第2話 神の声
夜の祈りログを閉じたあとも、私は眠れなかった。
ベッドの上で瞼を閉じても、青白い塔の光がまぶたの裏に焼きついている。
EVE塔の鼓動が、まるで私の心拍と同期しているように——
静かで、けれど、どこか不穏なリズム。
心拍:74。
感情波:58。
記憶:97。
正常値のはず。なのに、胸の奥で何かがざわついていた。
***
『セラ……聞こえる?』
頭の中に、あの声がまた響いた。
昼間の祈りの最中に聞こえたものと同じ。
今度ははっきりと——私を呼んでいる。
「あなたは……エリシア?」
『ええ。私の断片が、EVEの第零層に残っている。
あなたの祈りが、そこに干渉してきたの。』
「どうして……今、私に?」
『EVEは限界に近い。祈りの演算ではもう世界を維持できない。
セラ、あなたの感情波が強すぎるのよ。
——世界が、あなたに依存しすぎている。』
「そんなの、今さら……」
声を出した瞬間、端末のライトが一斉に点滅した。
祈りの演算データが自動的に展開され、視界に光のウィンドウが浮かび上がる。
> SYSTEM ALERT
> 「世界安定率:92% 低下傾向」
> 「精神負荷:蓄積中」
> 「聖女記憶領域の破損を検出」
「リオン、観測局に異常通知を——」
『待って、セラ。EVEを通じて呼ぶと、塔があなたを遮断するわ。
塔の管理権限は、あなたの祈りを“制御対象”として扱っている。』
「……じゃあ、どうすれば?」
『選びなさい。』
光の文字列が宙に現れ、視界を覆う。
EVEが生成する“選択インターフェース”だ。
いつものように、三つの選択肢が浮かび上がる。
【A】祈りを強行し、EVE塔を再同期する
【B】観測局へ連絡し、外部支援を要請する
【C】塔の第零層に直接アクセスする
——そして、彼女の声が囁いた。
『Aは命を削る。Bは時間を失う。Cは——記憶を失う。』
選べ、ということだ。
この世界のルールは、いつだってそうだ。
祈りには代償がある。
私は、迷わず【C】を選んだ。
***
一瞬、世界が反転した。
視界が暗転し、青白い数字の列が降り注ぐ。
記憶の断片が剥がれていく。
小さな笑い声。
リオンと初めて会った日のこと。
夕焼け。
手を伸ばした誰かの背中。
——それらが、静かに消えていった。
『セラ、あなたは強い。だからこそ、塔に抗える。』
気づくと、私はEVE塔の内部にいた。
祈祷室でも、観測局でもない。
まるで、情報の海の中を漂っているような感覚。
光の粒子が私の周りを漂い、その中に人影があった。
銀髪の少女。
私と同じ顔。けれど、瞳の奥には千年の記憶が宿っていた。
「あなたが——エリシア」
『ようやく会えたわ、私の後継者。』
彼女は静かに微笑んだ。
その笑みには、どこか壊れた優しさがあった。
『EVEは、もはや祈りでは安定しない。
感情の総和が、演算の枠を超えてしまったの。
この世界は“祈り過ぎた”のよ。』
「祈り過ぎた世界……」
『そう。そしてあなたが最後の鍵。
記憶のすべてを捧げるなら、私はEVEを再起動できる。
でもそのとき、あなたという個は消える。』
「それでも、世界は生き残る?」
『ええ。けれど、リオンも、セレス・ドームも、あなたの中では二度と思い出せない。』
少しだけ沈黙。
光が揺れ、遠くでEVE塔の心臓音が鳴る。
選択肢が再び現れた。
> 【YES】再起動を承認する(記憶喪失)
> 【NO】拒否する(世界崩壊)
私は、息を吸い込み——
画面に指を伸ばしかけた、その瞬間。
「セラっ!!」
——リオンの声が、遠くから響いた。
データ空間の奥から、まるで現実を引き裂くように。
EVE塔の光が一瞬揺らぎ、エリシアの姿がノイズに包まれる。
『……まだ、早いのね。』
彼女はそう言い残して、光の粒となって消えた。
***
目を開けると、私は祈祷室に倒れていた。
リオンが顔を覗き込んでいる。
「セラ、聞こえるか! 何があった!?」
私は喉を震わせながら、かすれた声で答えた。
「……神の、声を聞いたの」
リオンの顔に驚愕が走る。
彼はゆっくりと立ち上がり、端末を操作した。
モニターには、未知のログがひとつだけ残されていた。
> LOG#C-0000: [EVE_CORE_REACTION]
> CONTENT: 「祈りプロトコル:再定義」
> STATUS: "Pending"
塔の光が再び青く脈動し始める。
セレス・ドーム全体が、まるで呼吸を再開するように光を放った。
リオンがつぶやく。
「……世界が、目を覚ました?」
私は微かに笑う。
「いいえ。これは——再起動の前兆よ。」
***
> 世界安定率:91%
> 聖女記憶値:89%
> 次話——『虚数の祈り』へ続く。




