親思う心にまさる親心――壱
真帆は降りしきる雨の中、傘も差さずに保育園の庭に立っていた。
きぃと保育園の門が小さく鳴く。しかし誰もいない。
分かっている。もうあの扉を開けるのは風しかいない。
もう空は真っ暗だった。
時計の読めない真帆は時間なんて分からなかったが、母親が迎えに来てもいい時間だということは分かった。
しかしいくら待っても、あの優しい影は現れない。おそろいのウサギ柄の傘はちらりとも見えない。
「真帆ちゃん!」
部屋の片づけをしていた先生が声を上げた。
そばにいたはずの真帆がいなくなって、その姿を雨の中の園庭に見つけ、慌てて飛び出してくる。
「風邪を引いちゃうでしょう、もう」
先生は真帆を抱き上げ、室内に足早に戻る。
クッキーの匂いがした。おやつのクッキー。
真帆は先生の肩にあごを乗せ、門から目を離さなかった。
あの優しい腕が迎えに来てくれることはない。
「うん。平気。ありがとう」
薄暗い廊下で千崎は受話器を持ったまま、壁に寄りかかって座っていた。
廊下の窓を雨が外から絶え間なく叩く。床はひんやりと冷たく、はだしでは少し寒かった。
「おばあちゃんはまだ何とも。ずっと変わってない」
千崎は手首にはめた瑪瑙の腕輪に視線を落とした。これをはめたあの日から、何一つ変わったことは起きていない。それがまた残酷であろうと、最悪に転じるよりはましだ。
「和泉と柚里は順調に馴染んでるよ。うん、一条家からの連絡はない。柚里のほうはお兄さんが何度か。でも連れ戻そうとはしてないみたい。密は――」
千崎の言葉が止まる。
しかし電話の主は続きを待たずに話し出した。
「ううん。和泉が結界修復したから今のところは大丈夫。力も和泉が抑えててくれてるから、まだ見つかってないと思う」
千崎は冷たくなった足を撫でた。
居間のほうから明るいテレビの音が漏れ出ている。和泉と柚里のくだらない言い争いが聞こえてきた。
「心配しないで。でもお母さんの十三回忌までには――」
受話器を握る手も冷たくなってきた。
千崎はふとここから見える仏間に視線を流した。薄暗くて人の影はまったくない。しかしそこには大勢の人がいる気がした。
「準備はこっちでしておくから、その日までには帰ってきて」
千崎は冷たくなった足で立ち上がり、電話機の置いてある棚の壁にかけてあるボードに視線を移した。そこには必要な連絡先が明記されているメモ用紙が適当に貼り付けられていて、その中に一つ、国内のものではない番号があった。
千崎はそれを冷たくなった手でなぞり、悲しそうに笑った。
「うん。分かった。何かあったら電話するから。じゃあね――お父さん」
自分の髪と同じ真っ黒な受話器を置き、千崎は大きく短くため息を吐いた。
眼鏡をかけなおして居間に戻ると和泉と柚里の騒がしい口喧嘩の最中だった。
机の上には密の作った梅ゼリーが二つ並んでいる。他にも空になったカップが三人分机に放置されていた。
密が静かに机の上の二つのゼリーから一つをとり、千崎にまわす。
「作りすぎたら喧嘩になった」
カップは合わせて五つあった。全員が一つずつ食べると一つ余ってしまったのだ。それを和泉と柚里が奪い合っている。そういうことだろう。
「伊縁さん、何て?」
密は空になったカップを重ね、机の端に寄せた。そこを避けるように机を軽く拭いた。
「何も。こっちの様子が気になっただけみたい――九月までには帰るって」
千崎が少し嬉しそうに話すと、何を思ったのか密は自分より頭二つ分くらい低い千崎の頭をぽんぽんと軽く叩いた。
子ども扱いされている。
千崎はきっと密を睨み上げたが、その手を払いのけるつもりはなかった。
銀色の髪と赤い瞳が珍しく生き生きと嬉しそうな色を宿している。硬い表情は相変わらずだったが、それでもいつもよりは柔らかい。
「伊縁さんと話すときはやっぱり、いつもより口調が優しくなる」
密の呟きにも似た言葉に、やはり千崎はその手を払いのけた。
「聞いていたのか?」
声音を尖らせて尋ねると、密は斜めに首を振った。
「どっちだ」
「聞こえた」
密は逃げるように避けておいたカップを持ち、台所へ消えていった。
伊縁からの電話があってから数日後の日曜日。
連日の雨が嘘のようにからりと晴れたその日、一人の女性が時雨荘を訪れた。
あれ、報告してた内容と違くない?というツッコミは置いといて、元旦更新を果たしました!
親思う心にまさる親心
子が親を思う気持ち以上に親が子を思う気持ちは強い
なんか最初から暗い内容っぽい。
千崎たちの家庭事情がちらっと垣間見え。
これからは二日or三日更新になるやもしれませぬ。