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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

イリーナはもういない

作者: ぴょる
掲載日:2026/05/15

 イリーナはエルミタージュ国の第七王女である。

 多くの兄弟姉妹に囲まれた彼女が、特別に注目されることはなかった。父王の視線は常に上の子供たちへ向かい、母妃の手は常に下の子供たちで塞がっていた。

 冷遇されていたわけではない。意地悪をされたわけでもない。食事は与えられ、衣服は整えられ、教育も施された。ただ、誰もイリーナを特別に必要としなかった。朝の食卓で彼女の席が空いていても気づく者はいなかっただろう。夜の団欒に加わらなくても誰かが名を呼んで探すことはなかった。


 いてもいなくても、変わらない。

 それがイリーナという存在だった。


 十八の春、縁談が来た。


 隣国テルシア王国は豊かな国だった。地下に眠る鉱脈、肥沃な大地、良港。資源だけを見れば大国にも引けを取らない。しかし王家の足元は揺れていた。王弟派閥が力を持ち、第一王子テオドール殿下の立場は決して盤石とは言えなかった。故に後ろ盾を求めていた。

 エルミタージュはそれに応じた。


 会議室に並んだ重臣たちの議論は、イリーナの耳には届かなかった。届いたのは結論だけだった。第七王女を、第一王子テオドール殿下に嫁がせる。大国の王女という箔を持たせてやれば、向こうの政情も多少は安定する。失っても痛くない駒で恩を売れるなら安い買い物だ、と。


 父王に呼ばれ縁談を告げられた時、イリーナの胸に灯ったのは喜びだった。

 ようやく誰かの役に立てる。

 ようやく特別になれる。と。


 自分を必要としてくれる場所へ行ける。その一心でイリーナは微笑んで言った。

 承知しました、と。


---


 テルシア王国は、噂通りの国だった。

 馬車の窓から見える景色は豊かで、道を行き交う民の顔には活気があった。土地が肥えている。水が綺麗だ。イリーナは窓の外を眺めながら、静かに観察した。これから自分が支えるべき国の姿を、一つも見逃すまいとするように。


 ここでは役に立てる。

 ここでは、必要とされる。


 馬車が王城の門をくぐる頃には、イリーナの背筋は真っ直ぐに伸びていた。

 謁見の間で初めてテオドールと向き合った時、イリーナは思わず息を呑んだ。端正な顔立ち、落ち着いた佇まい、知性の滲む双眸。噂には聞いていたが、実物はそれ以上だった。

 イリーナは丁寧に礼をした。長い道中で何度も練習した所作だった。

「テルシア王国第一王子テオドール殿下。此度のご縁、謹んでお受けし……」

「見苦しいな」

 低く、静かな声だった。

 イリーナは顔を上げた。テオドールはイリーナを一瞥しすぐに視線を外した。まるで路傍の石でも見るように。

「エルミタージュが寄越したのはこの程度か。王女と聞いていたが、どこの田舎娘かと思った」

 周囲の侍従たちが微妙に視線を逸らした。


 イリーナはなんとか笑顔を保った。


 これはきっと試されているのだ。王族として、妃候補として、動じない器があるかを見られているのだ。

 そう思うことにした。


 翌日からイリーナは学び始めた。


 テルシア王国の言語、歴史、文化、礼儀作法。王太子妃として知るべきことを片端から頭に叩き込んだ。夜明け前に起き、蝋燭の灯りで書物を開き、消灯の時刻を過ぎても机を離れない。そんな日々を送り続けた。


 容姿にも気を配った。髪の結い方、化粧の色、所作の一つひとつ。テルシアの貴族女性がどう振る舞うかを徹底的に観察し、自分の身体にひたすら落とし込んだ。鏡の前で何度も練習した。笑い方、頭の下げ方、扇の角度まで。


 しかしテオドールの言葉は変わらなかった。


 廊下ですれ違えば、「相変わらず垢抜けない顔だな」と呟かれ、茶会の席では、「エルミタージュの教育はこの程度か」と周囲に聞こえる声で言われた。言語の習得を報告した時には、「発音が汚い。耳障りだ」と顔を顰められた。


 褒めることは一切なかった。労うことも、気にかけることも欠片もなかった。


 テオドールがイリーナをそう扱うから、侍従たちの態度も一段階ずつ下がっていった。呼べどもすぐには来ない。頼めば面倒そうな顔をする。廊下ですれ違っても視線が薄い。


 王子殿下が大切にしない方を自分たちが大切にする理由はない。そういった声が聞こえてくるようだった。


 イリーナはまだ足りないのだと思った。

 もっと言葉を磨けば。もっと所作を整えれば。もっとテルシアのことを知れば。いつか、いつかきっとテオドールが振り向いてくれる日が来る。いつか、ここに自分の居場所ができる。


 そう信じてイリーナは努力し続けた。


 その『いつか』が、自分の努力で手繰り寄せられるものだとまだ疑っていなかった。

 テオドールの冷たさに理由があるとも、その理由がイリーナには決して変えられないものだとも、知らないまま。


---


 テルシア王国の政治は、長らく不安定な均衡の上に成り立っていた。


 王弟は有能な男だった。軍部に顔が利き、古くからの貴族たちに影響力を持ち、民衆への見栄えも悪くなかった。王位継承権こそ持たないが、宮廷における実質的な発言力は王太子テオドールに劣らなかった。いや、場合によっては上回ることさえあった。


 一方、テオドールは国王派に位置していた。正確にはテオドール自身が国王派の核だった。第一王子として正統な継承権を持ち、父王の信任も厚い。故に、王弟派にとってテオドールは最大の障壁だった。


 王弟派の手口は、時に苛烈だった。


 政敵の失脚を画策し、証拠のない噂を流し、王弟派に都合の悪い人間が不自然な死を遂げることもあった。

 目的のためなら手段は選ばない。それが王弟派だった。


 そこへイリーナが来た。

 大国エルミタージュの王女。そしてテオドールの婚約者。それだけでイリーナは意味を持つ存在になった。意味を持つということは、利用できるということだった。

 王弟派がイリーナを通じてテオドールを揺さぶろうとする可能性は十分にあった。あるいはもっと直接的な手段を取るかもしれなかった。


 だからテオドールはイリーナを遠ざけた。


 嫌っているように見せるため、イリーナを罵倒し、無視し、価値のない女だと周囲に示し続けた。テオドールが見向きもしない女をわざわざ害する理由はない。王弟派にとって、イリーナは脅威でも切り札でもなくなる。ただの惨めな王太子妃だ。


 それがテオドールの計算だった。


 テオドールはイリーナから目を逸らしながら、王弟失脚の機を静かに、着実に待ち続けた。

 ただ一つ誤算があったとすれば、イリーナがどれほど耐えられるか、テオドールは一度も考えなかったことだ。


---


 気づけば、イリーナは茶会の招待状を断るようになっていた。

 最初は体調や先約などの理由を考えていたが、そのうち理由を考えることも面倒になり、ただ欠席の旨を伝えるだけになった。

 どうせ行っても同じだった。

 着いた瞬間にテオドールの視線が刺さる。何か言えば嘲られ、黙っていれば存在ごと無視される。周囲の貴族たちはテオドールの顔色でイリーナへの態度を決める。自分がいるだけで場の空気が重くなるのをイリーナは知っていた。ならば最初からいなければいい。


 実際、断っても何も言われなかった。

 心配する者もなく、理由を尋ねる者もいない。招待状はただの形式で、来ることを期待されていたわけでもなかった。王太子の婚約者だから招いただけ。

 だからイリーナがいなくても、誰も困らなかった。


 しかしテオドールは言った。

「引きこもりめ」と周囲に向かって嗤った。「恥ずかしくて出てこられないのだろう」と。


 どちらに転んでも罵倒は来た。


 それでも出なければならない行事はあった。国の祝典、賓客の歓迎式、季節の儀礼など。そういう場にだけイリーナは姿を現した。

 努力して身につけた所作は完璧だった。

 入室の動作、礼の深さ、扇の開き方、微笑みの作り方。長い時間をかけて磨き上げたものは紛れもなく本物だった。

 思わず目を引く立ち居振る舞いに、周囲がはっと息を呑む瞬間があった。あれが王太子妃かと誰かが囁く気配がした。

 しかしテオドールが冷たい目をすると、それだけで場の空気は消えた。

 感嘆は引っ込み、視線は逸れ、誰もイリーナに近づかなくなった。


 それが何度も繰り返された。

 努力しても認められない。磨いても届かない。完璧にこなしても、一つの視線で全部消える。それでもイリーナはまだ動いた。まだ足りないからだと、そう思おうとしていた。

 思おうと、していた。


 ある朝、イリーナはいつものように目を覚ました。窓の外に光が差していた。今日も行事がある。完璧にこなさなければ。そう考えながら鏡の前に座った。

 自分の顔が映っていた。

 整った顔だった。微笑んでいた。まるで知らない人の顔のようだった。

 その微笑みの中には何もなかった。


 悲しさも、苦しさも、虚しさも無かった。自分への情けなさも、いつか報われるという微かな期待も、もうどこにもなかった。


 イリーナの心は、死んでいた。


---


 王弟が投獄されたのは、秋の終わりのことだった。

 長年にわたって積み上げられた証拠が一斉に開示され、派閥の中枢にいた者たちは次々と失脚した。王弟派閥は、驚くほど呆気なく瓦解した。テオドールと国王が水面下で仕込んできた策が、ようやく実を結んだ瞬間だった。


 テオドールはその日のうちに、イリーナの部屋へ向かった。

 扉を叩くと、少し間があってから返事があった。どうぞ、という声は穏やかで感情の起伏がなかった。


 部屋に入ると、イリーナは窓際の椅子に座っていた。膝の上に本を開いたままテオドールを見た。驚いた様子も怯えた様子もなかった。

 テオドールは口を開いた。

「イリーナ」

 名を呼んだのはいつぶりだろうと思った。

「謝らなければならないことがある」

 イリーナは本をそっと閉じた。

「王弟派閥が解体された。これでお前をあのように扱う理由はなくなった」

 テオドールは続けた。ずっと胸の中に押し込めていたものが堰を切ったように溢れた。

「すまなかった。数々の暴言を、冷遇を、お前が受けてきた全てのことを謝罪する。お前を守るためだったとはいえ、お前には何も告げなかった。お前一人に全てを背負わせてしまった」

 声が掠れた。

「恨んでいい。怒っていい。何でも言ってくれ。俺はそれを受け取る」

 部屋は静かだった。

 イリーナはテオドールを見ていた。穏やかに、柔らかい目で。そのままうっすらと微笑んだ。


「左様でしたか」

 静かな声だった。

「それは、大変なご苦労でございましたね」


 テオドールは息が止まった。

 え、と声が出た。情けないほど間の抜けた声だった。

 イリーナはただ微笑んでいた。怒りも悲しみもなく、責める色も全くない。ただ穏やかに微笑んでいた。

「イリーナ」

「はい」

「お前は、俺を恨んでいないのか……?」

 少し間があった。

 イリーナは首を僅かに傾け、考えるような仕草をした。

「恨む、とはどのようなことでしょう」

 テオドールは返す言葉を失った。


 その時初めてイリーナの目をまともに見た。

 柔らかく細められた目。微笑みに合わせて形だけ笑っている目。その奥には何もなかった。怒りも、悲しみも、安堵も、愛も。何一つ、欠片もなかった。


 テオドールはその時初めて知った。

 イリーナがもう既にどこにもいないことを。守るべきものが既に失われていたことを。


---


 婚姻の儀は滞りなく執り行われた。


 テオドールはイリーナの手を取り、誓いの言葉を述べた。イリーナは完璧な所作で隣に立ち、完璧な微笑みで応えた。列席した貴族たちは口々に美しい花嫁だと囁いた。


 テオドールはイリーナをひたすらに愛した。


 贈り物をした。深海の色をした宝石の首飾り、繊細な細工の施されたブレスレット、季節の花を模した耳飾り。イリーナはその度に、ありがとうございますと完璧な礼とともに微笑んで言った。


 社交の場では、テオドールが必ずイリーナの隣に立った。丁寧にエスコートし、イリーナの言葉に耳を傾け、彼女の聡明さを周囲に説いた。かつての冷遇が嘘のように。

 周囲は囁いた。ご夫婦仲がよくなられた、と。王太子妃は美しく賢い、と。テオドール殿下はイリーナ妃を心から大切にされている、と。


 誰も知らなかった。

 イリーナの心が、どこにもないことを。


 宝石を贈られても、優しくエスコートされても、愛の言葉を囁かれても、イリーナの内側では何も動かなかった。綺麗だと思うことも、嬉しいと感じることもない。ただ状況に合わせて正しい言葉を返し、正しい表情を作るだけだった。


 やがて、イリーナは懐妊した。


 テオドールは目を潤ませた。良かった、と何度も繰り返した。その声には縋るような響きがあった。

 新しい命がイリーナの止まった時間を動かしてくれるかもしれない。そう思わずにいられなかった。

 イリーナは自分の腹に視線を落とした。

 まだ何も変わっていない平らな腹をしばらく見つめ、微笑んで言った。


「おめでとうございます」


 それを聞いたテオドールは、何も言えなかった。

 自分のことなのに。自分の腹に宿った命なのに、イリーナはまるで他人の慶事を祝うように、おめでとうございますとだけ言った。


 月が満ちるにつれ、イリーナの腹は膨らんだ。

 イリーナはその変化を遠くから眺めていた。自分の身体に起きていることを、別の誰かが観察しているように。つわりの苦しさも、胎動の不思議さも、全てが遠かった。


 そして、王子が生まれた。

 産声が響いた瞬間、テオドールは泣いた。周囲の女官たちも、侍医たちも、目を赤くした。

 産着に包まれた赤子が、イリーナの傍に運ばれた。


 イリーナは赤子を見て、それから微笑んだ。

「かわいらしい赤子ですね」


 誰かの子供を褒めるように、穏やかに言った。


 産後、イリーナの回復は思わしくなかった。

 顔色が日を追うごとに白くなった。テオドールは最上の医師を呼び、最良の薬を取り寄せ、自らイリーナの傍に付き添った。


 しかし、遂に回復はしなかった。


 ある夜、テオドールはイリーナの手を握ったまま声を上げた。

「いかないでくれ……!」

 涙が落ちた。

「頼む。まだ何も、何も返せていない。いかないでくれ、イリーナ……!」

 イリーナはゆっくりと瞼を開くとテオドールを見た。泣き崩れるテオドールを穏やかな目で見て、そして、微笑んだ。


「お世話になりました」


 それだけ言って、イリーナは静かに目を閉じた。眠るように、ゆっくりと。

 イリーナは苦しむことも怖がることも、最後までなかった。

 イリーナの体は、冷たくなって動かなくなった。


 残されたのは、産声を上げたばかりの王子と、一生の後悔を背負った男だけだった。


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― 新着の感想 ―
他国から娶った姫を冷遇してたってのは普通に戦争になりそうだよなぁ まあ、母国側もイリーナに興味なかったんだろうけど、国の名に泥ぬってるようなもんだと思うんだが・・・ というか本人にも告げずに冷遇し続…
第七王女で下にもいっぱいって、王妃は子供産みすぎでしょ。 というのが最初に思った事で、次は嫁ぎ先の王子がイリーナに何も言わずに虐げた理由が全くわかんない。言ってれば心が壊れるまではいかなかったかもしれ…
このパターン知ってる 物語の主人公が現れたら影のあるイケメンを堕としてイチャラブする為の材料となるやつだ
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