慟哭の彼方 4
慟哭の彼方シリーズ、終わりです。
霞は泣いていた。必死に声を押し殺し、それでも押さえきれない嗚咽が何回も吐き出される。
雪は緩やかに降り続け、髪の毛や肩に白い粒がたくさん積もっていた。
空は暗く、気温はどんどん下がるばかり。
朧は黙って霞を抱きしめ、細い髪に指を通している。
霞が語った"あの日の話"は朧にとっても決して気分の良い話ではない。
大人の男たちに捕らえられ、頭に袋をかぶせられて、トラックの荷台にある檻の中に入れられた。
そして、自分がいない所で勝手に値段をつけられて、耳たぶに穴を開けられた。
1億6200万円。
今ならそれがどれだけの大金か分かる。
そんな大金を払う"もの好き"のところに売り飛ばされるはずだったのだ。
この里に連れてこられ、霞と出会うことがなければ……。
朧はどこか他人事のように、あの日の事を捕らえていた。
今思い出したとて非常に不愉快であれど、怒りや悲しみといった感情はない。
母親が死んだことだってそうだ。
生まれてからずっと一緒にいた人が消えてなくなっただけで、自分がそれでどうにかなるわけではない。
恐らくきっと、霞に出会わなければ強い孤独を感じていただろうが、所詮その程度の感情でしかない。
そもそも人と過ごす温もりを知らない自分が、孤独を感じることができるのか。それすらちょっと怪しかった。
だが、どうしてだろう……。
朧は、自分の体にすがって涙を流す男に、酷く同情をしていた。
自分のことで感情は動かないくせに、彼の深い悲しみが、まっすぐ胸の中に入り込んでくる。
胸が痛かった。つらくて、悲しくて、心がどんどん冷えていくような気がした。なのに体中が熱くて、目の奥がジンとした。
しばらくすると、霞は鼻をすすりながら顔を上げた。
目と鼻を真っ赤にして、酷く醜い顔で恐る恐る朧の顔色を伺う。その目尻は甘く垂れ、どこか不安そうな眼差しだった。
朧は右手に握りしめたままのレースのハンカチで、霞の顔をぬぐう。
手つきこそ雑だが、肌に触れるハンカチは繊細で柔らかく、とても温かかった。
霞はじっと朧の顔を見つめた。
そして、朧の頭の左側に蝶々結びされている包帯を引っ張る。
包帯はするりと解け、さくらんぼのように鮮烈な赤が夜の闇にキラリと光った。
「……どうしてお前が泣いているんだ。」
霞は朧の乾いた頬に指を滑らせる。
朧は首を傾げた。
「泣いてる?涙は出てないわ。」
「いいや、泣いてる。今にも泣きそうだ。」
「それは……泣いてない。」
朧はふるふると首を横に振った。
目元を赤くし、眉間に小さなシワが刻まれている。
瞳を覆う水が、きらきらと輝いて、頬に1つの筋を生んだ。
霞は朧の体を強く抱きしめた。
ふわふわの髪を撫で、赤子をあやすように背中を叩くと、朧は体を小さく震わせた。
「分からない、分からないの。
何でこんなに悲しいのか、分からない。」
「……お前も、里に来るまでは苦労したんだろ?」
「違うの!私、そうじゃない。
私のことは、何も悲しくないの。
でも、霞に触れると、胸がきゅってして、目の奥がジンとして、とても悲しくなって……。」
朧はそれだけ言って、わあっと泣き出した。
霞の体を掻き抱き、胸に顔を埋め、ボロボロと大粒の涙をこぼす。
霞もまた、頬に一筋の涙をこぼした。
朧の頭に頬を寄せ、その背を撫でながら小さな涙をぽとりと落とした。
「朧……」
霞が静かに語りかけると、朧は顔を上げた。
霞の手が、外気で冷えた頬をそっと包み込み、親指で目の縁をなぞる。
彼女の瞳から絶えず溢れる涙は、あっという間に溢れ出し、霞の手を伝った。
「朧。」
もう一度、霞の唇が朧の名を形作る。
今度は、自分の中で噛み締めるように、愛おしいものを確かめるように呼んだ。
「朧。」
また名前を呼んだ。
霞の甘く、心地の良い低い声は、耳を通って骨にしっとりと染み込むような心地だ。
霞は愛おしい宝物を見るように、朧の目を見つめた。
そして、柔らかな唇が、ちゅっと朧の目尻に触れた。
「朧……。」
とろけるほどに声が甘い。
霞の目が、見たことないくらいに温かくて、優しくて、ケーキよりもずっと甘い熱がこもっている。
朧は体が小さく震えた。
指先がジンとしびれ、顔に熱が集まる。
うっとりと、とろけた瞳で霞の瞳を見つめ返した。
視線が交錯する。
何秒も、何分も、長い間2人の視線は絡み合った。
そして、霞は再び朧の体を抱いた。
暖かく、大きな体がすっぽりと朧の体を包み込む。
霞は、唇に柔らかく笑みを浮かべた。
「ありがとう、聞いてくれて。」
朧は霞のダウンジャケットを握りしめ、落胆したように言った。
「キスはしないの?」
すると霞は笑みを深め、くすくすと小さな声を上げた。
「バーカ。しねえよ。」
朧はむくれたように唇をとがらせ、茂みの向こうに視線を投げた。
霞はまだ笑っている。
「したかったら、さっさと背を伸ばせよ。」
朧は「へ?」と抜けた声を上げた。
「霞、それって……。約束してくれるの?
背が伸びたら、してくれるの?」
「……ああ。約束する。」
朧は顔を真っ赤にして、自分の胸をぎゅっと押さえている。
信じられないものを見るように目を大きく見開いて、口元はだらしなく緩んだ。
「ほんとに?絶対に?」
「俺が約束を破ったことあるか?」
朧は全力で首を横に振った。
霞はふっと息をこぼし、朧の頭に手を置いた。
「一生忘れられないような、とびきり甘いのをくれてやる。」
「ひゃあ……っ」
朧は小さな悲鳴を上げ、顔を手ですっぽり覆い隠してしまった。
それでもまだ、真っ赤な耳が隠しきれておらず、彼女の感情は全部筒抜けだった。
霞はニヤけた顔を隠しもせず、両手を後ろについてじっと彼女を見つめていた。
その時、ふと風の流れが変わった。
霞はハッとしたように後ろを振り向く。
今、何かが動いたような気がした。
気のせいだろうか……。
霞は上体を起こし、朧を膝に乗せたままキョロキョロと視線を巡らせた。
見渡す限りの闇。
しかし、確かに気配が存在する。
そのときだった。
風がふわりと流れた瞬間、微かに鼻をくすぐる匂いがした。
甘く、けれどどこかスパイシーで、木の皮のような乾いた香り。
湿った夜気の中に、ほんの少しだけ違和感を伴って漂っている。
「……この匂い」
朧は顔を上げ、霞を見つめた。
霞の瞳が微かに揺れ動く。
懐かしい。
目の端に涙が滲み、胸の奥がキュッと痛む。
「爺さんの匂いだ……。」
無意識に言葉が漏れた。
これは、自分が普段吸っている煙草の匂い。
けれどこの場で火をつけた覚えはない。
じゃあいったい誰の匂いなのか――明白だった。
霞は期待を込めてもう一度、闇の奥を見つめた。
重くも軽くもない、ただそこに漂う気配。
それはまるで、記憶が風に乗って形を成したかのように、霞をじっと見つめ返していた。
強く風が吹いた。
地面の雪が激しく舞い上がり、霞は咄嗟に目を閉じた。
冷たい風が皮膚を刺し、息を詰まらせる。
そこにキュッと雪を踏みしめる音が聞こえた。
音は1つずつ丁寧に、等間隔で聞こえる。
徐々に、徐々に、近づいてくる。
霞はうっすらと目を開けた。
激しく雪が舞い散る中、そこには確かに人の姿がある。
「爺さん……?」
甘えるような、願いを込めたような声に、気配は確かに動いた。
「霞。」
声がした。朧のものではない。
まるで"あの日"のように、懐かしくて、恋しくて、ずっと焦がれていた――。
「爺さん……!!」
風がやんだその瞬間、霞は目を開く。
目の前に、霞の祖父が……晴藤菊司が立っていた。
灰色の髪の毛、暖かく垂れた瞳、優しそうな笑い皺。
濃いねずみ色の絹の着物を上品に着こなして、彼は腕を組み霞を出迎えた。
彼は、"あの日"と何1つ変わっていない。
霞は祖父との再会を喜んだ。
しかし、彼は膝に朧を乗せたまま立ち上がろうともせず、悲しそうな目でじっと彼を見上げていた。
「……久しぶり。おじいちゃん。」
霞は子どもの時のように、甘えるように彼を呼んだ。
菊司は静かに目を細め、いたずらっぽく笑みを深める。
「久しぶりだね、霞。そちらのお嬢さんも。
おじいちゃんと呼ばれるのもずいぶんと久しぶりだね。」
「き、聞いてたの?」
霞が苦い顔を浮かべると、菊司は肯定も否定もなく笑顔を浮かべていた。
「さあ、それよりも……急いでお嬢さんの手当てをしよう。そのために里に来たんだろう?」
菊司の言葉に霞はハッとした。
「そうだ、爺さん。コイツを裏山の川に……。」
「分かっている。おいで。」
菊司は朧の体を抱き上げ、林道を登り始める。
霞はその背中をどこかぼんやりと見つめ、腰を上げた。
静まり返った林の中に、大小異なる2つの足音が響く。
のんびりとマイペースに歩む菊司の遥か後ろを霞は歩く。
無意識のうちに懐にしまい込んだタバコの箱を取り出し、その中の1本を口に咥えると、菊司は穏やかに語りかけた。
「霞、タバコを吸うのかい?」
「……あ、いや。別に、吸わないけど。」
咄嗟に霞は咥えていたタバコも箱も、体の後ろに隠した。
菊司は背を向けたままクスクスと笑った。
「怒ったりしないさ。私だって、若いうちから吸っていた。……親に隠れてね。」
「あ、そう。そうなんだ。」
霞の声に動揺が混じる。背中に変な汗もかいていた。
すると菊司は遠くを見つめるように、静かな声で言った。
「そのまま火をつけておくれ。煙が恋しいんだ。」
霞はしばらく無言で、菊司の背中を見つめた。
そして背中に隠したタバコを口に咥え、ライターで火を付ける。
ジリジリと先端が赤く燃え、紫色の煙が空に昇る。
菊司はぼんやりと空を見上げ、瞳に小さく影を落とす。
朧はその僅かな表情の変化をじっと見つめていた。
「さあ、霞。家に着いたよ。」
菊司は後ろを振り向き、朗らかに告げた。
霞は苦い顔を浮かべ、ほんの少し歩調を早める。
心臓がずっと、嫌な鳴り方をしている。
それを気取られぬように、モヤモヤとした感情を全部追い出すように、ゆっくりと煙を吐き出した。
いよいよ、林道を抜ける。
立ち止まった菊司の横を通り、かつて家のあった場所に目を向ける。
そこには、何もなかった。
里のあちこちに並ぶ廃虚のように柱があるわけでも、焦げた壁があるわけでもない。何1つ残っていない。
まるで、そこには始めから何も存在していなかったように、まっさらな大地のみがある。
霞は声が出なかった。
決してショックを受けたわけではない。
想像の真逆を行く光景に呆気にとられたのだ。
あんぐりと口を開け、飲み込みきれない現実を必死に咀嚼しようとしていた。
そこに菊司が言葉を足した。
「残してはいけないんだよ。だから私が、何も残らないようにした。里に残ってやるべきことがあるといっただろう?晴藤菊司の死を象徴するものは、あってはならないんだ。」
「……それはどうして?」
菊司は、柔らかく目を細める。
「まだ霞には早いよ。でもね、たとえ家がなくなったとしても、ここがお前の故郷には変わりないからね。家の代わりにはならないだろうが、私はこの地にずっと居る。帰りたくなったら、いつでも来なさい。」
「……うん。」
霞が小さく頷くと、菊司は特別明るい声で言った。
「おかえりなさい、霞。」
「……うん。ただいま。」
霞は口元に小さく笑みを浮かべた。
霞たちは家のあった土地からさらに奥に進む。
木が生い茂る小さな小道はゴツゴツと岩がむき出しになっている。菊司は朧を抱えながらもヒョイと軽く乗り越えた。
霞もその後ろに続き、飛び出した枝をくぐり抜け、足を滑らせないように慎重に歩みを進める。
すると、どこからかザアザアと水の音がした。
水が何かに強く打ち付けられるような、何かを叩き壊すようなその音は、遠雷のように低く響き、胸の奥を揺さぶるようだ。
霞には聞き覚えがあった。
暑い夏の日も、寒さの厳しい冬の日も、雨の日も雪の日も毎日訪れた修行の地。
足元の小道をたどり、朽ちかけた鳥居をくぐって進むと、水の音はどんどん激しくなる。
一見行き止まりに見える深い茂みを抜けると、目の前が大きく開けた。
滝だ――。
崖の上から垂直に落ち、激しい水しぶきを上げる滝と、そこから流れる大きな川。
空気がぴんと張り詰め、肌に感じる風すらもどこか清められているようで、水しぶきに濡れた岩がしっとりと艶めき、冷たく澄んだ気配を辺りに伝えていた。
川の向こうの石の上には小さな祠と、朽ちかけた結界の札がある。
この場所が、長く“人ではない何か”と共にあった証だった。
霞にとっては、幼い頃から何度も通った馴染みの場所だが、今こうして訪れてみると、その神聖な気配がどこか異様に胸を締め付ける。
すると突然、菊司は川辺でくるりと霞を振り返る。
口元に薄っすらと笑みを浮かべながらも、目つきは鋭く霞を睨みつけていた。
霞は心臓を大きく跳ねさせ、咄嗟に背筋を伸ばした。
「霞。」
菊司の声は静かに、しかし突き刺すような厳しさが滲んでいた。
「な、なんですか。」
「私が最後に教えたことを覚えているだろうね?」
「……なんだっけ。」
霞は2〜3度瞬きをして、空にすっと視線を逃がしてとぼけた。
朧の瞳に影が落ち、不安そうに霞を見つめる。
「この子に、気持ちを入れすぎるなと伝えたはずだよ。我々は決して、分かり合うことはできない。住む世界が違いすぎるのだ。」
霞は、咥えていたタバコを捨て、足の裏でぐりぐりと押さえつける。
表情をみるみる曇らせ、視線のみをちらりと菊司に向けた。
「……そうだね。思い出したよ。」
「彼女は人ではないし、人になることはできない。たとえ人のように見えたとしても、それは模倣か錯覚でしかない。彼女たちと私たちをつなぐ絆は、契約以外にはないんだよ。」
霞は曇った瞳で朧を見つめた。
さくらんぼ色の純真な瞳がまっすぐ霞を見つめ、不安そうに眉を下げ、唇をきゅっと引き結んでいる。
霞の胸に刺すような痛みが襲った。
そして彼は首を擦り、苛立ちを隠すことなく言った。
「悪いけど、それだけは聞けない。
朧は、里を出てから今日までの間、俺のたった1人の家族だった。それは明日も、何年先だって変わらない。」
「か、かすみ……」
朧は僅かに頬を染め、蕩けたような視線を向けた。
一方菊司はふっと表情を緩め、静かに口を開く。
「私も、同じ事を思っていたよ。やはりお前は私によく似ている。容姿も、才能も、物事の考え方もそうだ……。」
霞は眉をひそめ、菊司の顔をそっと覗き込む。
その表情から何も読み取ることはできない。
いったい彼は何の話をしているのか。同じ事を思っていたとはどういう意味だろうか……。
それを聞く勇気はなかなか持てなかった。
案の定菊司はその話を掘り下げることは一切なく、たちまち厳しい顔つきに戻り、キッパリと告げた。
「お前の好きにしなさい。ただし、私は忠告をしたからね。」
「……爺さんは、式神と何かあったのか?」
霞はたまらず問いかけた。
声は危うく裏返りそうになり、背中にはじっとりと汗がにじみ始める。
しかし菊司がその問いに答えるわけがなく、霞に歩み寄り、朧を受け渡した。
「さあ、川に入れておやり。ただこの子は妖怪だからね、霊力の源であるこの水はある意味毒だ。
害はないが……滲みるだろうね。」
「……痛いの?」
朧はか細い声を震わせた。
「痛いってさ。」
霞は一度朧を地面に置き、ダウンジャケットを放り、靴と靴下を脱ぐと、再び朧を抱え上げ川に足を踏み入れる。
キンッと刺すように冷たい水が、心臓を竦み上がらせた。
全身にぶわりと鳥肌が立ち、体中のあらゆる細胞が悲鳴を上げる。
霞は表情1つ動かさず、無心に川の中を歩んでいく。
川の真ん中まで行くと、水は腰まで浸かる深さになる。
そこで膝を折り、朧の体を水に浸す。
「ひゃああっ!!」
朧の体に、肌が焼け付くような冷たさが襲った。
体を大きく跳ねさせ、霞の体にぎゅっとしがみつく。
体中のありとあらゆる水分が凍りつくようだった。
痛みが肉を、骨を刺すようだった。
そして、傷口から水とは異なる何かが流入した。
熱い。マグマのように熱い何かが入ってくる。
血管の中を炎に包まれた蛇が這い上がっているかのようで、あまりの激痛に朧は鼓膜を破るような悲鳴を上げた。
「いやあああああああああッ!!!」
「冷たいよな。俺も一緒だから耐えてくれ。」
「いたい!あつい!いたい!!!!」
朧は瞳にいっぱい涙を浮かべ、それでも暴れることはせず、じっと霞にしがみつき耐えている。
呼吸は短く浅く、懸命に空気を吸い込もうと胸が激しく上下し、喉が引きつっている。
顔にびっしょりと脂汗を滲ませ、霞の体を掴む指はめり込み、血が細く伝っている。
1分、2分と長く果てしない時間が過ぎる。
霞の唇は青くなり、奥歯がガタガタと震えだす。
腕と背中は朧の爪が深く刺さり、いくつも引っかき傷をつけられ、じわりと血が滲んでいる。
朧はすっかり大人しくなり、声もあげずに口をぱくぱくと動かし続けている。涙ももう出なくなっていた。
その時だ。彼女の体から黒いインクのようなものが染み出した。
それは怪我の傷口からゆっくり揺らめきながら水面へ上り、じゅわりと溶け出している。
毒だ――。朧の体内に蓄積されていた毒が、傷口から体外へ排出されていく。
「朧、大丈夫か?」
霞が白い顔で問いかけると、朧は大きく首を横に振った。声はない。
「もう少し耐えてくれ。俺の体をどうしたって構わない。」
朧は小さく首を横に振る。
頭を霞の体に押し付け、大きく目を剥いて、唇から掠れた息を吐き出すことしかできない。
しかし、次第に朧の体中に散らばった傷が塞がり始めている。
毒の排出が終わった上半身は、完全に傷が癒え、傷口が深かった足も、次第に流れ出る毒の量が減りつつあった。
それからさらに1分程経つ頃には、毒は完全に消えていた。
足の傷はまだ癒えていないが、明日には完全にもとに戻っているだろう。
霞は立ち上がり、ふらつく足取りで川岸に上がる。
「うまくいったかい?」
菊司は尋ねた。
「ああ、毒の排出は終わった。あとは自然治癒で治るはずだ。」
霞は朧を岩の上に下ろし、上から霞のダウンコートを着せた。
「朧、大丈夫か?」
「……。」
朧は無言のまま頷いた。
目の焦点は合わず、体が小刻みに震えていた。
「すぐ火に当たれるところに行こう。爺さん、どこかに休めるところはあるか?」
「里の西にある林の中の作業小屋は無事だ。
そこなら火も使えるし、雪も風もしのげる。」
「城森さんの小屋だな。移動しよう。」
霞は手早く靴を履き、靴下をポケットにねじ込んで、再び朧を抱き上げ移動を始めた。
作業小屋までは15分。凍える体には遠く、しかし朧を休ませたい一心で、霞は無心に足を動かした。
晴藤邸跡、林道、茶畑を越え、深い林をひたすら進むと、目的の作業小屋が目の前に現れた
鍵などはなく、古びた鉄の扉は建て付けが悪く、朧を抱えながら開けることは難しかった。
どうにか扉をこじ開けると、そこには異様に綺麗な空間があった。
ほこりなどは落ちておらず、スイッチを押せば電気は当たり前のように点いた。
霞は朧を隣の部屋に連れていき、着替えを促すとすぐ元の部屋に戻ってきた。
扉を完全に閉め切り彼女の姿が見えなくなった途端、張り詰めていた糸がプツンと切れたように、霞の顔から血の気が引く。
全身の力が抜け、その場にへたり込みそうになるのを必死に堪えた。
凍える体に鞭を打ち、震える手でテキパキと暖炉の中に薪を放り込む。
マッチを擦る指先は感覚がなく、それでも何度も擦り続け、ようやくチッと小さな音を立てて火が点った。
火は薪に燃え移り、低い唸りを上げて部屋の空気を震わせる。
瞬く間に赤とオレンジの光が部屋の隅々まで広がり、闇の中に大きな人影がゆらゆらと揺れ動いた。
冷え切った霞の頬に、じわりと温かい熱が届き、全身の震えが少し和らぐ。
パチパチと薪が弾ける音が心地よく響き、乾燥した木の香りが微かに鼻をくすぐった。
霞は、ようやく暖炉の前の椅子に腰を下ろすと、深く大きく息を吐き出し、ぐったりと机に体を預けた。
その疲弊しきった姿を、入り口近くの椅子に腰を下ろした菊司が、炎の揺らめきを映すかのように温かい瞳で見つめていた。
「まるで、親子のようじゃないか。」
菊司の言葉に、霞は苦い顔を浮かべ、頭を掻いた。
「別に……これくらいは当然だよ。
それに俺もあいつも親子だなんて思ってない。
出会った時は俺も小さかったし、兄妹ってのも少し違う。それにあいつは俺のことを……」
霞が言葉を濁らせると、菊司は薄く笑みを浮かべた。
「お前を恋人のように慕っている。そうだろう?」
「あー……」
霞は困ったように眉を寄せ、頭を掻いた。
「……朧みたいな奴らってさ、いつか大人になったりすんの?」
霞は言い淀みながらも尋ねた。
その問いに、菊司の口元から僅かに笑みが消えた。
瞳に宿っていた温かい光がすっと陰り、眉間に微かな皺が刻まれる。
「さあね。種族によるとしかいいようがないね。」
菊司は淡々と答えた。
「あいつの母親は大人だった。それに、瘴気の濃い土地では朧も大人の体になっていた。一時的だけど。」
「……なるほどね。」
菊司は何もかも理解したような顔で頷いた。
その時、奥の部屋の扉が開いた。
朧はニットのワンピースに黒いタイツとショートブーツを合わせ、ふわふわと宙を飛び戻ってきた。
すると菊司は朧の瞳をじっと見つめて言った。
「霞、朧の目はいつもどう封じているんだい?」
「え?どうって……」
霞はびっしょりと濡れた服のポケットから包帯を取り出し菊司に見せる。
「包帯に4つの術を仕込んで、直接覆ってるだけだよ。
ひとつは石化の呪いを封じるための封印の術。
ひとつは俺以外が包帯を解けないようにする術。
ひとつは現在地を把握するための追跡の術。
あとは……朧の妖力が増えすぎないように抑える術。」
「お前が1人でやったのかい?」
「ああ。全部爺さんと父さんが教えてくれたやつだよ。麓の町で包帯を買ってからずっと、交換する度に同じ術を仕込んでいる。
そうしないと、朧を連れて歩けないから。」
「上出来だ……。」
菊司は包帯を手に取り、緩やかに目を細めた。
「……その妖力の抑制術、どこまで強く抑えている?」
「どこまでって……結構キツめにかけていると思うよ。万が一、朧が自力で封印を破いたりしないようにコントロールしている。」
霞が眉をひそめると、菊司は静かに言った。
「彼女たちは何をエネルギーにしていると思う?
我々が食事で栄養を蓄えるように、彼女たちの栄養は妖力であり、それこそが全てだ。
きっと、体が成長しないというのは、そこにあるのかもしれないね。」
「え?」
霞は唖然と菊司を見つめた。
「この包帯、最後に変えたのはいつだい?」
「前回は5日前くらいかな。2週間に1回変えている。それより早い時もある。」
「そりゃあ、強力だね。霞の霊力が強くなる度に、封印はより強化される。」
「あー……」
霞は苦い顔で朧を見つめた。
菊司はその後ろで、意地悪に目を細くした。
「あるいは、お前がそれを望んだのかもしれないね。
心のどこかで、ずっと変わらぬ存在でいてほしいと……。」
朧はくりくりとした瞳で霞を見上げた。
何かを期待するようにじっと見つめていると、菊司がふっと表情を緩めた。
「ちょうど、この小屋に救急箱がある。
包帯を新しくしてやりなさい。もうこいつは使い物にならないだろう。」
霞は菊司から古い包帯を受け取り、頷いた。
そして部屋の奥の棚を漁り、救急箱を引っ張り出し、包帯を手に取った。それを机の上に広げ、剣印を結び、ぶつぶつと小さく術を唱え始める。
「抑制術は従来の半分程度でいい。お前の封印術は強力だから、その程度で問題ないんだ。」
霞は唇を動かしながら頷いた。包帯が淡く光り、赤い文字が刻まれる。文字はすぐに消え、光も空気中に溶けるように無くなった。
「……出来た。」
霞は朧に向き直った。彼女は椅子に座り、期待に満ちた目で霞を見上げている。
「私、大人になれるの?本当に……?」
「さあな。お前が体内にどれくらい妖力を溜め込めるか次第だろ。」
霞は身を屈め、朧の目にくるくると包帯を巻き始める。
「……大人になってほしいと思う?」
朧の不安そうな声に、霞はしばらく返さなかった。
朧のさくらんぼ色の瞳をまっすぐ見つめたまま、包帯を巻き、その瞳を覆い隠していく。
「……どっちでもいい。」
ふと霞は声を漏らした。
包帯を巻き終え、顔の横に丁寧に蝶々結びをする。
「朧であることに変わりないだろ。」
そう言って霞は朧から顔を背けた。
微かに見える彼の耳が、ほんのりと赤く色づいていることを、朧は見逃さなかった。
朧は満足そうに口元に笑みを浮かべ、ぷらぷらと足を揺らす。
「……約束だよ。」
朧は、誰にも聞こえないくらいの小さな声でポツリとつぶやいた。




