五
ユーフェは掃除、洗濯、水汲みなどを一通り手伝った後、剣を差して村の外れまで出かける。ちょうどよく開けた場所があって、そこで剣を振るうのが日課のようになっていた。
大分動けるようになってきた。だが、思うようにというには程遠い。激しく動くと胸が邪魔というより痛い。記憶をいうよりも感覚的に、自分は男だったというのは疑いようもないと思われた。だからといって、今の自分の身体は明に女だし、元の身体に戻る方法があるわけでもないが。それでも剣を振るっていると失われた記憶に近づくことが出来る気がしたのである。
稽古に疲れ剥き出しの岩の上に腰をかける。村主の樹が張っているという結界のおかげであろうか、この村は常に穏やかな天候である。汗をかいた身体に風が気持ちいい。
「こんにちは」
村とは反対の方向から荷物を背負った黒エルフの男が声をかけてきた。
岩から降りて挨拶を返す。見たことのない男だった。
男はユーフェをしげしげと見て、
「ここは西影の森ですよね?」
いまだ他人に自分の身体を見られるのが苦手ではあったが、努めて平静に返す。
「そうですが、初めて来られる方ですか?」
「いや、ここに住んでるヘスルという者ですが、貴方のような高貴な方がいらっしゃった記憶がないもので」
ユーフェは首を傾げる。
「一月ほど村から離れていたんですが、灰色の肌の太陰のエルフの方がおられるとは聞いてませんでしたので、間違ったのかなと不安になってしまいました」ヘスルは頭を掻いた。
「太陰のエルフ?」
「ええ、私達黒エルフの祖と言われています。白いエルフなどは闇エルフなどとも言いますけども」
ヘスルは訝しげな表情を浮かべた。
ユーフェは、最近この村の世話になったこと、自分はそれ以前の記憶がないことを説明した。自分が男だということは伝えなかった。ニーサと長老から、要らぬ混乱を招くかもしれないし、それにより変な目で見られる可能性もあるかもしれないと言われていたのである。好奇の視線を受けるのは望むところではない。
「大変ですね」ヘスルは気の毒そうに言った。
ヘスルは荷物を背負いなおして、
「すいませんが、長老の家まで案内してもらえませんか?」
「この村の人なんだよな?」はっとして言い直す。「この村の方なんですよね?」
「ええ。もう少し貴方と話をしながら向かいたいと思ったのですけど」
ヘスルは笑顔で言った。
ユーフェも村の外のことを聞いてみたいという気持ちもあって笑顔を返す。
談笑しながらゆっくり長老の家に向かうと、丁度長老の家から若い娘が出てくるところであった。長老の身の回りの世話をしているブセントの妹のサラネだった。ユーフェが遠慮したくなるような胸元の大きく開いた服を着ている。とはいっても黒エルフの女性にはそれが普通の服装らしかったが。
お互いに会釈をする。
「ヘスルさん、お久しぶりです」
落ち着いた品のある声。
炊事の当番の時に顔を合わせて親しくなった淑やかな雰囲気のある女性である。聡明さを感じさせる女性だとユーフェは考えているが、一つ合点がいかないのが彼女の兄ブセントのことだった。話しをしていると、サラネは兄の冷静さや沈着ぶりを誇りに思っているように聞こえるのだが、ユーフェにはブセントにそのような印象はなかったのである。
軽い会話をした後サラネは去っていった。
「さて」とヘスルは扉を叩くと、許可を伝える長老の声が返ってくる。扉を開くと入口に出迎えるような形で長老が立っていた。
長老とヘスルが挨拶を交わす。その頃合を見計らって、
「では、これで失礼します」
「構わない、構わない、上がっていけ。せっかく用意した器が無駄になってしまうしな」半ば強引に家に招き入れる。「可能な限り、男二人というむさい状況は避けたいからな」
ユーフェは非難の視線を送る。
「見た目が大事なんだよ」
長老はおどけた調子で笑ってテーブルの席を勧める。
「先のサラネのような服装はどうです?」
見た目という言葉を受けてヘスルが言った。悪意はないであろうその提案にユーフェは首を振る。
「格好いいと思うのですけど」
仕方なくユーフェは恥ずかしいからと答えた。慣れてきたとはいえ、今の姿でも自分には十分恥ずかしいのだから。
そんなやり取りをしている間に長老が注いだカップにユーフェは口を付ける。
「おいしい」
ただの水だったが、花の香りがして薄荷のように口の中に清涼感が残る。
「サラネがやっていってくれてな」
言って、長老もカップを口に運ぶ。
ニーサの家が沢山の小物をきちんと整理しているのに対して、長老の家は必要な物以外は何も置いてない感じだった。
「文書にしましたので」
ヘスルは荷物から紙を取り出し長老に手渡した。
受け取った文書の封を解き紙面に目を落とす。しばし沈黙が流れる。
「噂をお聞きかも知れませんが」ヘスルが口を開く。「女王が討たれたようです」
ユーフェは切れ長の目を瞬かせ、
「女王?」聞き返した。
「魔人族の王です。女性だったので女王。女性の魔王と言ったほうがわかりやすいですかね」
「女王は、妖精精霊出の種こともよく理解されていたのだが」文書から視線を戻して言葉を続ける。「お優しい方だったのに残念だ」
「人間の勇者などという者と相打たれたとか」
「また世の中が荒れるのか、勘弁して欲しいものだな。自分と自分と繋がりのある氏族が安穏に暮らせればそれ以上望むことはないのだがな」
長老は文書に視線を戻し、
「ゴブリンのヴ族、交渉はゴブリンロードとやったのか?」
「いえいえ、ロードでも交渉はできますけど時間がかかってしまいます。もう一つ上、ハイロードが出てきてくれました」
「珍しいな。部族思いな御仁だからな」
「ゴブリンの王族の方には初めて会いましたが立派な方でしたね。薬草の代価は小麦でとのことでした」
ヘスルがユーフェの視線に気づいて頷く。
「ゴブリンロードが言ってみれば騎士とか貴族で、ハイロードが王族と思っていただければいいかと。ゴブリン族の祖です。私達の祖が太陰のエルフであるのと同様ですね」
「私と同じ灰色の肌のエルフも、他にいるということですか?」
「それは……」
「太陰のエルフが硝子の森の奥の結界に引きこもって千六百年にはなる」長老は淡々とした調子で言った。
「エルフのみならず妖精出の種族を率いた太陰のエルフの女王が亡くなって、俗世を捨て彼の地に隠れ住んだと聞きます。そのことは私より……」
ヘスルは長老の顔を窺う。
「王とかそういった称号を受けたわけではなかったが、強力な魔人や白いエルフや人間などからの迫害や搾取に立ち上がる者が必要だっただけだ。遠い昔の話だ。もう通り名ぐらいしか伝わっていないだろう」
長老は目を閉じたまま語った。
ヘスルは慌てたふうに、
「魂をそのまま肉体にしたような存在。日に当たった樹を使って現界したのが光のエルフ、影になった樹から現界したのが太陰エルフです。私達にとっては神にも近い存在です」
ユーフェに向き直って言った。
しばし会話が途切れる。ユーフェは聞いた内容を整理していた。
「ヘスル、話を戻すが。砂谷の森にリュウネの根を運んでもらいたい」
「乾燥ですか? 生ですか?」
「生で、生きてる状態で欲しいとの向こうの要望だ」
「それでは嵩張ってしまって、誰か手を貸してくださいよ。と言いますか、祭りの近づいたこの時期にですか?」
「誰か暇そうな奴を連れていっていいぞ。祭儀が終わってからで構わないが」
ヘスルが安堵の息を吐いた。
長老が皆のカップに水を注いで自分もカップを口に運ぶ。陶製のカップを受け皿に戻し苦笑めいた表情を浮かべる。
「……気づいているか?」
「誰でしょう?」ヘスルが返す。
「さすがに可哀想になってきた」
長老はカップに口を付けていたユーフェの顔を見据える。
「俺とヘスルの話はまだ長くなりそうだ。ニーサやお前さんに聞かれたくない方向のな」
ヘスルが唖然とした顔をする。
「待ち人もいるようだしな」
ユーフェは首を捻る。何のことを言っているかわからなかったが、促されて別れの挨拶をする。興味深い話も聞けて収穫もあった。
ユーフェが去った後ヘスルが口を開く。
「美人な方ですね」ユーフェのことを思い出しながら、「服装を随分恥ずかしがっていましたけど、それなら男物でも着ればいいのにと思いました」
「あー、ヘスル君。俺が千七百年生きてきて学んだことがあるんだが、ユーフェとニーサの前でそれは言わないほうがいいぞ。特にニーサの前では」
「……私はその半分ぐらいしか生きてませんが、学びました。怖い笑顔が脳裏に浮かびました」
「お前は優秀だな」
お互いに笑い合う。
「先の待ち人というのはブセントさんでしたか。戸口からちらっと見えました。外に誰かいるとは思ってましたが」
外から言い合いのような声が聞こえてきた。何やら揉めているようである。声からしてブセントとユーフェらしかった。
「あの冷静なブセントさんらしからぬ、たどたどしい声ですね」
「見物しにいこうか。ではなくて、助け舟を出しにいこうか」
長老は頭を掻きながら笑い、席を立った。