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夏なので涼しくしたい
春から大学に通うため、この街に越してきた。
借りたのは、築二十年の木造二階建てアパート。六畳のワンルームにミニキッチン、ユニットバス付き。
駅から徒歩十分で、家賃は相場より二割ほど安い。
内見したとき、壁紙こそ少し日焼けしていたが、床は新しく張り替えられ、隣室の物音もほとんど聞こえない。立地を考えれば、悪くない物件だった。
引っ越して数週間。
授業やバイトに追われ、ようやく生活が落ち着き始めた頃、スマホに妙な広告が表示された。
──ワイヤレスイヤホン、九百八十円。
有名メーカーのロゴ入りで、光沢のある黒い筐体が映っている。どう見ても安物には見えなかった。定価を調べると二万円を超えるモデルだ。
「……偽物か、盗品か?」
そう思いながらも、指は購入ボタンを押していた。
数日後、ポストに小さな段ボールが届いた。
中から出てきたのは、広告写真そのままのイヤホン。
表面には傷は少しあったが、許容範囲で、充電ケースを開けると、ふっと甘い匂いがした。
香水か柔軟剤のような、どこか女性的な香りだった。
耳に装着すると驚くほど軽く、音質もクリアだ。
ノイズキャンセリングをオンにすると、周囲の雑音がすっと消える。
「千円でこれはやばいな」
それから俺は通学中もバイトの行き帰りも、ほとんど一日中これを耳に入れるようになった。
⸻
違和感を覚えたのは、ある夜のことだ。
授業とバイトで遅くなり、シャワーを浴びたあと、ベッドに寝転んでイヤホンでヒーリング音楽を流していた。
まぶたが重くなり、半分眠りかけたとき、曲と曲の間のわずかな無音の隙間で──小さく「ふんふん……」という鼻歌が聞こえた。
一瞬、ラジオか何かと思った。
だが、鼻歌はBGMが始まると消え、曲が終わるとまた戻ってくる。
耳を澄ますと、その奥で水道の水が流れ、包丁がまな板を叩く軽快な音がする。
食器の触れ合う乾いた音も混じっていた。
「……隣の部屋かな」
だが、ノイズキャンセリングを使っているのに、そんな生活音が入るのはおかしい。
しかも音は左右どちらかに偏らず、耳の奥に直接響くような感覚だった。
翌日も、その翌日も、その音は聴こえた。
水道、食器、電子レンジの「チン」。
くぐもったテレビの笑い声、洗濯機の低い唸り。
不思議と怖くはなかった。
むしろ、耳の奥に小さな秘密を見つけたようで、心が温まった。
どこかで一人の女性が暮らしている。
その気配を、誰にも知られず聴ける。
そんな背徳感が恐怖感より優った。
その夜から、俺は寝る前にイヤホンを装着し、音に耳を澄ますのが日課になった。
⸻
灯りを落とし、ベッドに横たわり、目を閉じる。
鍋の蓋がカタカタ揺れる音。
窓を閉める軽い衝撃。
鏡の前で櫛を通す細い髪の擦れる音。
ときどき混じる鼻歌は旋律らしい旋律を持たず、吐息のように短い。
洗濯物を畳む音、レトルトを湯せんする音、ゴミ袋を縛る音──。
ただ聴いているだけなのに、不思議と心が安らぐ。
ある夜、鼻歌のあとに窓を閉める音がした。
(‥‥ん?)
……その響きが、妙に聞き覚えのあるものだった。
金属の枠がわずかに震える──俺の部屋の窓特有の音。
偶然だと思った。
だが数日後、椅子を引く音が、自分の机の椅子のきしみと同じになった。
さらに食器を置く音も、自分のテーブルの反響音と変わらなくなった。
胸の奥がざわついた。
どう考えても偶然ではない。
……それなのに、夜になるとケースを開け、耳に差し込んでしまう。
聞かずにはいられない。
⸻
そして、その夜は来た。
大雨の夜。
イヤホンから、玄関の鍵の回る音がした。
カチャリ、とシリンダーが回転し、蝶番が軋む。
足音がフローリングを進み、机の横を通り──ベッドの方へ。
ベッドが、ふっと沈んだ。
息が詰まった。鼻歌が耳の奥で、直接響いている。
恐る恐る手を伸ばし、イヤホンを外す。
──外しても、鼻歌は止まらなかった。
現実の部屋の空気が、それで満たされていくように、すぐそばで。
◇
翌朝、昨夜のことを夢だと思い込もうとした。
だが机の上の充電ケースからは、甘い匂いがいつもより強く漂っていた。
バイト帰り、ふと大家に世間話を振った。
「この部屋、前はどんな人が住んでたんですか?」
「ああ……若い女の子だったよ。大学生。夜はよく鼻歌を歌っててね、感じのいい子だった」
大家は少し間を置き、声を落とした。
「二年前の夏、事故でね……帰ってこなかったんだ」
⸻
帰宅して、イヤホンを手に取る。
ブランドロゴは擦れ、傷の間に白い跡が入り込んでいる。
気になり調べると、すぐにとある記事がヒットした。
──「大学生女性、帰宅途中に交通事故。イヤホンをつけたままで、クラクションの音に気づかず」
小さな写真には、路上に転がる黒いイヤホンケース。
見間違えるはずがなかった。
幽霊っていると思いますか?
私はいると思います。