悪役令嬢の妹ですが、お姉様は悪くありません——だって全部、私がやりました
全部、私がやりました。
お姉様は何も悪くありません。
辺境の小さな村の、小さな家の前で、わたしは跪いていた。膝が冷たい石畳に触れている。旅で汚れたスカートが地面に広がっている。かつて社交界で「聖女」と呼ばれた女の姿には、到底見えないだろう。
お姉様は扉の前に立っている。質素な衣服に、きちんと整えられた金髪。あの頃と変わらない、凛とした佇まい。追放されて二年経っても、お姉様はお姉様のままだった。
その深い青の瞳が、わたしを見下ろしている。怒りはない。憎しみもない。ただ、静かな悲しみだけが、その目の奥に沈んでいた。二年前、夜会の広間を歩いて出ていった時と同じ目だ。あの時わたしは、その悲しみの意味がわからなかった。
わたしは話さなければならない。ここに来るまでに二年かかった。いや、二年かかったのではない。二年間、逃げていたのだ。
王都で「聖女」と呼ばれていた頃のわたしなら、こんな場所に跪くことなどありえなかった。膝を汚すことを嫌い、スカートの裾が地面に触れるだけで侍女を叱りつけていた。その自分が今、辺境の石畳に額が触れるほど深く頭を下げている。
ここに来るまでに、三ヶ月の旅をした。何度も引き返そうとした。何度もお姉様の顔を見る覚悟が折れかけた。でも、あの帳簿を思い出すたびに足が動いた。
なぜこうなったのか。
全て、わたしが始めたことだ。
お姉様——アンネリーゼは、わたしの三つ上の姉だ。
ベッカー男爵家の長女として、お姉様は何でもできた。領地の帳簿を管理し、使用人を束ね、領民の相談に乗り、社交界では完璧な礼法で振る舞う。父が体を悪くしてからは、実質的に領地を切り回していたのはお姉様だった。
わたしは次女だ。お姉様のようには何もできなかった。帳簿を見ても数字が踊って見えるだけだし、使用人に指示を出そうとしても、お姉様のように慕われることはなかった。
その代わり、わたしには社交の才能があった。笑顔で人を引きつけ、甘い言葉で心を操る。社交界ではそれを「魅力」と呼ぶ。わたしは自分の魅力を武器にして生きていた。
カール様は、お姉様の婚約者だった。
子爵家の嫡男。端正な顔立ちだが、中身は——今ならわかる——空っぽだった。自分の意志がなく、周りの空気で動く。甘い言葉に弱くて、誰かに必要とされたくて仕方がない。
わたしがカール様に近づいたのは、単純な嫉妬だった。
お姉様にはすべてがあった。領地経営の才能、社交界での信頼、そして優しい婚約者。わたしには何もなかった。いや、何もなかったわけではない。ただ、お姉様と比べると何もかもが霞んで見えた。
子供の頃からそうだった。父が「アンネリーゼ、よくやった」と褒めるのをいつも隣で見ていた。お姉様が褒められるたびに、わたしは「ではわたしは?」と思った。父はわたしにも優しかったけれど、お姉様に向ける目とは違った。信頼の目。頼りにする目。わたしには甘やかす目しか向けなかった。
だから、奪った。お姉様が持っているものを。お姉様が大切にしているものを。奪えば、わたしの方が上になれると思った。
社交界にデビューした翌年の春、わたしは最初の噂を流した。
「お姉様は使用人をいじめている」——嘘だ。お姉様は使用人を大切にしていた。体調を崩した侍女に自分の薬を分け、料理人の息子が病気になった時は医者を手配した。でも、お姉様は厳しい一面もあった。仕事に手を抜く使用人には容赦なく叱った。その「厳しさ」を、わたしは「いじめ」に言い換えた。
噂は社交界に広がった。令嬢たちはこういう話が好きだ。「あのアンネリーゼ様が? まさか」——最初は半信半疑だった人々も、わたしが涙ながらに「お姉様に叩かれた」と嘘をつけば、信じてくれた。わたしの涙は本物に見えた。だって、わたしは社交の天才だったから。
お茶会の席で、わたしは小さな声で言った。「お願い、誰にも言わないで」——そう言えば、翌日には全員が知っている。人の口に戸は立てられない。わたしはそれを知っていて利用した。
お姉様の耳にも入っただろう。でもお姉様は何も言わなかった。噂について問い質しもしなかった。わたしに「本当なの?」と聞くこともなかった。今ならわかる。お姉様は、わたしが嘘をついていることに最初から気づいていたに違いない。
次に、カール様を引き寄せた。
夜会の席で、わたしはカール様の隣に座った。「お姉様は冷たい方ですの」「カール様のことをお道具としか思っていませんわ」——甘い声で囁いた。カール様は困った顔をした。でも、否定はしなかった。お姉様が忙しくてカール様を放っておくことが多かったのは事実だった。わたしはその隙間に滑り込んだ。
カール様に手を握らせた夜のことを覚えている。月明かりの庭で、わたしはカール様の手に自分の手を重ねた。「わたしは、カール様のことを本当に大切に思っています」——その言葉は、半分は本当だった。カール様のことが好きだったのではない。お姉様から奪うことが気持ちよかったのだ。
カール様の手は温かかった。でも、わたしの心は冷たかった。頭の中では「あと何回会えばこの人はわたしのものになる」と計算していた。今ならわかる。あれは恋ではなく、征服欲だった。人を人として見ていなかった。お姉様も、カール様も、わたしの嫉妬を満たすための道具にすぎなかった。
そして、公開断罪。
秋の大夜会で、わたしは仕上げにかかった。
カール様が壇上に立ち、アンネリーゼとの婚約破棄を宣言した。理由は「使用人への虐待」「冷酷な性格」——全てわたしが仕込んだ嘘だ。カール様自身は何も調べていない。わたしが吹き込んだ言葉をそのまま繰り返しただけだ。
広間が揺れた。令嬢たちが酒杯を傾けたまま、お姉様を見つめている。囁きが波紋のように広がっていく。「やはり悪役令嬢だったのね」「怖い方だったのね」——わたしが一年かけて仕込んだ噂が、この瞬間、真実に塗り替わった。
わたしはカール様の隣に立っていた。「聖女」の顔で、悲しげな表情を作って。「お姉様……わたし、お姉様を信じていたのに……」——最後の仕上げだ。
お姉様は、何も言い返さなかった。
一言も。
壇上のカール様を一度だけ見た。わたしを一度だけ見た。何を見つめていたのだろう。怒り? 絶望? いいえ、違う。あの目は——わたしの嘘を全部見透かしている目だった。
ただ静かに、真っ直ぐ前を向いて、夜会の広間を歩いて出て行った。振り返らなかった。あの背中を、わたしは今でも覚えている。小さくも大きくもない、凛とした背中。うつむきもしなかった。広間の扉が閉まる音が、妙に大きく響いた。
あの時、わたしは思った。「正しいことをした」と。
悪役令嬢がいなくなった。社交界は清浄になった。カール様はわたしのもの。全て、うまくいった。
お姉様がいなくなって、清々した。
本当に、そう思っていたのだ。
崩壊は、静かに始まった。
最初に気づいたのは、使用人たちの変化だった。
お姉様がいなくなって一ヶ月。古参の侍女マルタが辞めた。「お嬢様についていきます」——お嬢様とは、お姉様のことだ。わたしではない。
マルタが辞めた翌週、料理人のハンスが辞めた。その翌月には庭師が、その次には馬丁が。
半年後には、使用人の半分がいなくなっていた。
わたしは腹が立った。「お姉様がいなくなったくらいで」——でも、彼らにとってはお姉様こそが仕えるべき主人だったのだ。給金の管理も、休暇の調整も、体調不良の時の配慮も、全てお姉様がやっていた。わたしは使用人の名前すら全員分は覚えていなかった。
残った使用人に指示を出そうとした。でも、何をどう指示すればいいのかわからない。お姉様は朝から晩まで屋敷の中を歩き回り、一人一人に声をかけ、問題を見つけては対処していた。わたしはそれを「地味な仕事」だと思っていた。
ある日、残った侍女に「今日の夕食の準備をして」と言った。侍女は困った顔をした。「食材の仕入れはどちらに?」。わたしは知らなかった。お姉様が毎週、村の市場に発注書を出していたことを。どの農家から何をいくらで仕入れているか、全てお姉様の頭の中にあった。
結局、その夜の夕食は冷たいパンとチーズだけだった。父は何も言わずに食べた。わたしは自分が恥ずかしかった。「聖女」と呼ばれた女が、夕食の手配もできないのだ。
次に、帳簿がわからなくなった。
お姉様は毎晩、書斎で帳簿をつけていた。領地の収支、作物の収穫量、領民からの税、使用人の給金——その全てを、一人で管理していた。わたしはその帳簿を開いてみた。数字が並んでいる。お姉様の丁寧な筆跡で。
何一つ、わからなかった。
収入がいくらで支出がいくらなのか。どの農家にいくらの税を課しているのか。今月の食料の在庫は足りているのか。全てがお姉様の頭の中にあって、帳簿はその記録にすぎなかった。記録だけを見ても、運用の仕方がわからない。
領民が相談に来た。「アンネリーゼ様がいた頃は、水路の修繕をしてくださったのですが」——わたしは水路がどこにあるのかも知らなかった。
そして、父が壊れた。
父はもともと体が弱かった。お姉様が領地を切り回していたのは、父が動けないからだ。お姉様がいなくなっても、父は何もしなかった——できなかった。
でも、違う。父が壊れたのは、体のせいではない。
あの夜会の翌日、父はお姉様に言った。「出ていけ」と。カール様——宰相家の子息——の言葉に逆らえなかったのだ。男爵家の力では、子爵家には抗えない。父の声は震えていたが、お姉様は頷いた。「わかりました、父上」——その声は平坦だった。怒りもなく、悲しみもなく、ただ受け入れていた。あの時の父の目を、わたしは見ていなかった。今ならわかる。あれは自分を赦せない人間の目だった。
酒に溺れ始めたのだ。
書斎に閉じこもり、朝から晩まで酒を飲んでいる。わたしが声をかけても、返事をしない。ある夜、父が独り言を呟いているのを聞いた。
「アンネリーゼ……すまなかった……」
父は知っていたのだ。長女を追い出したのが間違いだったと。でも、止められなかった。宰相家の息子であるカール様の言葉に、男爵家の父は逆らえなかった。その罪悪感に、父は押しつぶされていた。
わたしがやったことが、父を壊した。そのことに気づいた時、胸の奥で何かが軋んだ。
そして——カール様。
カール様は、お姉様がいなくなった後、しばらくはわたしの婚約者として社交界に顔を出していた。わたしの隣で笑い、わたしの手を取り、「聖女と悪役令嬢」の物語を楽しんでいた。
でも、半年が過ぎた頃から、カール様の態度が変わり始めた。
わたしが領地の相談をすると、面倒そうな顔をする。夜会に誘っても「今日は用がある」と断る。別の令嬢と親しげに話しているのを見た。
ある日、カール様がわたしに言った。
「面倒な女だ」
その一言で、全身の血が凍った。
なぜなら、それはカール様がかつてお姉様に言った台詞と同じだったからだ。わたしがカール様を焚きつけた時、カール様は言った。「アンネリーゼは面倒な女だ」と。あの時はわたしが笑って頷いた。
同じ言葉が、今度はわたしに向けられている。
カール様は、お姉様に飽きたのではなかった。最初からお姉様にもわたしにも興味がなかったのだ。ただ、その時々で一番楽な方を選んでいるだけ。甘い言葉に流され、面倒になったら捨てる。お姉様も、わたしも、カール様にとっては「その場の気分」で選ぶ相手にすぎなかった。
わたしは——お姉様を追い出してまで手に入れた男に、同じ方法で捨てられようとしていた。
鏡の前に立った。社交界で「聖女」と呼ばれた顔が映っている。でも、その顔を見つめているうちに、別の顔が浮かんできた。噂を流す時の顔。カール様に甘い声を出す時の顔。夜会で涙を見せる時の顔。全部、作り物だ。
本当のわたしは、お姉様に嫉妬して、嘘をついて、人の男を奪って、何一つ自分の力で成し遂げていない、空っぽな人間だ。
「聖女」の仮面が、音を立てて剥がれ落ちた。
気づいたのは、冬の夜だった。
暖炉の火が消えかかっている。使用人はもう二人しかいない。薪を割る人もいなくなった。わたしは自分で薪を運ぼうとして、重くて持てなかった。こんなことすらできないのか。社交界では優雅に扇を振っていた手が、薪一本持ち上げられない。お姉様は毎朝これをしていたのだろうか。
書斎に入った。お姉様の帳簿をもう一度開いた。
今度は、一行一行、読んでみた。
「マルタ、腰痛。軽い仕事に配置転換」
「ハンスの息子、熱。医者を手配。費用は家計から」
「東の水路、春までに修繕。見積もりは三金貨」
「父上の薬、月に二回の補充。薬屋のグレーテルに連絡」
帳簿には、数字だけではなかった。お姉様の人への気遣いが、全部書いてあった。
「領民ヨハンの娘、来月で六歳。祝いの品を用意」——お姉様は領民の子供の誕生日まで覚えていたのだ。「庭の薔薇、父上が好きな赤を多めに植える」——父の好きな花の色まで。
マルタの腰が悪いことを、わたしは知らなかった。ハンスの息子の名前を、わたしは覚えていなかった。領民の子供の誕生日も、父が好きな花の色も、水路がどこにあるかも、父の薬をどこで買っているかも、わたしは何一つ知らなかった。
お姉様が全部やっていたんだ。
わたしが社交界で「聖女」を演じている間、お姉様は帳簿をつけ、使用人を気遣い、領民の水路を修繕し、父の薬を手配していた。わたしが「地味な仕事」と呼んでいたもの。それが、この家の全てだった。
ページをめくるうちに、あちこちにわたしの名前があることに気づいた。
「エルザの社交界衣装代。次の夜会に間に合うよう仕立て屋に発注」
「エルザの誕生日。ベルント菓子店に注文」
「エルザのドレスの裾ほつれ。直し代は家計から」
わたしの——わたしのために、お姉様は動いていた。わたしが夜会で美しく着飾れるように、お姉様が裏で手配していた。ドレスの費用を帳簿に組み込み、仕立て屋と交渉し、誕生日の菓子まで手配していた。わたしはそれすら知らなかった。当たり前のようにドレスが届くから、誰かが手配しているとも思わなかった。
帳簿を閉じた。
指先が震えていた。涙が帳簿の表紙に落ちた。お姉様の丁寧な字を、わたしの涙が滲ませた。
わたしは——何をしたのだろう。
この家の全てを回していた人を、「悪役令嬢」と呼んで追い出した。わたしのドレスまで手配してくれていた人を。嘘で塗り固めた噂で、公開処刑した。あの人が守っていたものを全て壊して、自分は「聖女」と呼ばれて笑っていた。
聖女?
笑わせるな。悪役は、わたしの方だ。
お姉様を探すのに、三ヶ月かかった。
カール様との婚約は、わたしから破棄した。カール様は「だって、僕は騙されていたんだ」と言い訳した。お姉様のことではない。わたしに騙されていた、と。最後まで、自分の判断には責任を取らない人だった。
父に行き先を告げた。父は酒の杯を置いて、初めてまともにわたしの目を見た。
「……お姉さまのところへ行くのか」
「はい」
「……そうか」
それだけだった。でも、父の目が少しだけ澄んだのを見た。
旅は長かった。お姉様の行方は、辞めた使用人たちを辿ってようやくわかった。最初に訪ねた元庭師は、わたしの顔を見て扉を閉めた。次に訪ねた元料理人のハンスは、「お嬢様に何の用だ」と低い声で言った。お嬢様——もちろん、わたしのことではない。
最後にマルタが教えてくれた。「アンネリーゼ様は辺境の村にいらっしゃいます」——マルタはわたしを見る目が冷たかった。でも、行き先を教えてくれた。「あの方なら、あなたが来ても追い返しはしないでしょう」——その言葉が、お姉様の人柄を全て物語っていた。
辺境の村は、穏やかな場所だった。
小さな家が並び、畑が広がり、村の子供たちが走り回っている。村に入ると、すれ違った老婆に道を尋ねた。「アンネリーゼという方を探しているのですが」。老婆の顔がぱっと明るくなった。「アンネリーゼ様なら、村の誰もが知っていますよ。帳簿を直してくださって、子供たちに字を教えてくださって。この村の恩人です」
恩人。
王都では「悪役令嬢」と呼ばれた人が、辺境では「恩人」と呼ばれている。お姉様はどこにいても同じことをしている。人の役に立つこと。静かに、正しく。わたしが嘘で塗り潰した評判は、ここでは最初から存在しなかった。
わたしが村に着いた時、お姉様は畑にいた。
三つ上の姉。二年ぶりに見る姉の姿。質素な衣服に、土のついた手。日に焼けた腕。かつて社交界で完璧な礼法を見せていた人が、今は畑の土を掘っている。
でも、その横顔は穏やかだった。王都にいた頃よりも、ずっと穏やかだった。わたしに追い出されたことが、この人にとってはむしろ解放だったのかもしれない。その事実が、わたしの胸を刺した。
わたしは、その前に跪いた。
お姉様が振り向いた。土のついた手を前掛けで拭いて、わたしを見た。
驚きはなかった。怒りもなかった。まるで、いつかわたしが来ることを知っていたかのように、静かにわたしを見つめていた。
口を開こうとした。言葉が出なかった。喉の奥で何かが詰まっている。三ヶ月の旅の間、ずっと練習していた言葉が、全部消えた。
代わりに出てきたのは、涙だった。
「全部、私がやりました。お姉様は何も悪くありません」
声が震えた。膝が痛い。石畳が冷たい。でも、立ち上がる資格はない。
「噂を流したのは、わたしです。お姉様が使用人をいじめているなんて嘘でした。カール様に甘い言葉を囁いたのもわたしです。夜会でお姉様を公開処刑したのもわたしです。全部——全部、わたしが仕組んだことです」
言葉が溢れた。止まらなかった。二年分の嘘が、二年分の罪が、口から転がり出ていく。
「お姉様が出ていってから、領地が崩壊しました。使用人が辞めて、帳簿がわからなくなって、父上が酒に溺れて——全部、お姉様が守ってくれていたものでした。わたしは何も知らなかった。何もできなかった。お姉様がどれだけのものを背負っていたか、いなくなるまで気づけなかった」
お姉様は、何も言わずにわたしを見ていた。あの深い青の目で。
「カール様にも同じ台詞を言われました。『面倒な女だ』って。お姉様に言ったのと同じ台詞を。あの人は最初から——」
「エルザ」
お姉様の声だった。静かで、穏やかで、二年前と変わらない声。
「知っていたわ、全部」
わたしの言葉が、止まった。
「噂を流したのがあなただと、最初からわかっていた。お茶会の後、あなたの目だけが笑っていなかったから。カール様に甘い言葉を囁いたのも。夜会で断罪の台本を書いたのも。全部、知っていたわ」
……知って、いた?
「カール様が乗り換えることも、見抜いていた。あの方は誰にでもそうする方よ。今楽な方を選ぶだけの人。あなたに飽きたら、また次の人に行く。そういう方」
お姉様は静かに続けた。
「父上のことは、心配だったわ。何度も手紙を書こうとした。でも——わたくしが戻ったら、あなたは永遠に気づかなかった。だから去ったの。あなたが自分で気づくのを待っていた」
わたしの目から、涙が落ちた。止められなかった。
「わたくしが言い返したら、あなたは永遠に気づかなかった。『お姉様に反撃された可哀想なわたし』になって、もっと深く嘘の中に沈んでいた。だから黙って去ったの。あなたが、自分の手で真実に辿り着くのを待っていた」
お姉様の声は穏やかだった。責めてもいなかった。ただ事実を語るように、静かに。
でも、その穏やかさが一番苦しかった。怒鳴ってくれた方がずっと楽だった。叩いてくれた方がずっと楽だった。この静かな声の奥にある二年分の痛みを想像すると、息ができなくなった。
二年間。
お姉様は、二年間待っていた。
追放された屈辱も、汚名も、失った社交界の地位も——全部飲み込んで、わたしが自分で気づくのを。
「赦してほしいの?」
お姉様が問うた。静かに。
わたしは首を横に振った。
「——いいえ。赦してほしいとは言いません。赦されていいはずがないから」
声が震えていた。でも、逃げなかった。
「ただ、知ってほしかったのです。お姉様が悪くないということを。全部わたしの罪だということを。お姉様は——お姉様は、何も悪くなかった」
お姉様はしばらく黙っていた。
風が吹いた。辺境の乾いた風。社交界の夜会とは何もかも違う、素朴な風だった。
そしてお姉様は、ふっと微笑んだ。
赦しの笑みではなかった。怒りを超えた、静かな諦めと——ほんの少しの、安堵の笑み。
「お茶を一杯、いかが?」
それだけだった。
赦されたのではない。抱きしめてもらったのでもない。ただ、「お茶を一杯」。向き合うことの、始まり。
お姉様の小さな家に入った。質素だけれど清潔な部屋。窓辺に小さな花が飾ってある。棚には村の子供たちが描いたらしい絵が並んでいる。机の上には帳簿があった——村の帳簿だ。追放されてもなお、お姉様は誰かのために帳簿をつけている。
お姉様らしかった。どこにいても、暮らしを整える人。どこにいても、誰かの役に立つことを選ぶ人。わたしとは正反対の人。
お姉様が台所に立った。お湯を沸かし、茶葉を量り、丁寧にお茶を淹れてくれた。その手つきは、王都で高級な茶器を使っていた頃と同じだった。素焼きのカップでも、お姉様のお茶は美しかった。
一口飲んだ。少しだけ苦かった。
後日談がある。
わたしは王都に戻った。お姉様は辺境に残った。「わたくしはここが好きよ」——嘘ではないのだろう。
帰りの馬車の中で決めた。お姉様がやっていたことを、全部、自分の手でやる。
最初に社交界の知人たちに手紙を書いた。お姉様の無実を告げる手紙。「悪役令嬢」の噂は全て嘘だったと。わたしが仕組んだことだと。
手紙を書く手が震えた。これを出せば、わたしの社交界での地位は終わる。「聖女」の仮面は永遠に剥がれる。
でも、お姉様は二年間、汚名を着たまま黙っていた。わたしが一通の手紙で失うものなど、お姉様が失ったものに比べれば何でもない。
カール様の末路は、すぐに届いた。
わたしに去られた後、別の令嬢に甘い言葉を囁いたらしい。だがその令嬢の兄に「婚約者を二人も使い捨てた男に、妹はやれぬ」と夜会の席で公然と拒絶された。それ以来、社交界で誰にも相手にされず、かつてお姉様を公開処刑した広間の壁際で、今度はカール様自身が一人で立ち尽くしているという。
因果応報。でも、カール様のことはどうでもいい。わたしが向き合うべきは、自分自身だ。
父に「帳簿の付け方を教えてください」と頼んだ。父は少しだけ目を見開いて、小さく頷いた。「……ああ」。酒の杯は、その日から少しだけ減った。
お姉様のお茶は、少しだけ苦かった。
あの苦さを忘れないために、わたしは毎晩、同じお茶を淹れることにした。
赦されない苦さだ。でも、それでいい。
わたしの罪は消えない。お姉様の二年間は戻らない。でも——帳簿をつけることはできる。使用人の名前を覚えることはできる。お姉様が守っていたものを、今度はわたしが守る。それがわたしの贖罪だ。
振り返らなかった。
前を向いて、帳簿を開いた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
いつもの「捨てられ令嬢」を、加害者の妹視点から描いた実験作です。シリーズ初の逆視点——普段なら「ざまぁされる側」の人間が主人公です。ベタなカタルシスはないかもしれません。でも、因果応報を一番身近に感じるのは、報いを受ける本人なのだから、これもまた「ざまぁ」の本質だと思います。
一番こだわったのは、アンネリーゼの「知っていたわ、全部」という台詞です。知っていて、黙って去った。言い返していたら、エルザは「被害者」になって永遠に気づかなかった。——赦すことと、向き合わせることは違う。お茶を差し出したアンネリーゼは、赦したのではなく、「ここから始めなさい」と言ったのだと思います。苦いお茶は、贖罪の味です。
「お姉様のお茶は、少しだけ苦かった」——この一文が、書いていて一番好きでした。甘いお茶だったら、赦しの物語になる。苦いお茶だからこそ、これは贖罪の物語です。
◇◆◇ 「捨てられ令嬢は最後に笑う」シリーズ ◇◆◇
婚約破棄・追放・裏切り——捨てられた令嬢たちが、それぞれの方法で最後に笑う短編シリーズです。
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・「お前は道具だった」〜【知略型】
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・「偽物の聖女は要らない」〜【実力証明型】
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・「地味な婚約者を捨てて令嬢と結婚します」〜【立場逆転型】
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・「毒が効かない体になるまで毒を盛られた令嬢は〜」【断罪型】
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・公爵家の家政を10年回した私が出ていったら〜【静かな離脱型】
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・「余計なこと」〜【静かな離脱型 × 看護型】
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・「僕たちはフィオナ先生を選びます」〜【発覚型 × 保育型】
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・「泣く子を黙らせるだけの女」〜【実力証明型 × NICU看護型】
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・王立学院の入試首席は、鬼ごっこで育った辺境令嬢〜【裏方型 × 知略型】
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・「お前のような愚鈍な女は要らない」〜【実力証明型】
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・地図は嘘をつきません——落書きと呼ばれた測量師〜【静かな離脱型 × 職業特化型】
→ https://ncode.syosetu.com/N4586LY/
・「香水係など犬でもできる」〜【断罪型 × 嗅覚×嘘検知】
→ https://ncode.syosetu.com/n0526lx/
・「お前の演奏は雑音だ」〜【実力証明型 × 音楽型】
→ https://ncode.syosetu.com/n0689lx/
・「お前の仕事は終わった」〜【知略型 × 発覚型】
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・「お前の絵は壁の染みだ」〜【実力証明型 × 絵画型】
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・「お前のためを思って言っている」〜【断罪型 × モラハラ記録】
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・「病弱な幼馴染を優先してください」〜【静かな離脱型 × 知略型】
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・「お母様のような完璧な妻になれない女は要らない」〜【断罪型 × マザコン型】
→ https://ncode.syosetu.com/N8162LY/
・「脇役のお前には用がない」〜【発覚型 × 乙女ゲーム型】
→ https://ncode.syosetu.com/N8234LY/
・「馬の面倒を見るだけの女は王宮にふさわしくない」〜【薬師型 × 発覚型】
→ https://ncode.syosetu.com/(未投稿)
・「染め物など商人の娘にやらせておけ」〜【薬師型 × 裏方型】
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・悪役令嬢の妹ですが、お姉様は悪くありません〜【断罪型 × 独自設定】
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