達がいつものように仕事に行った後、白雪姫は一人で家の掃除をしていました。すると扉を叩く音がしました。
窓からそっと外を窺います。そこからあの白く大きな馬がみえました。白雪姫の胸の鼓動は激しく波打ちました。急いで扉を開けると、そこに立っていた人物は柔らかく微笑みました。
「お久しぶりです。お元気そうでよかった」
白雪姫は森で自分を助けてくれた男を、嬉しそうに迎え入れました。
男は自分は山の上にある城の王子だと言いました。たまに下へ降りて森を散策するらしく、あの日偶然白雪姫を見つけたそうです。
「あなたのおかげで私は今生きる事ができています。本当にありがとうございます」
白雪姫は心からお礼の言葉を伸べました。
◇◇◇
その夜のお妃様はというと、部屋でじっと鏡を見つめていました。その側にあるテーブルの上には、紫色の液体の入った怪しげな小瓶が置いてあります。
「白雪姫。明日…あなたに会いにゆくからね」
呟いた時、外の廊下から騒がしい足音が近づいてきて、お妃様の部屋の扉が激しく叩かれました。お妃様が開けてみると、青い顔をした召し使いの一人が息を切らせ立っていました。
「何事です、こんな夜中に」
召し使いは声を震わせながら、言いました。
「大変でございます……王が、王が!」
慌てる召し使いを見つめながらお妃様はぼんやりと考えていました。
そういえばここ数日、王の姿を見ていない。最後に会ったのはいつだったかしら。最近は特に外出していることが多くて、今言われるまで気付かなかった。
「王に何かあったの?」
青ざめた召し使いは首を振るばかりで、なかなか話が進みません。
「王は……3日前に森一つ向こうの国にお出かけになられておりまして」
召し使いは震えながら口を開きました。
「まぁ、あそこは今民衆の暴動でひどく荒れているそうじゃない」
森一つ向こうの国の王政は酷いらしく、王は関わり合いを持つなと言っていました。金銭的にも困っているらしく、長くもたないだろうと噂されていました。
「ここにも何度か来たわ。お金を貸してくれって。王はいつも突き返していたけれど」
王族が潤う為の金など、貸せはしないと。苦しんでいる国民を無視して、私腹を肥やしてきたお前の統制をまずは省みるがいい、と。そう言っていつも突っぱねていたのです。
召し使い達は四方へ逃げ出し、この国へ亡命する民達は今もなお後を絶ちません。
「もうあの国には頼りになる人はいないんじゃない?あら、でも確か……」
そう。確かまだ召し使いは残っていたはずです。お妃様は、国をいくらか下った森の外れで暮らしている者たちの話を聞いた事がありました。彼らは、
「七人、だったかしら」
彼ら七人は、王家の為ならばどんな働きでもする、王国一忠実な者たちだと言われていました。
◇◇◇
「お母様が私を殺しにやって来る……!?」
信じられない事を言い出した白雪姫。けれど目の前にいる王子は深刻そうに頷きました。
「あなたが生きていると知ったら、そういう可能性もあるかもしれないということです。まだ彼女を信じてはいけない。訪ねて来ても決して中に入れてはなりません」
「でも……そんなまさか」
白雪姫はそれをそのまま肯定することが出来ません。きっとまだ義母を完全に恨めないのです。
――母はそのうち私を探しに来てくれる。ごめんねって、私が悪かったわって。そう言って笑ってくれる。そして一緒に家へ帰るの……
白雪姫は小人の家にいながら、そんな事を毎晩願っていたのです。
黙ってうつ向いてしまった白雪姫に、王子はふと思い出したように言いました。
「そういえば、噂で聞いたんだけど……どこかの国の王様が亡くなったらしくて大騒ぎですよ」
「そう、ですか……」
上の空の白雪姫に、更に王子は畳み掛けます。
「精神的に辛いときに、気分転換に行った他国で事故にあったんですよ」
なぜ詳しく知っているのか、なぜ詳しく話すのか。白雪姫はぼうっと聞いていました。
「後妻さんとうまくいってなかったようで、愛する娘も行方不明で」
「え?」
ハッと顔をあげた白雪姫に、王子はよく思い出せないという表情で言いました。
「確か森を挟んですぐ近くの国だったような……あれ、どうかしましたか?」
白雪姫は咄嗟に言葉が出ず、呆然とただ口を開きました。それは自分の国ではないのか。自分の父親ではないのかと思ったからです。
「さて、それでは私はそろそろ失礼します。お母様にはくれぐれもお気をつけて」
「待って下さい、あの」
立ち上がった王子にもう少し詳しい話を聞きたかったのですが、彼は白雪姫の言葉を遮りました。
「そうそう。今日私がここに来た事は、小人達には言わないでおいて下さい」
「……どうして、ですか」
不安げな白雪姫に、王子は困ったように笑いました。
「実を言うと私は彼らにあまり好かれていないもので」
その日、王子が家を出たすぐ後に小人達が帰ってきました。
「ただいま、白雪姫。今日も何事もなかったかい?」
そう聞かれ、白雪姫は笑顔で答えました。
「えぇ。何もなかったわ」
疲れ切った顔で微笑む小人達の後ろで、グランプだけが笑っていませんでした。家に入る前、地面に馬の蹄の跡を見ていたからでした。
◇◇◇
来ないで。お願いだから来ないで――。
次の日から、白雪姫は暗い家で毎日一人、繰り返しそう願っていました。
だってこの場所が分かるはずないもの。お母様がここに来るはずないわ。私を殺しになんて来ないわ……。
こんこん
静寂を破る突然のノックの音に、白雪姫はびくっと体を震わせました。息を殺して扉を見つめます。訪ねてきた何者かから声がかかるのを、息を殺して待ちました。
こんこん
「どなた様か、いらっしゃいませんか」
扉の向こうから小さく聞こえてきたのは、か細くしゃがれた声を聞いた老婆の声。
いや、まだ分からない。ただ道に迷った知らぬお婆さんかもしれない。
そっと聞き耳を立てていると、扉の向こうの老婆はさらに言いました。
「おいしい林檎を売りに来たんだよ。どなた様かいらっしゃいませんか」
陽は落ちてきて辺りは薄暗くなっていたけれど、家の灯りはまだつけていませんでした。だから、留守を装う事も出来たのです。
『私はあなたと一緒にいたいだけなのです』
昨日の王子との会話が蘇ります。
『今は信じられなくてもかまいません。けれど、もしあなたのお母様が本当にあなたを殺しにやってきても、あなたは死んではいけません。私と私の国に来て下さい。そして二人で幸せになりましょう』
白雪姫はぼんやりと考えました。私は何と答えたかしら、と。
『お母様は来ません……絶対』
だとしたら今扉の向こうで私を呼ぶあの声は誰のものなの。老婆に化けて林檎を売りにやって来たのは誰だと言うの。私が林檎が好きだと、見知らぬ老婆がどうして知っているというの…。
白雪姫の目から涙がこぼれ落ちました。そして、フラフラとした足取りで扉に向かい、ゆっくりとドアノブを回しました。
その様子を木の陰からそっと覗いているものがいました。彼は母子のしばらくぶりの再会を見届けると、薄ら笑いを浮かべながら、森の中へと消えてゆきました。
「あぁ可哀想な白雪姫。全ては王子のお望みのままに…――」




