白の童話
その女は絶望の淵にいた。大切な一人娘に裏切られたのである。
泣きはらした目は醜く膨れ、行く当てもなくけわしい森を彷徨い歩いたせいで、体中は傷だらけであった。それでも彼女は気にも止めず、ひたすら歩き続けていた。ふらふらとよろめきながら、時たま足をもつれさせながら。
するとそのうち、歩みを邪魔していた木々達が突然途切れた。暗い森を抜け、太陽の日がさんさんと注ぐ空間に出たのである。
美しい花が色とりどりに咲き、小鳥が優雅に歌っていた。その中心に、小さな木の小屋があった。洋風のそれは本当に小さく遠慮がちで、まるで自分はこの素晴らしい空間を際立たせる脇役の一つでしかないのだと。あくまでも引き立て役なのだと。そんな事を言い出しそうな、独特の不思議な雰囲気をかもし出していた。
突然現れた何とも場違いな景色に、最初女はここが天国だと思った。
「ああ、ついに私も死んでしまったのね。けれどもこんな素敵な場所ならば、その方が幸せかもしれない……」
女がそう呟いた時、小屋の扉がきぃ、と微かな音を立てて開いた。そして中から誰かが出てきて女に何か声をかけた――けれどその時女はすでに意識を失いかけていたので、現れたのがごく普通の若き青年で、同じような仕事をしている者ならば誰しもが当たり前のように口にする挨拶をしたのだとしても、彼女には遠く不確かな天からの使いにしか思えなかった。
すなわち彼はこう言ったのである。
「いらっしゃいませ、お客様でしょうか?」
女が眠りから覚めた時最初に耳に入ったのは、お湯が沸いたぞと主張するあの、シュンシュンという合図だった。ついで聞こえる誰かの慌てた声。
「熱っ熱っ」
ヤカンの蓋が下に転がり落ちた時のかんかららん、という少々やかましい音。
女はまぶたをゆっくりと開き瞳を左右に動かすと、自分が部屋のベッドに寝かされていたのだという事を知った。そっと体を起こし両手を動かしてみる。――まだ生きている。
「ここは……」
女が小さな口を開いたその時、彼女の右側にあった引き戸が勢いよく開いた。
「気がついた!?」
思ってもみなかった突然の大声に、女は驚き目を丸くした。そこにはまだ20かそこそこの青い髪をした青年が、湯気の立つカップを2つ乗せたおぼんを持って戸口で笑っていた。
「あのっすみませんここは……」
慌ててよろよろと立ち上がり、髪や洋服の乱れを直す女に、青年は左手のひらを突き出し強く制し、当然のように言った。
「だめだよ。知らない人と話す時は、まず最初にお互い名のりあわなくっちゃ」
そしておぼんをベッドのすぐ側にあった低いテーブルの上に置き、あっけにとられて固まっている女に向かって頭を下げた。
「いらっしゃいませ、名も無き森の喫茶店“トランシェント”へようこそ。僕がこのお店の主、名前はテルマン。お気軽にテルとお呼び下さい。よろしくどうぞ」
まるで前々から準備をしていたように、そう言うのが決まりであるかのように、彼はすらすらと一気にしゃべった。そして下げた頭を少しだけ上げると、ぽかんとしたまま動かない女に微笑みかけ、次はあなた、と深く透き通る青い瞳で合図した。女はつい姿勢を正し、テルマンと名のる青年にならい頭を下げた。
「わ、私はエレナ。森を歩いていて気がついたらここへ……あら?いつの間に森なんか入ったのかしら」
「ふむふむ、まぁそちらにお掛けになって。ここは喫茶店、お茶でも飲みながらゆっくり語り合う所です。慌てず騒がず一つ一つ丁寧にいきましょう」
頭を抱え困惑する女――つまりエレナを青年テルマンがなだめ、先ほどおぼんを置いたテーブルと2つの椅子の方に手を差し出した。エレナは言われるがままに窓際の椅子に腰掛けた。カップからは紅茶のいい香りが漂ってくる。
「紅茶はお好き?」
「ええ、とても。いい香り……落ち着くわ」
「きっと好きだと思ったんですよ」
「ふふ……ありがとう」
エレナは嬉しそうに微笑んだ。その上品さから察するに、どこかのお姫様かお嬢様だろうか。けれどもその格好は決して綺麗とは言えず、まるで魔女のような黒いローブをまとっている。そして森を右往左往に走ってきたせいか、あちこちに破れや泥が見られた。
ふ、とエレナの微笑みが固まり、その表情は哀しみへと変わっていった。テルマンは、うつ向き沈む彼女の顔を、心配そうに覗きこみ言う。
「あなたの不幸を、どうか私に話して下さいませんか?」
それはエレナに頼んでいるようにも、提案したようにも聞こえ、断るという選択肢も十分にあった。けれど彼の暖かい気持ちが、とても優しく彼女の心に染み渡っていったので……エレナは一粒の涙と共に、ぽつりぽつりと話をし始めたのだった。




