犬猫は三日扶持すれば恩を忘れず――陸
空腹。疲労。絶望。恐怖。
人間に似た負の感情を抱えながら、暮れ行く空を眺めていた。
身体のあちこちがかゆくて、くさい。四肢の感覚はもうなかった。
「あら、こんなところに」
ふと聞こえた優しげな声が聞こえ、閉じかけていた目を開けると、白交じりの髪を一つに結わえ、気品漂う老いた人間の女がいた。
彼女はスカートの裾が汚れるのもかまわず座り込み、持っていた買い物袋からにぼし数本を取り出した。
「丁度よかった、あの人のつまみに買ったのよ。食べる?」
それは何とも贅沢な匂いだった。失ったと思っていた嗅覚がしきりに反応し、鼻が痛くなるほど匂いを堪能した。そして舐める。気がついたら食べていた。
彼の食いつきぶりを見て、彼女は悲しげな笑みを浮かべた。
「いつから食べてないの。可哀想に――だからこの神社に来たんだね」
彼は彼女の言葉が理解できなかった。
ここは人間が「おまいり」にくる場所だと知っていた。だが人間はこない。
建物はすっかり朽ち果て、手水舎の水はすっかり濁っている。
「でも神様はいなかったようだね。いや、神様はお前を生かしてくださるのに精一杯なのかもしれないね」
彼女はそういって、薄汚れた彼を抱き上げた。
「帰ろうか。今からわたしがお前の神様だ」
千崎は切なくなる気持ちを押し殺した。
会いたかった。だからここに来ればもう一度会えると。
千崎が見た記憶を頼りに四人は近くの森へ入った。道という道はなく、ただ草木が生い茂った自由な森だった。
千崎は迷わず進んだ。いや正確には千崎の中にいるきらりんが足を進めていたのかもしれない。
しばらく進むと、朽ち果てた神社が見えた。鳥居は色あせ、あちこちが苔むしている。湿気がこもり、異様に蒸し暑かった。しかしそれでも木々の合間から差し込む少し赤い陽光が神社を照らすと、不思議と神聖な雰囲気があった。
神社の拝殿の縁の下に、彼はひっそりと眠っていた。
まるであのときのように夕日が差し込む森のほうを向いて。
すでに腐臭を放っている。千崎は亡骸の一メートルほど手前で足を止めた。それに続いて柚里も和泉も足を止める。
密だけが表情一つ変えず、猫の亡骸の前に跪く。
彼は着ていた制服の上着を脱ぎ、亡骸をそっと包んで抱き上げた。
〈にゃぁ〉
千崎の口を借りてきらりんが鳴く。
「……帰ろうか」
密はきらりんの頭を撫でるかのように、千崎の頭を撫でた。
当の千崎は密のその行為が不服だったが、この場面で文句を言うほど野暮ではない。
四人と一匹はそのまま西に沈む夕日を眺めながら帰った。
滝川は腐臭を放つ飼い猫の姿を表情を固くして見つめていた。
分かっていたことだ。分かっていて彼らに頼んだのだ。
それは確かに自分にはまったく懐いてくれなかった無愛想な猫だ。妻があまりにも自分より猫にかまうので嫉妬したこともあった。
「ありがとう。縁側から見える庭に埋めてやろうと思う」
亡骸を抱いてやってきた千崎たちに滝川はそういった。
いつも千代子が猫と過ごしていた縁側から見える庭。彼女が帰ってきて、いつも通りここに座ったとき、寂しくないように。
千代子がいない間は自分がここで酒でも飲もう。それで勘弁しておくれ。
「あの、出来れば……千代子さんの病院、教えてもらえませんか」
千崎が遠慮がちに尋ねる。全員言いたかったことなのか、他三人もじっと滝川を見つめていた。
「まだ逝けないんです。どうしても会いたいんです」
それは千崎の言葉ではないことが明白だった。
滝川は小さい頃から千崎を知っている。いや千崎の家を知っている。
似ていると思った「あの人」に。
「いるのかい、ここに」
滝川が尋ねると千崎は小さく頷いた。
滝川は霊や神を本当に信じているわけではない。しかし長生きするとそういう存在がいてもおかしくないのかもしれないと思うようになった。
千崎という女の子は嘘が下手だ。彼女が冗談や面白半分で霊能力者を謳うはずがないことを知っている。何より「時雨荘」という家はそういう家なのだ。
「明日、お見舞いに行こうか」
なんか、シーンとなってしまいました。
個人的にじーんとくる話です。